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「カルト資本主義」ニューエイジをめぐる対話より抜粋
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/115.html
投稿者 へなちょこ 日時 2005 年 4 月 03 日 22:09:40: Ll6.QZOjNOr.w

(回答先: カルト 科学 哲学 セクト 投稿者 へなちょこ 日時 2005 年 4 月 03 日 21:51:10)

http://www.geocities.jp/noboish/newagetaiwa/newagetaiwa5.htm より

NOBORU:
 『カルト資本主義』の斎藤氏は、ニューエイジの特徴を


 「オカルト的な神秘主義を価値観する。西洋近代文明を否定する態度を示し、そのアンチテーゼとしてのエコロジーを主張する。個人を軽視し、全体の調和を重視する。情緒的・感覚的であり、論理的・合理的でない」

 などの傾向として捉えています。 これらが精確にニューエイジ運動に当てはまるとは思いませんが、一部にこれに類する傾向があることは確かでしょう。個人主義や科学万能主義へのアンチテーゼであるがゆえに、全体主義的で、科学的な合理性の放棄につながりやすいというのです。

Paratorapa:
 確かに新霊性運動(ニューエイジ;精神世界)が合理的近代に対するカウンター・カルチャーであるからには,指摘されるような特性も出て参りますね。

 ただ,私の理解では個人を軽視している,というのはどうかなと思います。むしろ,個人の感覚,実感の重視,個人を出発点とする社会変革の意識という特性がニューエイジ,精神世界にはあります。それが従来型の新宗教の組織中心性とは異なる点だと思うのです。

NOBORU:
 斎藤氏によれば、従業員が、無我執で、すべてを必要必然ベストと考えてポジティブシンキングで働いてくれれば生産性が上がるから、管理する側は、積極的にニューエイジ思想を利用する。しかもに日本の場合は、伝統的な集団主義や和の思想、天皇制を背景とした没我の思想が、ニューエイジを受け入れる無意識の土壌となって、ますます管理をしやすくしている。

 これは一面で当っているかも知れないと感じます。まさに個を超て成長していこうとする新霊性運動が、権威主義的な支配−隷属関係(サドーマゾヒズム的な関係)にからめとられて、「前個」(個人の確立以前)の集団主義に変質してしまう危険性を秘めているのです。 戦前・戦中の仏教者が、「無我とは滅私奉公だ」と唱えた時と同じ構造が、もう少し形を変えて、というよりかなり見えにくい形で私たちの社会の中で根強く生きながらえているのです。
 しかし、何回も言ってきたように「新霊性運動」とは、個人以前の全体や集団に埋没することではなく、個人的な自我の限界を超えて、成長することを目指しているはずなのです。 この道を少しでもはっきりさせるためにこそ、実証性を重んずる態度、開かれた態度、個としてのあるいは集団としてのエゴイズムの自覚的な乗り越えの姿勢などがますます大切なのだと思います。

Paratorapa:
 経営理念としてニューエイジ的な思想を取り入れるならば,それは組織中心の宗教様の信念体系(教義)になるわけであり,滅私奉公的なマインド・コントロール装置として従業員の信念の刷り込み,主体性の剥奪につながるでしょう。それは経営者の権威を袈裟に着た支配−隷属関係 の構造を何ら変えるものではない。管理統制のための思想をニューエイジ系のものにすげ替えただけです。

 ニューエイジ自体がモザイクであり,一貫性,整合性をもった思想ではありません。十分に熟成され,成熟していない。一つ間違えば,前個的な自己愛の増幅につながるということは,ウィルバーも批判しているところです。 都合のよいところだけをつまみ食いして,経営戦略に組み入れるのも,経営者自体の見識の浅薄さを意味しているのではないでしょうか。マスローが晩年に提案した「Z理論」では,超越的な自己実現者による組織経営のあり方についてモデルが出ています。全体主義的,前個的埋没ではなく,かといって単なる自己実現で終わらない,別のタイプの組織運営のあり方が提案されています。 無批判的に外からの情報を鵜呑みにする,合理的な思考を放棄する,実証的な姿勢と開かれた態度を失うことは,妄想と妄言を膨らませるだけであると思います。理性と感性のバランスこそが重要であると思います。

