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(回答先: 【第2部 崩れた王国】堤義明前会長逮捕(3)足元からの反乱 (産経新聞) 投稿者 愚民党 日時 2005 年 3 月 06 日 08:04:07)
【第2部 崩れた王国】堤義明前会長逮捕(4)サマランチ会長と蜜月
「力」見せつけた五輪実現
「本人は表に出てこないし、こちらも聞かない。だが、意向は伝わってきた。誰がいいではなく、『誰と誰はダメだと言っている』という具合に…」
平成十一年三月。三人が立候補した日本オリンピック委員会(JOC)会長選の際、選考委員を務めた元理事は当時をこう振り返る。「本人」とは、スポーツ界に君臨したコクド前会長、堤義明(70)のことだ。
人脈と資金力を背景とした隠然たる影響力。表舞台に出てこない分、その存在感は膨らんでいったようだ。JOC元幹部は「何か問題が起こると、秘書に政治家の名前を告げて『〇〇君を呼んでくれ』とやる。それで力を感じちゃうんだ。(自らを)大きく見せる雰囲気作りがうまかった」。
堤は元年八月、JOCの初代会長に就任した。財力と人脈への期待を背負っての登板だったが、翌年四月に辞意を表明する。その一週間前、長野五輪に向けた志賀高原・裏岩菅山滑降コースの新設計画が、自然破壊との批判を浴びて断念に追い込まれていた。岩菅山から道路を隔てた対面にスキー場などの利権を持つ焼額山があり、「五輪私物化」との批判が高まったことも影響したようだ。
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十年の長野五輪の実現は、堤の「力」を日本のスポーツ界に見せ付ける出来事だった。
昭和六十三年五月三十日、堤は会長を務める全日本スキー連盟の緊急理事会に臨んでいた。冬季五輪開催地に立候補していた四市(長野、山形、盛岡、旭川)の中から一市を選ぶJOC臨時総会を前に、連盟としての推薦都市を決めるためだった。その五日前には同じく堤が会長を務める日本アイスホッケー連盟も推薦都市を決めていた。
会議は非公開、決めた都市名も非公表だったが、「長野」という“うわさ”はすぐに広まった。二日後のJOC総会で、長野が圧勝。三カ月後には整備新幹線「高崎−軽井沢」間の最優先着工が決まった。
開催地を決める国際オリンピック委員会(IOC)の投票を翌年に控えた平成二年九月、絶好のアピールの機会が訪れた。新高輪プリンスホテルなどで開催されたIOC総会だ。
堤は招致委員会名誉会長として、IOC会長のサマランチと会食を重ねた。その席で、ある協力要請を受けたという。スイス・ローザンヌに建設中の五輪博物館への資金協力、一口百万ドルの寄付金の取りまとめだった。
翌年六月、本命視された米・ソルトレークシティーを破って招致は成功。八月、堤はサマランチと世界陸上東京大会で再会した。このとき堤からサマランチに、あるリストが手渡されたという。JOC関係者が語る。「五輪博物館への寄付金に応じる企業リストだった。サマランチは五社ぐらいが協力してくれればと考えていたようだが、ふたを開ければ二十社近い企業が応じた。驚いていた」
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IOCの総本山、スイスのレマン湖を見渡す丘に五年、一億八百万スイスフラン(約九十五億円)をかけた五輪博物館が完成した。玄関ホールの正面奥には、十九社の日本企業名に加え、サマランチの横に堤の名が刻まれた。建設にあたり百万ドル以上を出した巨額寄付者の一人としてだった。
元JOC理事は、「JOCへの寄付金集めなどでは、言われているほどの力を感じたことはない。だが、五輪博物館への寄付の取りまとめには熱心だった」と振り返る。
昨年十月にグループ内外のすべての役職から退いた堤。それでも残る唯一の肩書がスポーツ界にある。サマランチがIOC会長を退く際、特に親交の厚かった五人に贈った肩書「IOC栄誉委員」。だが、IOCが今回の事件について調査を始めた。五輪憲章違反が認められれば、剥奪(はくだつ)されるという。(敬称、呼称略)
http://www.sankei.co.jp/news/morning/07na1002.htm