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http://www2.ocn.ne.jp/~mind123c/sub4-4.htm
1998年7月10日、東京の弁護士会館で行われたマックス・ブーデリック博士のフランス語による講演の日本語訳です。
マックス・ブーデリック氏
1923年生まれ、フランス、リヨン在住自然科学と哲学の博士号をもち、フランスとベルギーの大学で生涯教育講座を担当するとともに、文部省と青少年・スポーツ省の顧問として活躍中。ローヌ・アルプス地方のCCMM(マインドコントロール救済センター)の代表として、約12年にわたってセクト問題の相談活動を担当してきた。
<<主な著書:いずれも未翻訳>>
1:「イニシエーションの道」(1980年)
2:「セクト的集団ーマインドコントロールー」(1991年)
Sectes, manipulations mentales
3:「セクト的集団って何だろうー如何に対処すべきかー」(1995年)
Comprendre l'action des sectes
4:「全体主義とセクト的集団ーその教化の過程ー」(1998年5月)
Les Groupes sectaires totalitaires
5:「全体主義的セクトを理解するために」(1999年)
Les sectes Mangeuses d'hommes---Comprendre le phenomene sectaire totalitaire
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セクト的集団の論理
全体主義的なセクト的集団
まずはじめにセクト的集団がどういう集団であるかについてお話ししたいと思いますが、これらの集団がおしなべて主張するのはつぎのようなことです。つまり、私たち個人個人が生きていく上で理想を実現する秘訣を自分たちは知っているのだ、ということです。例えば、個々人に対して、精神的もしくは道徳的に完成の域に到達できるのだとか、健康や社会的成功の領域で理想を実現できるのだとか、あるいは理想的な政治組織をつくるにはどうしたらよいのかなどと、そういった秘訣を知っているのだ、と主張する。しかしそのために、新しい解決方法を提示しようというのではなく、逆に、これらの集団の指導者たちが独占的に会得している教えを、そのまま疑問をもたずに実行することによって、そのような理想を実現することができるのだ、と主張するわけです。
これらのセクト的集団は偏狭で硬直した主張を行い、常に常軌を逸した狂信的な態度、いわゆるファナティズムによって駆り立てられています。またそのために攻撃的で不寛容であるということが彼らの基本的な態度です。さらにこれらのセクト的集団は、いかなる批判も受け付けず、そして彼らを統率する権力というものが民主主義的ないかなるコントロールも認めない、また、その権力は信者の最もプライベートな領域にまで影響を及ぼす、という意味において、全体主義的であると言えます。
彼らのイデオロギーの根底には、いかなる疑いも挟むことを許さないような確信、あるいは思い込みと言うようなものが存在しています。
このようなセクト的集団に対して、私たちはもう一つのタイプの集団をあげることができます。それは、一般的な宗教団体や、あるいは学会のような哲学者や科学者で構成された集団です。これらの集団の活動は常に研究のアプローチ方法に対して忠実で、自らの追求する理想に近づけるという確信を持ち、また、絶対的な真摯な態度を貫くという姿勢に支えられています。この「真摯な態度」ということが何を意味しているのかと申しますと、すなわち、自分たちが確信している考えなり、仮定といったものは、その都度その都度常に問い直さなければならない、ということです。このような態度は「科学的懐疑」と呼ばれるのですが、これがすべての科学や哲学を探求していく上で、不可欠な態度となっているのです。
このような「科学的懐疑」をより有効にするためにはまず、個人的に得た研究の結果をほかの研究者のそれと突き合わせることをお互いに認めなければなりません。また、それは利用されるあらゆる知識や情報の源が検証可能な形で公表されるということでもあります。
以上のように私たちは2つのタイプの集団を見てきたわけですが、これらの2つのタイプの集団において、なにが決定的に違うのかということをもう少し深くお話ししてみたいと思います。
