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財団法人 日本心霊科学協会 財団の発祥
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この財団の前身となる「心霊科学研究会」の創立者・浅野和三郎(1874-1937)は茨城県稲敷郡に出生、東京帝国大学(現・東京大学)英文科卒業後、横須賀の海軍機関学校(現・防衛大学校)で英語の教官をしていた。第一線の英文学者として数多くの訳書を出しており、いわゆるインテリと呼ばれる部類の人間であった。
そんな浅野が心霊に興味を持ったきっかけは、原因不明の病気にかかった三男が祈祷師の予言・祈祷により奇跡的に治癒したことによる。心霊について調査研究しているうち、日本国内で当時もっとも実践的な心霊研究をしていた新興宗教団体「大本」(当時の教団名は「皇道大本」)に興味を持つにいたる。1916(大正5)年、海軍機関学校を退官し(ちなみに後任の教官は芥川龍之介)、京都府綾部市にある本部を訪れたのが同年暮れのことであった。翌年になり浅野は大本に入信し綾部に移住する。
当時、大本の指導者であった出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう)が「民衆の宗教」と表現していたとおり、それまでの大本の信者は農民中心であり文化人・知識人といわれる層の信者は皆無であったが、浅野の入信により信者層に大きな変化が起こった。海軍・陸軍関係者や知識人が数多く大本に入信したのである。浅野は幹部となり、王仁三郎の片腕として大本の全国進出に大きく貢献した。
しかし、当時の「皇道大本」の「皇道」が天皇陛下ではなく大本独自の「皇道」、すなわち大本こそが真の神道であり国家の中心(=出口王仁三郎が国家の中心)とする独自の皇国史観(大正維新運動)を語っていたために、政府からは危険思想団体としてマークされていた。さらに大本にとっては運が悪いことに、浅野の入信によって軍関係者やインテリ層の信者が増えたため、憲兵隊および京都府警は1918(大正7)年頃より内偵を開始し、王仁三郎や浅野は再三にわたって呼び出され警告を受けていた。しかし大本の趨勢はとどまるところを知らず、ついに1921(大正10)年、王仁三郎や浅野をはじめとする幹部数名が逮捕、本殿の破壊命令が出されるにいたった(第一次大本事件)。
容疑は不敬罪および新聞紙法違反であった。新聞紙法により刊行されていた大本の機関紙「神霊界」に天皇を冒涜する記事が記載されたというのである。当時の新聞紙法には天皇を冒涜する記事を書いてはいけないとする条項があった。独自の皇国史観の展開が天皇陛下への冒涜および国家転覆の煽動にあたるとしての弾圧であった。
浅野はこの事件で有罪判決を受ける。これが契機となり1923(大正12)年、浅野は大本を脱会し東京に戻って「心霊科学研究会」を設立した。大本の思想をかなり引きずってはいたものの、宗教色を一切排除して純粋に科学的見地からの心霊研究を目指したようである。これは現在で言うところのスピリチュアリズム(心霊主義)である。英文科卒の文系人間にしてはめずらしく理系人間的な発想であり、興味深い。日本でスピリチュアリズムをはじめたのはおそらく浅野が初である。
なお、同志であった谷口雅春も浅野とほぼ同時期に大本を去るが、谷口は浅野とは違い宗教家としての道を歩み、「生長の家」を立教、成功を収めた。
【別の資料による補足】
日本では「生長の家」の谷口雅春がクリスチャン・サイエンスの出版物を積極的に翻訳し、ニューソートを「光明思想」として日本に紹介しました。谷口は新興教団「大本」の幹部でした(大本では霊の存在を重視する)。大本を去ったあと、同じく大本の幹部を辞めた浅野和三郎が創設した「心霊科学研究会」の下で働いており、このとき心霊研究の立場からニューソートの思想に触れ、影響を受けたといわれています。
生長の家ではすべての宗教の神は名前は違っても同一であり、宇宙創造神唯一人としています(万教帰一)ので、他宗派の教えに関しては寛容です。なお米国では生長の家はニューソートの一派として認識されているそうです。
【補足ここまで】
「心霊科学研究会」は機関紙「心霊世界」「心霊界」などを刊行したのち、1929(昭和4)年には「東京心霊科学協会」となる。浅野自身は霊界の研究に多くの時間を割き、守護霊研究のパイオニアとして、「交霊会」(霊能力者が霊魂を呼び、参加者にさまざまな心霊現象を見せる集まり)を通じて守護霊・指導霊の存在を繰り返しアピールした。
他の実績としては、東京帝国大学心理学科教授であった福来友吉博士による「念写」の研究発表などがあげられる。福来博士は他にも「千里眼(透視)」の研究も行っていたが、これらの研究がもとで東京帝大を退官させられてしまった。非科学的な現象を肯定したというのがその理由である。福来博士は退官後も研究を続け、超心理学の草分け的存在として今日知られているところである。
なお「念写」とは、かの超能力少年清田君(と当時呼ばれていたが彼も大人になった。私より年上である・・・)の得意技でもあったが、カメラのシャッターを切らずに念じるだけでフィルムに文字や景色が感光するという超能力の一種である。余談だが清田君、もとい清田さんはデジカメでも念写できるのであろうか・・・?残念ながら清田さんは超能力者を引退してしまったので事実を知る術はない。
1937(昭和12)年、浅野は逝去、東京心霊科学協会も第二次大戦中に活動休止となるが、終戦後の1946(昭和21)年に「日本心霊科学協会」として再興され、1949(昭和24)年に財団法人の認可が下り現在に至る。
【現在の理事長 大谷 宗司 防衛大学校名誉教授】
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浅野和三郎(1874〜1937)
「あさのわさぶろう」は東京帝国大学英文科で小泉八雲に薫陶を受けたといわれる。
帝大卒業後は明治33年(1900)から大本に入信する大正4年(1915)まで海軍士官学校の英語の教官であった。
(ちなみに退官後の後任の教官は芥川龍之介。また、和三郎の兄は海軍少将)
第一次大本事件で教団を去るまで教団に大きな足跡を残した浅野和三郎は大正4年に大本へ入信。
大正5年、綾部に移住した浅野和三郎は大正6年、機関紙「神霊界」の主筆兼編集長に就任し、教化宣伝・広報活動の先頭に立った。
のちには王仁三郎から大正日日新聞社の社長を任せられ、「大本の浅野か、浅野の大本か」とさえ云われた時期もあったという。
浅野は当時の教団きっての知識人で、その人脈から軍関係者や各界知識人層の教団入信に大きな影響力をあったといわれる。
神懸りや審神といえば、天細女、神功皇后、武内宿禰が思い浮かぶが、鎮魂帰神を最初に体系化したのは本田親徳といわれ、
その弟子が長澤雄楯。その長澤を師と仰ぐ出口王仁三郎に心酔した浅野和三郎は大本の大番頭的な立場に立ち、
大本の鎮魂帰神法を体系化、実践したという。(浅野和三郎が心酔、傾倒したのは王仁三郎ではなく、実は「出口なお」であったとも)
大正10年2月、第一次大本事件で教団を去った浅野は、12年「心霊科学研究会」を設立。大本での経験を元に浅野は「大本霊験秘録」などを著した。
ほかに心霊研究の第一人者として、「心霊主義」、「心霊講座」、「小桜姫物語 霊界通信」など、心霊研究の著作がある。
大本の鎮魂帰神法は浅野和三郎が体系化(カリキュラム化)したものらしいが、大本には今やその技術はないように思う。