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(回答先: Re: 81年にオランダ国立法科学研究所において本人が書いたものと結論付けられた 投稿者 bunbun 日時 2005 年 2 月 23 日 20:54:50)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98
日記のオリジナル性
作家志望だったアンネ・フランクは、手始めに自分の『日記』を出版することを考えており、書き溜めたものを推敲する作業を自ら進めていた。よって、日記にはオリジナル原稿と、彼女自身の清書による改訂稿の二つが存在する。これらはどちらも完全な形では残っておらず、アンネの死後、オットー・フランクによって、オリジナル原稿と改訂稿を相互補完する形で縮約編集された。言わば私家版である。
出版に当たっては、編集の過程で第三者によるさらなる本文の削除や訂正などがあった。削除箇所の多くは母親への辛辣な批判である。その他に第三者に関する批判(ファン・ペルス夫妻など)、若干の退屈なエピソード、性の目覚め、存命中の者のプライバシーを守るための配慮などがあった。上記のような編集が加えられたことにより、書店に並んだ日記はアンネ・フランクが書いたものと一字一句同一とはいえないが、内容は概ねアンネ・フランク自身のものと一致しており、1960年及び1981年の文書鑑定では、「これらの編集作業は日記のオリジナリティーを損なうものではない」と結論付けられた。作品は、戦時記録文、ノン・フィクションという枠を超えた日記文学として評価できる。
なお、削除箇所については後の版で増補されており、2004年現在、原テキストに近い形で刊行されている。
真贋論争
アンネ・フランクの日記は、主に政治的理由でそれを好ましく思わない人々から信憑性に対して攻撃を受け続けるという負の側面を持っている。曰く「偽書である」、「捏造である」。果ては著者やその周囲の者の人格への攻撃なども存在するが、それをここで論じるのは適切ではないだろう。
彼らの言い分は様々なバリエーションがあって多彩だが、主張の多くは「アンネ・フランクの日記は、父オットーと米国の作家であるメイヤー・レヴィンが共謀してでっちあげた。その対価としてレヴィンに5万ドルが支払われた」というものである。
『アンネの日記』の熱心な支持者であったレヴィンは、オットーと契約して1952年に『日記』を原作とした戯曲の脚本を手がけたが、脚本の出来と上演権を巡って齟齬があり、これがトラブルとなって裁判に発展した。偽作説をとる者のほとんどが、この舞台脚色における裁判の一部を恣意的に捻じ曲げて「アンネの日記はレヴィンの創作小説である」としているに過ぎず、これはもとより信用するに値しない。1958年ニューヨーク州最高裁で、陪審はレヴィンに対して5万ドルの損害賠償が支払われるべきとの判断を下したが、これは棄却され、翌年1万5千ドルの和解案で双方合意した。これらはあくまでも戯曲などの二次創作の権利に絡んでのものである。なお、メイヤー・レヴィンの半生については、ローレンス・グレイヴァー著『「アンネの日記」もう一つの真実』(平凡社)に詳らかである。
アンネ・フランクの手書きのテキストについては、1981年にオランダ国立法科学研究所において、紙質、インク、糊などに関する文書調査と筆跡鑑定が行われた。筆跡鑑定は、フランク家、知人、同級生などから提供されたサンプルを日記と比較して、視覚的特性はもちろん、加齢に伴う字体の変化、筆圧の傾向など様々な側面からアプローチが行われた。調査の全容は270頁の鑑定レポートに纏められ、結果、日記本文は1942年から1944年の間に、アンネその人によって書かれたものと結論付けられた。
この調査によって、日記の信憑性に対する最もありふれた攻撃である、「日記はボールペンで書かれており、かかる筆記具が発明されたのは(もっと慎重な者は、一般的に使われるようになったのは、と書く)1951年以降である。よって1945年に死亡したアンネに日記が書けるわけがなく、第三者によって執筆されたものである」という有名な伝説も否定された(そもそも『日記』の最初の出版は1947年である)。
問題のボールペン・インクによる記述は、最初の文書鑑定(1960年)の折りに紛れ込んだ小さな二枚の紙片に見られるに過ぎず、日記の内容に影響を与えるものでもなければ、当然アンネ・フランクが書いたものでも、ましてやメイヤー・レヴィンが書いたものでもない。この紙片の筆跡は、ドロテア・オッケルマンのものであったことが明らかになっている。鑑定レポートは、第三者の書き込みについても分析を行ない、これらをアンネが書いたものと区別して論述している。
1988年、アンネがアメリカの友人に送った手紙が新たに発見された。その筆跡が明らかに日記の大人びたそれと異なっていたことから、真贋論争が再燃している。筆跡の調査は、1960年と1981年の鑑定と同様に所定の手続きに基づき、政治的に中立な専門家によってなされるべき性質のものである。縮小写真を見比べて直感的に判断するのは鑑定とはいえない。
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