そのために、まず基本的な哲学の問題でもある3つの質問を通してそのことについて考えてみたいと思います。この3つの質問とはよく旅人の対してなされるものですが、同時に我々がこの世界に存在しているというなぞを要約している問いかけでもあります。
その3つの質問とは、「お前はどこから来たのか?」「お前はどこへ行くのか?」そして「お前は何者なのか?」という問いです。
これらの問題に答えようとするとき、その答え方の論理というものは2つの種類に分けられます。これからお話しする第一番目の論理がセクト的集団に特有のものなのですが、セクト的集団の論理には一つの特徴的な態度が見受けられる。それは先ほど問いかけた3つの質問の中でも最後の問い、「お前は何者なのか」という問題にしか自覚的でないということなのです。
それでは、このセクト的集団に特有の第一の論理ですが、この論理は「直接性」ということを背景にして成り立っています。つまりこの種の論理は、私たちの誕生から死までの存在の期間、もしくはその周辺のことだけしか問題の対象にしないという態度です。多くの場合、このような態度は、私たちが生きている「今ここ」という直接的に自分に現れてくる現世的な問題にしか関心を示さず、それゆえ、そこにおいては過去も未来も来世も、現実の単純化されたイメージという形をとってしか現れてこないのです。従って、こういう論理においては、「私は誰なのか?」という問題に対して、結局、目前の直接的な状況の中だけでしか考えられないので、単に状況中の自分の役割といったものを確認するだけにとどまってしまうということです。
第一の理論
それではこのような第一の理論がどのような構造になっているかをもう少し詳しく見ていきたいと思います。
まず、このような論理は「類似性の追求」ということに基づいているのですが、それは、私たちに現れてくる様々な直接的な現実に対して、ただ部分的に理解できることだけをあてはめて満足してしまう、そういった類似性の追求だけで満足してしまう、という特徴をもっています。
この論理は私たちの無意識の領域で行われているもので、そのプロセスはフロイトが言う一次過程というプロセスと通じるものがあります。
そのプロセスは次の4つの基本的な操作から成り立っています。まず一つは「投影」と呼ばれる操作で、これは自分に関する不都合な事柄を他の人に与えてしまうことを言います。2番目に「取り込み」という操作で、これは他の人に関することを自分のことであると考えてしまうことです。3番目に「同類扱い」ですが、これは多様性があるにも関わらず、部分的に似ているということで同じものとみなしてしまうことです。最後に「現実否認」と呼ばれる操作ですが、見たくない現実とか知りたくない事実を認めないということです。
これらの4つの操作は全て、客観的な視点というものを持たないので、現実の多様な姿、ニュアンスといったものを認識不可能にさせてしまうのです。つまり、黒か白かどちらか一方しかないという状態で、全ての判断は、例えば、善良なものか悪辣なもの、また善であるか悪であるか、正しいか間違っているかのどちらかである、というような極端な二元論に陥ってしまいます。こうして狂信的なファナティズムが生まれてくることになります。逆説的な立場から極端な立場へと予測不可能な形で態度を転換するという事態が起こり得るのです。
従って、このような論理においては「差異」、つまり「違い」ということに対して意味を与えることができません。つまり、世界には自分と同類の者か、よそ者しか存在シないと言うわけです。このような考え方しか持たない集団においては、同類として同じ集団に属さない者はよそ者でしかあり得ず、従って理解不可能なものであり、潜在的に危険なものである、つまりは滅ぼすべき敵対者として現れるわけです。ここでは「他者」、つまり違ってはいるけれども、全くよそ者ではない、というような存在はあり得ないということになってくるのです。
その結果このような集団にとっては、自分たちのグループに属さない外部の者に対して、公正であったり同情を持ったりするということは全く考えられない、ということになるわけです。
第二の論理
