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(回答先: 【大本研究】怪しい人々 浅野和三郎 投稿者 へなちょこ 日時 2005 年 5 月 31 日 12:32:57)
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-mei/okada-mokichi.htm のキャッシュ
岡田茂吉(1882-1955)
真光系の教団や神慈秀明会・救いの光など少なくとも30以上の教団のルーツ
となる世界救世教の創始者・岡田茂吉は明治15年(1822)12月23日東京浅草で
生まれました。
祖父は裕福な質屋さんでしたが父親が店を没落させ、茂吉が生まれたころは
店を失って露天商になっていました。そういう父だけに茂吉は早くから自立
の意志を見せ、はじめ画家を志しますが病気のため断念、代わりに鑑定眼を
磨いて25歳の時、古美術商になります。
2年後には日露戦争の勝利に沸く世相に乗じて女性用のアクセサリーショップ
をオープン、彼自身のデザインによるアクセサリーが売れて店は大きな利益
をあげます。この頃結婚。
しかし商売は好調でも相変わらず病気がちで「婦人病以外の病気は全部した」
というほどだったそうです。そして大正8年取引銀行が倒産したために突然
破産の憂き目に遭い、しかも同年妻が死亡。いきなりどん底にたたき落とさ
れてしまいます。その後何とか事業を立て直し再婚もしますが、世界恐慌、
関東大震災と相次ぐ大きな波に巻き込まれその度に事業は挫折しました。
さすがに神に救いを求めるようになり大本に入信、自らも神懸かりの経験を
して、昭和3年には商売をやめ昭和6年ころからは大本の伝道師として熱心に
活動するようになります。しかし大本の本部の方針と対立。昭和9年に脱退
して同年5月応神堂設立、翌年大日本観音会結成。浄霊による病気治療の活
動を独自に始めました。しかしこの活動は医師法違反に問われ、警察の摘発
を受けます。その後も戦時中はかなり当局の目を意識した不自由な活動を
余儀なくされました。
終戦後宗教の自由化に伴い、本格的な活動を再開。いくつかの名称変更を
経て、昭和25年に世界救世教を設立しました。この頃から有名な手かざしに
よる浄霊法も積極的に始めます。また自然農法に興味を持ち、化学肥料や
農薬を使わない農業に熱心に取り組み、またその広報に務めました。一方で
は元からの仕事兼趣味である美術の方でも多数の美術コレクションを集めて
います。昭和30年2月10日死去。
http://f6.aaacafe.ne.jp/~onokoro/nennpumax/nennpu_mioshie/fuuchi.htmlのキャッシュです。
昭和24年5月23日
『先に、「岡田茂吉」と書いて「浄」と書かれたのをもらったことがありましたがね、いま、私がやってる仕事は浄霊のように、みんな「浄」の仕事ですからね、あれは二〇年ほど前ですが、もうちゃんとそのときには決まっていたわけですね。』
『いまに紅卍字会と連絡するようになるはずですがね、ある時期がくるとこのフーチに出てくるんですよ。まあ、来年か再来年でしょうかね。』
昭和27年12月6日
『紅卍字会というのがいま台湾を本部としてやっていますが、』
『最近「フーチ」で「日本に行って新しい宗教と提携しろ」という神示が出たのでやってきたのですが、それで新宗教のほうをみても、これはというものがないので、結局救世教と提携するよりかしようがないということになって、昨日五人ばかり来たので会ったのです。それで私は言ってやったのです。とにかくまだ時期が早い。』
昭和27年12月7日
『最近台湾に本部がある世界紅卍字会という、これは大抵知っているでしょうが、あそこで援助してくれという事を申し込んで来たのです。一昨日五人くらい来ました。尤もその前にも来た事があります。そこで或る程度は私も話してやりました。ところが先方の目的は一寸くい違いがあるので、時期が早いからもう少し熟してからと思って、もう少し待て、急いではいかん、という事を言っておきました。』
