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(回答先: なんか・・ 投稿者 都会暮らし 日時 2005 年 6 月 08 日 15:22:23)
ほんとにそうですね
まさに辺境
こういうところ私も好きです。
辺境といえば・・・・
私は実際に数年前、今の「辺境の地」に移り住んだ。
私の場合、思ったことは形(行動)に結び付く
だからこそ、人里離れた(野生の生き物にはとても近い(^^; )地に生きている。
人には色々なタイプがある。中でも多いのが、「借り物ばかりで身をまとっている人」、少数派と言えば「全てを確認しながら自分そのものという足跡を残しながら生きてゆく人」私は勿論後者だと思っている。
別スレで都会暮らしさんとkさんのやり取りが「面白ぉ〜い!」と私は声を出した。
ナンカヨーカドーの総合案内にアナウンスが流れた一件はどうでも良いので置くとして、そのとき「面白い」と声を出したのは、まさに「タイプ」の違いをそこに見たからです。
人生のこと、世界のこと、政治のこと、どんなジャンルにしろ、今の世で博識などは大して意味も無いし価値も無い。少し調べれば「もっともらしい論」などは幾つも瞬時に見つかるし、それを受け売りで話すことも大して難しいことではない。だからこそ、「何を言うか」ではなく、「どんな生き方をしていて視線の先はどの方向か」という「生き様」にこそ意味があると思っています。
その意味で言うとkさんの主張は正論なんだけど自分自身の軸足がどこにあるのか?という生活感がその正論の中には見出せない。その点、都会暮らしさんの口から出る言葉は単なる博識ではなく、日々の生活の臭いがする、生き様が感じられる。この差が、「立脚点の差と視線のベクトルの差」ということです。
どのスレだったか覚えていませんが、都会暮らしさんは「私たちはバラバラではなく、『全体の中の一部』なんだ」ということをどこかで書かれている。その感覚、まったく同じなんですよ。私は「自分自身」という「個」など元々存在しなくて「あるように見えるだけの錯覚に過ぎない」のだろうと思っています。私自身が「この世の意味は愛」とたびたび口にしている訳もこの感覚からなんです。
愛とは・・・と問われ思い浮かぶ最初のイメージは「自他などもともと存在しない、ただの錯覚」。自も他も全体の一部であり、同時に全体そのものなんだということ。
私たちはバラバラではなく、『全体の中の一部』なんだという、この感覚は、自分の体験から「確かにそうだ」と思い至った。伴侶との出会い、子供との生活、こういう日常の生活の中で幾度そういう感覚を思い知ったことか。そして、そういう気付きを与えてくれていることに何時も感謝をし続けている。
のろけるわけではありませんが、私は伴侶からの光をいつも感じているんです。その時々で光の強弱はあるけれど、私にとって彼女は光そのもの。そしてその光を感じた時、胸が熱くなる。勿論胸が熱くなるのは伴侶の光を感じた時だけではありません。親子にしろ、友人にしろ夫婦にしろ他人にしろ、「相手を思いやる」という心の動きを見たときに私の胸の奥は「じーーーん」と熱くなり共鳴していることを感じる。同時に涙が溢れてくる。
この共鳴してしまう感情の意味を私は随分長い間捜し求めてきた。そして見つけた答えが「私たちはバラバラではなく、『全体の中の一部』なんだ」ということなんです。
(こういう心情の吐露に似た投稿はこういう辺境スレこそ相応しいという気がします(^^; )
いきなり話題を変えてしまい、 どうもすみません m(_ _)m