これまでのセクト的集団に特有の論理形態である第一の論理の構造を見てきたわけですが、今度はもう一つの論理形態である第二の論理についてお話ししたいと思います。この論理形態をもつ集団とは、先ほど述べました存在に対する3つの問いの中でも「私はどこから来たのか」そして「私はどこへ行くのか」という2つの問題に自覚的であるような集団のことを指しています。つまり、直接的な「今ここ」という私たち自身の存在を超えたところにその関心を向けているわけです。第一番目の問い、「私はどこから来たのか」という問いかけは、突き詰めて考えてみると、私たちの暮らしている社会の基盤そのものはどこにあるのか、ということにつながっていくのです。例えば、ある部族がトーテムポールを立てて、自分たちに共通の神話的祖先を祭ることがありますが、そのことによって実は、その部族の構成員はみんな同じ血でつながっているという友愛精神をもち、権利において平等であることを意識し、そしてその部族に属しているがゆえに自由であるという意識をもつようになるわけです。結局はこういったことがデモクラシーであるとか人権といったものを可能にしている要素であるのです。
今述べたことからわかりますように、このような思考方法は結局、私たちが現実の中で出会う不確かさ、偶然性といったものを超えたところを基準にしているわけですから、私たち個々人の主観性に惑わされない、しっかりとした判断基準を生み出すのです。
ですからこの第二の論理は先ほど第一の論理のように「類似性」というものを追求しているのではなく、様々な「違い」に対して意味を与え、理念的で抽象的な概念枠に常に照らし合わせている、そういった思考方法のうえに成り立っているのです。
これこそジャック・ラカンによって示された「象徴的な言語」という思考法法と通じるものがあります。その「象徴的な言語」という概念が明かにするのは次のようなことです。つまり、言葉というものはもはや現実を直接的な仕方で表すような単なるイメージではない、ということです。そうではなくて、言葉というのは「差異(違い)」とか「ずれ」というものを含みながら、それを媒介として現実に結び付いていくような働きを持っているということです。
このような私たちは、現実世界で出会う直接的なもの以外にも、照らし合わせればならない基準を持っている。こう考えたとき、先ほどの第3番目の問い、「私は誰なのか?」という問いに対しても、自ずとその答えは変わってくるはずです。いうなれば、人はもはや「今ここ」の直接的な「私」(Moi=モワ)*1、現実世界と直接的にした関われない自己閉鎖的な「私」(Moi)という呪縛から解き放たれて、いかなる現実世界にも還元することができないある種超越的な「私」(Je=ジュ)を見いだすことになるわけです。この超越的な「私」(Je)という概念はあらゆる宗教や哲学が持っているものであって、どんな描写を持ってしても語り尽くせない広がりを持った「私」(Je)であるわけです。
この現実世界の外側にある基準、そして超越的な「私」(Je)という要素は、第二の論理において欠かせないものです。この論理において行われるプロセスを、フロイトは意識的機能を特徴づけるものとして位置付けているのですが、それは次の4つの操作によって行われます。一つ目は「遠ざけること」、二つ目は「近づけること」で、これらは対象を把握するためにそれに対して好ましい距離を保つことです。次に「統合」という操作で、異なる段階にあるものを同一のカテゴリーとして共有するということです。4番目に「否定」です。この否定というのは理性的に否定することによって物事を理解しようとする態度です。
ここで重要なことは、このような形の論理においてのみ、いわゆる「他者」という存在、つまり自分とは異なった考え方や世界観を持っているけれども対等の立場にある存在、が可能になるのです。なぜならそこでは自己と他者は、個々人のレベルを越えた共通の源から発せられる友愛精神ともいうべき絆によって結ばれるからです。
二つの論理形態の有用性
以上のように私たちは2通りの論理の特徴を見てきたわけですが、第1の論理、つまり無意識の領域で行われる論理は、実は私たちが日常的によく使っているものです。例えば、既に知っている物事に対して、私たちは自動的にこのような無意識の反応をしてしまうものです。こういった直接的な反応の仕方はそれ自体は有用なもので、また主体の意識を分析するという意味においても注目に値するものですが、しかし、個々の自分という直接性から抜け出すためには、こういった論理は有害でもあり、不適切でもあります。さらに言えば、その中に閉じこもってしまうようになると非常に危険な事態に発展してしまうのです。