NOBORU:
 斎藤氏のニューエイジ批判は、ご指摘の通り「外側からの評論の域にとどまっているものであり,合理的近代を超えた部分で議論をするトランスパーソナルの立場から見ると,そもそも議論の土俵が違う」ということに尽きるのです。

 私たちが、この対話で行おうとしているような、内側からの批判とはまったく違います。近代科学的な世界観から一歩も外に出ようとせず、その基準に合わないものはすべていかがわしい「オカルト」として批判の対象となるのです。その基準は、疑うべからざる大前提のようでした。「気」も、生まれ変わりも、その他一切のニューエイジ的思考も、その基準から判断して「オカルト」なのです。

Paratorapa:
 そのいかがわしさを排除し、不合理なるものを抑圧してできている社会が構造的な疲弊をきたしており、さまざまな問題を起こしているという見方もできます。

NOBORU:
 精神世界への関心やニューエイジ運動と呼ばれるものが、社会の構造的な病弊から生ずるウミのようなものなのか、それとも病弊を癒すエネルギーを秘めているのか、その辺をどう捉えるかが、評価の分かれ目になるのでしょう。もちろんウミのような部分もあるのでしょうが、私自身は、病弊を癒すエネルギーになる部分に着目して行きたいです。

 さて、日本のニューエイジ的な運動を、彼は「カルト資本主義」と命名します。基本的にそれが、経営者等、指導的な立場の人たちによって広められ、方便として利用されているからだというのです。

 彼自身の言葉で「カルト資本主義」の特徴を列挙します。

1)オカルト的な神秘主義を基本的な価値観とする。
2)西洋近代文明を否定する態度を示し、そのアンチテーゼとしてのエコロジーを主張する。
3)個人を軽視し、全体の調和を重視する。
4)情緒的・感覚的であり、論理的・合理的でない。
5)バブル崩壊後、急速に台頭してきた。
6)企業経営者や官僚、保守党政治家ら、現実社会の指導者層に属する人々が中心的な役割を担っている。その支持者たちも、一般に“エリート”と目される高学歴の人々が多い。
7)“無我の境地”“ポジティブシンキング”など、個々人の生活信条に属する考え方が、普遍的な真理として扱われる。
8)現世での成功、とりわけ経済的な利益の追求を肯定する。むしろ、ことさらに重んじる。
9)ナチズムにも酷似した、優生学的な思想傾向が見られる。
10)学歴などに対して、普通以上に権威主義的なところがある。
11)民族主義的である。

 以上です。あたっていない部分もあるし、一部の傾向をニューエイジ全体に広げて理解する間違いを犯している部分もあると思います。とくに8)以下。しかし、丹念な取材を通して個々の内部事情を明らかにしているところは評価できます。  

Paratorapa:
 十把一絡げ的な扱いは著者の偏見と認識不足から来るものでしょうし、 少々強引な結びつけ方をしているようにも感じました。

 以前、Noboruさんの日記(本サイトのダイアリー:Noboru注)にもあげてらっしゃった放射医学総合研究所の気の研究や国会議員の気の研究会については、私もある程度は聞いています。

 前者は放医研の山本研究室が一貫して気功師を対象に実験的な研究を行っているもので、動作の遠隔的同調などのデータを先月の葉山町でのフォーラムでも報告されています。むしろ、自然科学的な手続きをきっちり守り、暗示、感覚的手がかりなどの影響を排除し、二重盲検法などを使って計測を行っているわけであり、きわめてオーソドックスな「科学的研究」であります。

 後者は国会議員の趣味として健康法として、気功を習ってみたい、勉強したいという程度のものであり、何やら密談しているわけではありません。 フォーラムの印象記にも書いたように、今後は潜在能力に関する学術的研究をおこなう機関、大学も設置されるようになると思います。

NOBORU:
 著者の一番の批判は、この運動が国家や大企業の指導層による誘導によって「共通の価値観」にされてしまうこと。管理の手段とされ、方便として利用されて、大規模な形で「洗脳」が行われてしまうことであるようです。  


