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(回答先: トム・クランシーを凌駕する村上龍「半島を出よ」 (スパイダーマン・2) 投稿者 愚民党 日時 2005 年 4 月 04 日 07:24:38)
2005/2/15
「村上龍”愛と幻想のファシズム”を生んだ時代背景=バブル時代の思い出」 生活コラム
http://red.ap.teacup.com/sunvister/90.html
村上龍の小説“愛と幻想のファシズム”は、バブル景気に酔いしれる中で、平和ボケしながら,あてもなく彷徨いはじめた日本に対する,強烈なアンチテーゼとして描かれた近未来小説だった。
現実を見失った戦後民主主義が、バブルに帰結した時、街では"青臭い道徳的理想”を語ることがはずかしくなっていた。希求すべきベクトルを喪失した中で、合言葉のように蔓延し始めたのが“現実的”という名の“事なかれ主義”だった。
“何をやっても金が舞い込んでくる”“金さえあれば楽しく暮らせる”“楽しければいいじゃん”
僕自身も、エグゼクティブ気取りで、BAYエリアにたむろし、“いかにおしゃれになるか”“いかにBIGになるか”過去の”ゲバルト”の前歴も忘れて酔いしれていた。
世界中の富が日本に集まり、それを日本中にばらまいて、欲望の連鎖に舞い上がり、道徳心を忘れ、日本中がソドムの市になりかけていた。
その時代に思春期を過ごした子供たちへの影響ははかりしれないものがある。事実、彼らはいまや親の世代になり、“何かを喪失した子供たち”を大量生産するようになった。
アメリカの軍事力という傘の下にある身分も忘れて、脆弱なリアリズム=“金という必要悪”に弱々しく開き直る精神風土を育て、日本人が過去より紡いできた、民族の大切なものまで、あの時代から溶解させはじめた気がする。
当時、僕はイベントプロデュース、セールスプロモートの関係で、“インカレ”と呼ばれる、”ジャンルフリーのお遊び大学サークル連合”の連中(あの悪名高き早稲田のスーフリの前身みたいなもの)とも関わった。
当時の連中はTV局の“サクラ”供給源として重宝がられたし、セールスプロモートの分野でも、行列ができるアイスクリーム屋の”さくら”要員、後にブレイクした“ジュリアナ東京”オープン当初の賑やかし要員など、新しいものをはやらせる起爆剤として大いに活用された。
そうしたきらびやかな世界の匂いにあこがれる“おのぼりさん”の地方出身者を糾合し、彼らの勢力は膨張していった。
そのリーダー格の人間は、そうした企業から供給される販促費、販促物を元手に、“たこ部屋”みたいな宿におしこめる“ぼったくりツアー”企画、“ぼったくりイベント”企画で、“濡れ手で粟”の“ぼろい金儲け”に酔いしれて、増長していった。
彼らの一部は後にITベンチャーとして輝かしいステージに立てたが、多くが“マルチまがい商法”、“詐欺まがい商法”あげくのはては、本当の“振り込め電話詐欺”に走ったのは当然の帰結かもしれない。
彼らと僕とは、年齢的には10歳しか歳が離れていなかったが、正直彼らの感性は“僕の中の大学生のイメージ”とはずいぶんかけ離れたものだった。
音楽の趣味は、みな金太郎飴のようで、ヒットしたJ−popとユーロビート、ハウスミュージック、ファッションは判で押したような”渋カジ”とブランド小物のコラボレーション、話す話題は“金と女”“主体的知性、主体的感性”のかけらも感じなかった。
個人的には同じ若い世代でも、芝浦“ゴールド”とか麻布“イエロー”にたむろしていた奴らのほうが感度が優れていたし、その体温に共感できるものがあった。
“○×○がやらせない女を山の中に置き去りにしてきた”とか“合コンの面子が不細工だったから、高速のサービスエリアで置き去りにブッチしてきた”とか会話内容も鬼畜そのものだった。すでに奴らは“スーフリ状態”だったのかもしれない。
その連中が“大卒であれば一部上場企業に入れる”あまあま”の就職状況の中で、有名企業の中堅社員として収まっていったのは、複雑な気分だった。彼ら“バブル入社組”は、今どうしているだろうか?
そんなわが国の戦後民主主義が帰結した“脆弱なリアリズム=事なかれ快楽至上主義”が生み出した、精神的退廃状況に“渇”を入れるかのように登場したのが、村上龍“愛と幻想のファシズム”という小説だと思う。
“中途半端に悪ぶってる連中よ!!本当の必要悪って奴を教えてやるよ!!”
“戦後日本の平和が、自ら勝ち取ったものではなく、アメリカの核の傘の下で与えられたものだということを忘れるな!”
“自らを危険にさらす本当の“悪”を扱う覚悟もないくせに、“甘チャン”の立場で“必要悪”を語るな!
“よいこちゃんたちよ!本当に邪悪な存在の前では必要悪”=暴力行使という覚悟なき正義は、奴らを増長させるだけにしかならない!”
近未来の世界大恐慌にうろたえる日本の中で、“優勝劣敗イデオロギー”をかかげたファシズム政治結社を立ち上げた主人公たちの、非合法な暴力をも積極的に行使する、強力な目的意識性のまえには、中途半端な“善意”は駆逐され、自己保身の壁を打ち破れないものは“パシリ”として服従し朽ち果てていくしかない。
彼らの暴力的なファシズムが、平和ボケした日本を席巻し、その日本の“誇り”をかけ、中国、アメリカに対して、マネーとテクノロジーでその軍事力まで翻弄し、沈黙させていくストーリー。
平和ボケした日本にどっぷり使っていた自分には、眠っていた暴力性をともなう熱情を覚醒させる、強烈なインパクトのある作品だった。
あれから十数年近くたった今日、日本は世界の現実の荒海にもまれようとしている、その荒海のなかで埋もれない真実を見失わない“大切なもの”を確保し続ける“主体性”とはなにか?
ずいぶん昔の近未来小説“愛と幻想のファシズム”が、今の時代、リアリテイを持ち始めたと感じるのは自分だけだろうか?
(太陽に集いしもの)
http://red.ap.teacup.com/sunvister/90.html