これに対して、第2の論理ですが、それはジャック・ラカンの言う「鏡像段階」*2というレベルにおいて現れてくるものです。このような論理形態こそ人間に特有のものであり、人間と動物をいわば分け隔てるものであります。というのも動物は一歩距離をおいて客観的に物事を見ることはできませんし、真の意味において「意識的である」ということもできないからです。
つまり、人間は意識的であればあるほど人間性を持ち、人間らしくなるのです。例えば、人は「欲望」という原初的な欲動を「願望」という形に変換して意識的であろうとします。また、「〜しなければならない」といった非人称的な命令(例えば超自我の命令)を、「私は〜しなければならない」というような主体的、意識的な形に変換しようとします。
哲学や宗教及び科学というものはこのような第2の論理を広く用いているわけです。しかしそれに対して、全体主義的セクト的集団はもっぱら第1の論理、無意識の論理に基づいているのです。
このことについて、さらにもう少しご説明いたしましょう。
つながりの欠如
さて、まず「つながりの欠如」ということからお話ししたいと思います。ここで、「つながり」というのはどういうつながりであるのかと申しますと、例えば家族とのつながり、あるいは政治のレベルでのつながり、また国家、社会、文化、言語共同体、また宗教的なレベルでのつながり、そういった様々なものとつながりながら我々は生きているわけです。しかし、時に、ある人がそれらとのつながりを失ってしまう、というような事態が起きることがあります。その理由として、例えばそれらと満足のいくつながりを持てなかったとか、あるいは、思うようにうまくいかない困難な状況に直面したとか、様々な理由が考えられます。
そしてそのような困難な状況に直面した人々は多かれ少なかれ、絶望して自分の持っていた理想というものが打ち砕かれてしまうわけです。また、そのような理想が今度は、何の助けもないまま、自分を脅かすようになると思えてくることもあります。こうした人々は例えば、死の向こう側にある理想というようなものに対しても、望みを持てなくなるわけです。つまり、このような人たちは自分自身の直接的なあり方を越えて、自分を外に開いていくということに自信を失ってしまう、という事態に陥ってしまうのです。
全体主義的セクト的集団が標的にするのは、こういった何らかの「つながり」において困難な状況に陥っている人々なのです。この「つながり」というのは、いわばその人が何を大切にしているか、ということを映し出す鏡のようなものですので、彼らはそこにつけ込んで、誘惑し、その人たちの失ってしまった理想がいかに大切であるかを説くのです。そして自分たちの集団の助けを借りれば、「あなたのその理想はきっと実現されますよ」と主張するわけです。また、「あなたが今感じている不安はもっともなことですよ」と言う一方でその不安を増大させながら、それを解決するための秘訣をこの集団は持っているんだと説得していくのです。
そして、新しくメンバーになった者はただ黙って、その集団が持っている秘技なり力なりの修得に励まなければならないのです。彼はそのうちに、自分の目の前に輝かしい道が開けたと思うようになり、いい知れない即時的な幸福感で満たされて、自ら進んであらゆる疑いの心を捨てていきます。彼らはこのような集団の中にいることで、自分は理解されている、また守られているのだと感じていくのです。
第1の論理の閉塞性
このように初めから、非常に巧妙なやり方で、一人の人間がセクト的集団に引き込まれていくわけですが、その課程には次のようなことが起こっているのです。つまりその人が持っている、自分を超えたものとの「つながり」の意識であるとか、その人の目指す理想の意識といったものが、いつのまにか単なる表象、もしくはイメージといったものにすり替えられてしまう、ということなのです。こうした実態に落ちいてしまいますと、そのときから既に、彼は自分の存在のこちら側と向こう側、つまり、自分が生まれる前のこと、そして死んでからのことについても、自分はもはや知っているし、そのイメージを完全に思い描くことができる、と主張するようになってしまうのです。
