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(回答先: 私の気持ちが分かっていただけますか。 投稿者 ヒゲダンディ 日時 2005 年 5 月 26 日 22:08:03)
そうだったんですね。
僅かな文章からでも、どんな心の持ち主かは結構分かるものですよ。
この世に生まれてきて、自分という意識に気が付く。
「自分がここに居る」そう気付き、さらには「どこからきてどこへゆくのか?」なんてことに思いを巡らすようになる。しかし、ここで人は大きく二つに分かれてしまう。
肉の自分と魂の自分という二つに。 この世に生まれて、何を感じるか?人には感覚があり、その感覚でこの世を感じ知るようになる。ところが、もう一つ感じるものが在る、それは心。心が喜ぶことが何よりも価値があると思うようになる人は、人生の岐路で「心」を価値判断の基準にする。ところが、五感という肉の感覚こそ至上のものと考えてしまう人は人生の岐路で肉を価値判断の基準にする。五感は肉によるために、多くの人は肉が基準になる。
ヒゲダンディさんが、何故「心」を基準にするようになったのか?それは分からないけれど、肉より心に、より高い価値を見出していることは間違いないでしょう。「見えないものの中にこそ本当の価値は存在する」。多分、ヒゲダンディさんの、そういったものの考えは後天的に気が付き身に付いたものではないような気がします。このあたりの話を掘り下げて行くと、オカルト的な話になってしまいますから止めますが、少なくとも相手、他人の笑顔を見ることは自分の心の喜びだということは間違いが無い。
自分の肉の感覚を満たすことも悦びではあるけれど、心の喜びとは比較にならない。
それが本当のことだと確認できるのが伴侶との出会いであり、伴侶との生活だろうと私は思っています。そして、子育ても同じ意味の確認作業であり、答え合わせだろうと思う。
自分より伴侶、子供を優位に思うという経験が「心、魂の喜びこそ至上のもの」ということに気付くためにあるように思えてなりません。
でも、そういった経験をする前から、心が基準の人も居る。ヒゲダンディさんもそんなお一人でしょうね。
結局、魂というものは「我」という「個」ではないのだろうと、思うようになりました。
肉体は個々人が別々で、肉の感覚はその肉体の持ち主しか感じない。だから心、魂も個々に分かれているのだと「錯覚」する。しかし、実は魂は個々に別個に存在しているのではなく、繋がっている、いや、元々一つのもの。だからこそ、相手を思いやるというのは、元々の自分を思うことと同じ、同じ魂を大切に感じるということだろうと思ってます。
「我」というのは錯覚なんだということです。
こんなふうな考え方をどう思われますか??
ヒゲダンディさんには実はもう一つのメッセージがあるんです。
このメッセージはこの掲示板で身の上話をされた頃に心に浮かんだメッセージです。
そのことは後日お話させていただきます。