『日本に本部をつくって紅卍字会を大いに日本で発展させたいという考えです。それはフーチ≠ニいうのに出たのです。それで今度来たのです。そのフーチで日本の新宗教を土台にしろという事が出ているので来たところが、結局新宗教中では救世教より外にないのです。というのは二十年ばかり以前に紅卍字会は日本に来て、大本教と提案していろいろやり始めたのですが、そのうちに大本教が断圧をくったのでその後全然縁が切れたのです。しかしその時代の大本教の幹部の者は相当知ってます。それで生長の家の谷口さんは、大本教の幹部ではあったが、紅卍字会と提携する時はほとんど脱会していました。それでそれを知っているのは、近頃できた静岡県の三五教の会長の中野さんはよく知ってます。そういう様で外の新宗教にいくらか働きかけたのですが相手にされないので、結局私の方に是非という話になって来たのです。』
昭和27年12月15日
『約二〇年前の昭和五、六年のころに紅卍字会の人たちが、いまの芝の浜離宮の庭で写真をうつしたことがあります。そのときに紅卍字会の信者が一八人か並んで、その隣に大本教の信者が十数人並んでいた。そうしてこれから写真をうつそうというときに、ちょうど私がそこに着いたのです。そうしてヒョッと見るとみんな整列しているのですが、富沢という信者で代議士かでしたが「いまうつすから、岡田さん早く来給え」と言うから、私も「ああ」と言って立ったところが、すぐ写真がうつった。その立った所が紅卍字会と大本教信者が並んだちょうど真ん中の一番前に立ってうつったのです。それで私は、いまに紅卍字会は自分が支配するのだなと思ったのですが、それがだんだん実現する段取りになってきたのです。』
昭和27年12月16日
『フーチに日本の新宗教と提携しろということが出たので来るわけですが、日本の新宗教で力のあるのと、紅卍字会をよく知っていることですが、一時大本教では紅卍字会とは提携しましたから分かっているのです。一時は私も紅卍字会の会員になって、大きなメダルをもらって下げていたことがあります。それで紅卍字会の日本総本部ということをぜひ心配してもらいたいというので、小田原の別院にちょうど適当な棟がありますから、そこでやらせようと思ってます。紅卍字会というのはいずれ詳しく話しますが、フーチというのは非常におもしろいのです。』
『フーチですが、これはみなさんに見せますが、フーチによって日本の新宗教と提携してやれというようなことが出たので、いつかも話したとおり、最近静岡県の清水に三五教というのがありますが、そこの幹部に前の南京領事をしていた林出という人がいます。その人が紅卍字会とよく知り合っているので、先方から招かれて行ったのかどうか知らないが、台湾に行って話し合った結果、先方でもフーチが出たりして、こっちに来て新宗教といろいろ提携してみたところが、だいたい紅卍字会のことを知っている宗教というのが、私のほうと生長の家と、それからいまの三五教です。これは元大本教信者であったからで、ほかにはありません。というのは、大本教は以前紅卍字会と提携して、そうとう行き来をして、日本にも弘めようとしたことがあったのです。そのうちに、あの大本教事件によってそれは駄目になったのです。ですから私も一時は紅卍字会の会員になっていたのです。それで私が麹町で大本教の分所を経営していたので、そこでフーチなどもしたのです。』
昭和27年12月17日
『約二〇年ばかり前に、そういうお知らせがあったのです。私はその時期を待っていたわけです。これはいまにもっと詳しく書いて『栄光』に出します。とにかくそういうようで、紅卍字会と提携といいますか、この間先方で三五教の人が二人、紅卍字会の中国人が三人ばかり来て会ったのです。それで私のほうも提携はするが、しかしまだ時期が早いから、もう三年ぐらい先でなければ駄目だ、それまではつなぎの程度に御援助しよう、ということになっているのです。』
昭和29年3月24日
『世界紅卍字会というのが、近ごろ私のほうでも関係して、月に一回ずつ集まりがあります。紅卍字会の主宰者の神様は至聖先天老祖という神様ですが、この神様は、いつかも話したとおり、フーチといって不思議なことをやって字を書くのですが、そのときに文字を書かせるのは老祖さんの指図によって、キリスト、釈迦、孔子です(そういった七人か八人かですが)それを指図して書かせるのです。フーチは私は一度見たことがあります。そういうわけで、つまり私がこれから至聖先天老祖の役をするわけです。』
【紅卍字会はよく南京虐殺の話題ででてくるが謎が多い、大本と提携関係にあったのは事実。
最近の法輪功と活動範囲が似ているきがする。また大本ー紅卍はΩー統一の図式を連想する。】