セクトのメンバーは「自分の力でこのような探求を行っている」と思っているのですが、実際は、セクト的集団が自らの権威でそれらの知識を身につけさせているだけであって、それはいわば知的な詐欺であるわけです。集団の中では疑問を抱くことが禁止されている、というのもそのことを如実に物語っています。メンバーは、権威を持った指導者に「こうしなさい」と決められた命令にただ従っているだけなのです。このようにしてメンバーになった者は先ほど述べた第1の論理に引きずり込まれ、閉じ込められてしまうのです。この論理は、常に無意識的な領域で行われるのですが、メンバーは、自分がマインドコントロールされているということに決して気づくことはありません。
マインドコントロール
次にマインドコントロールについてお話ししたいと思います。あらゆるセクト的集団は、共通して先ほどの第1の論理のプロセスの中に信者を閉じこめ、心理的に後退させようとするのですが、閉じこめられた信者はいわば同類の者だけで集まった城塞の中にいるようなもので、彼らは城の回りを敵に囲まれている、と感じるのです。そこでは「他者」という存在はなくて、よそ者はイコール敵としかみなされません。
そして、布教活動を義務づけることによって、新しいメンバーを獲得し、そこから自分たちの信仰の正しさを確信し、またそれによって敵の悪どさをも確信するわけです。
同時にセクト的集団は、それ自体閉鎖的な集団ですから、信者から家族や文化、あるいは国家といった人間としての「自然なつながり」を奪い去ってしまい、そのかわりに彼らの固有の価値観を植え込みます。そのことによって信者が持っていたかつての環境は断ち切られ、外の世界から遮断されてしまうのです。
またここにおいては言語も大きな問題となります。各セクト的集団はそれぞれに特有の言語空間を持っていて、それが信者にとって共通の言語となるのですが、それらの言葉は私たちが広く使っているようなものではなくて、信者にだけしか分からない堂々めぐりの定義で成り立っているような言語空間なのです。彼らの使う言葉は単なるイメージであり、もはや象徴的な価値を失っていきます。イメージでしかないそのような言葉は、現実を包み隠してしまいます。そして、現実にとって代わるような別の世界を作り上げるわけです。
さらに信者は常に、急いでしなければならない仕事をたくさん積み上げられて、猛烈な忙しさを強いられます。そのうえ、集団の中で雑居状態で生活しているので、一人で自分を見つめたり、自分自身をとりまいているものに対して距離を置いて見つめることができないのです。メンバーは延々と単調な作業を繰り返すうちに、例えば、うんざりするような読書を続けたり、教義書を何度も暗唱したりしているうちに、一種の催眠状態に陥り、自らの人格を破壊していくことになるのです。
また精神的な側面においてだけではなく、肉体的な側面においてもそれは指摘することができます。例えば、極端な節食や、睡眠不足が続くとか、過度の肉体的鍛練などが、人格破壊に大きな影響を及ぼすのです。
結論
最後に結論を述べてみたいと思いますが、これまで見てきましたようにセクト的集団は、個人や社会、国家に対して強力な破壊力、または腐敗させる力をもっていて、この力をあなどってはいけません。しかし、一方でセクト的集団の違法な活動に対して何らかの形で戦わなければならないにしても、言論の自由というものを尊重しなければならないのです。それゆえに、少なくとも彼らが自分たちの権限内で活動している限りは、私たちは信仰というものの領域、もしくは宗教団体や市民団体というものの領域に威圧的に介入していくことはできないのです。
だからこそ、最も賢明な対処の仕方としてはおそらく、セクト的な現象をしっかりと分析して、それを多くの人に伝えることが一番重要なのではないかと思われます。
*1 フランス語における「モア」(Moi)と「ジュ」(Je)の違いについて。フランス人は「モア」と「ジュ」の違いがはっきり分かるんですけど、日本語ではその違いがありませんのでもう少し説明してください。
非常に簡単な表現を用いますと、「モア」というのは、誰かに自分を紹介するために名刺に書いて表現できるような種類の「私」であります。また「ジュ」というのは私自身の「精神性」のことであり、これは名刺に書き込めるものではありません。
*2「鏡像段階」は幼児の発達段階の一つを言いますが、これはだいたい生後18カ月頃を指しています。この頃に幼児は鏡の中に自分が両親と共に映っているのを見ます。そして幼児は鏡に映る自分自身が、両親と同等の立場である「誰か」であると認識するのです。つまり誰か別の人間であると理解してしまいます。このときに、自分自身を対象化した幼児の中に「ジュ」(私)という意識が芽生えるのです。この段階までは、幼児は自分のことを話すときには第3人称で話します。例えば自分のことを「〜ちゃん」と呼ぶのですが、まさしくこの鏡像段階で、幼児は自分のことを初めて「ぼくは」(ジュ)として語りだすわけです。日本の子供も同じであると思いますが、この頃から何につけても「いや」ということをいい始めるのです。というのも、その子は第2次過程、つまり「否定」という段階へと到達したからです。
セクト的集団の論理資料
1)グル(セクト的集団指導者)の典型的な心理的プロフィール
あらゆる全体主義的セクト的集団の指導者を彼らの客観的な略歴、実際の行動、著作物から研究した結果、さまざまな違いは認められたにせよ、常にいくつかの特徴があげられる。その特徴は、精神医学の領域で指摘される「ヒステリー性境界状態」(精神病と神経病の境界にある状態)において見いだされる。
主要な特徴は以下の通りである。
広範囲にわたってこれらの指導者たちは、ほとんどもっぱら「第1次操作」によるプロセスに従って、作動している。第1次操作とは「投影」(他人が〜である)、「取り込み」(私が〜であって、他人が〜ではない)、「同類扱い」(ある部分の類似だけで全く同じものであると信じ込むこと)、「現実否認」(私はそれを見たくないし、知りたくない)という4種類の操作である。
これらのプロセスはひたすら「類似」という現象を追求する。「類似」においては、あらゆる差異は現実否認によって消し去られる。また、似ていること、同じであることを拒否するものも常に現実否認によって排除される。
これらの指導者たちが生活の中で広く優先的に行うことは、「行動する」そして「感じる」ということである。たとえ彼らが自らのことを神秘主義者であるとか、感傷的理想主義者であるとかを主張したとしても、彼らは決してそうではなく、実際のところは物質主義者であり、享楽家である。倫理的なあらゆることは彼らにとっていかなる現実的な意味をもたない。
彼らは権力や支配に限りなく貪欲である。
彼らは誇大妄想狂、虚言症であり、そして自ら誘惑的な嘘を本当であると信じ込んでしまう最初の人間であり、そのことが自分自身に厚顔さと、ある種のカリスマ性を与えているのである。
かなり多くの場合に、彼らの誘惑の欲求は物質的な享楽の欲望に結びついており、それらは彼らの表面的な嘘の背後に巧妙に隠された性的異常となって現れる。
彼らはまた、注目を浴びたい、脚光を浴びたいという押さえがたい願望、広い意味での露出性をもっている。それは言い換えれば、衣服、儀式や住居(様々な「神殿」、城、邸宅)への関心であって、セクト的集団の(そして指導者の)富を野心的に拡大するという意図に基づいている。
そして最後に彼らは扇動的であるという特徴をもっている。
2)マインドコントロール
マインドコントロールとは、第1過程の原理である直接性と類似性を自分のために用いることで、一人の人間をそこに閉じ込め、自分の思うように彼を導くことが目的である。
類似性
・あなたは私たちと同じであり、同じ関心を持ち、同じ理想を持っている、と信じ込ませること。
・あなたのことを私たちは理解している、またあなたがなりたい理想の人間像に対して、私たちは賛成していると信じ込ませること。
・現実の多様性を部分的なイメージの単純性にすり替えること。
・人工的なイメージで現実を遮断し、すり替えること。
直接性
・人を直接性の中に閉じ込め、距離を置いて据えることを不可能にすること。従っていかなる質問も不可能となる。
直接性は次のことと関わっている。
・空間:集団における雑居性
・時間:恒常的な緊急性、同じことの繰り返し(読書、詩、礼拝、その他)
・時空:現実的、人工的な過度の忙しさ
用いられる論理はもっぱら第1の操作でありプロセスである。
・一時的な類似性によって同類扱いにすること
・世界を絶対的な善(集団と指導者)と絶対的な悪(外部の者)に分けるために同一化の作業を行う(投影と取り込み)
・スケープゴートを作り出す(うまくいかないことは全て、外部かもしくは「裏切り者」の責任にする)
・あらゆる反論及び不都合なことを消すために現実否認を用いる。
この講演文はマックス・ブーデリック氏と全国霊感商法対策弁護士連絡会の山口弁護士の許可を得て掲載しています