 確かにニューエイジ運動の中の一面には、このように利用されている部分があるだろうと思います。そして、そうした部分には絶えず注意を払い、批判すべきところは批判して行くことが非常に大切です。この対話も、そうした批判のひとつとして始められたわけですし。

Paratorapa:
 この運動が管理の手段とされているという点については、 一部の経営者はそうなのかもしれませんが、私の印象ではニューエイジの主流は基本的には個人単位の活動であり、社会的な枠組みから外れたり、自信がなかったり、精神的にもろかったり、いずれにしても社会的不適応感の強い人々が多いのではないか、という印象を持っています。 斎藤氏は資本主義という経済的な側面に着目して、ビジネスとしてのニューエイジに焦点を当てているようで、それはそれで言い得ている部分もあると思います。しかし、外部からの観察の限界かな、ニューエイジジャー個々人の心性にまでは踏み込んでいないような気もします。

 私が以前行った調査では、ニューエイジに通じる信念(心霊、超常的能力など)を持っている大学生はそれを否定する学生よりも、性格的には社会的不適応の指標の得点が高かったです。 他方で、伝統的価値に対して抵抗を示し、身近な事象への関心・社会的事象への無関心(結局、人のことは自分とは関係のないことだ、自分が損をしてまで、皆のためにつくすのはバカげたことだ、他人のために時間をとられたくない、ボランティア活動や奉仕活動には興味や関心はない、自分のことに精一杯で、他人のことを考えるだけの余裕がない)という傾向は弱かったのです。

 これをまとめるならば、脆弱だが優しい、静かな抵抗者としてのニューエイジャーのイメージが出てきます。

NOBORU:
 社会が構造的に病んでいるからこそ、そういう社会に不適応をおこす健全さをもった若者たち、と見ることもできると思います。健全な社会からの「逃避」と、病んだ社会からの「逃避」とでは、同じ言葉でもずいぶん意味合いは違うのでしょう。

Paratorapa:
  おっしゃるとおりだと思います。

 社会の中に居場所を見いだせない若者がいるということは、昨今の青少年の問題行動の頻発にも通じることだと思います。 反社会的行動として暴発することにありますし、引きこもり、不登校あどの社会に背を向ける行動として生じることもあります。 そして「社会外」に飛び出ていくパターンもあるわけです。 「霊的モラトリアム」とでも言えばよいでしょうか。積極的な求道としてのモラトリアムもあるでしょうし、拡散したアイデンティティのまま、霊的プー太郎としてフワフワしているさすらい人もいるでしょう。

 ただし、自我の確立という視点から見れば、それを延期しているわけですから、いずれも「前個」状態ということになります。また、社会の中にいることを基準に考えれば、いずれも社会外にいるドロップアウト、逃避に見えるでしょう。 それが単なる逃避、消極的厭世ではなく、建設的な意味があるとしたら、これもライフスタイルの1つと見なすことはできます。 しかし、一生そのままの生き方ってできるのかどうか、私には疑問符がつきます。 つまるところ、持続性を持った社会的なつながり、一定の社会的参加がなければ、この世界を変容させることはできないと私は思うのですが。

NOBORU:
 現実には、病んだ社会からの逃避が、「前個的自己愛」を残したまま、いや残しているからこそ、新たな権威(宗教的な権威やグルという権威)への依存的な関係に巻き込まれ、埋没しててしまうというケースもかなり多いのでしょうね。

Paratorapa:
  それこそが問題とされる側面だと思います。 私の見てきたニューエイジの多くはこの前個的自己愛の段階にとどまっているものです。傷つくことを極度に恐れ、自己防衛で完全武装しているパターン、あるがままの自分を見つめることを避けて、ゆがんだ自己認識に陥っているパターン、互いの傷を舐め合い、同病相憐れむのパターン、考えることを止めて、無批判的、無抵抗に権威に依存しようとするパターンなどがそれです。いずれも逃避の否定的な側面でしょう。

 ところで、ウィルバーもニューエイジに対してはかなり厳しい見解を示していますね。前個的自己愛が中心であると。トラパとニューエイジも日本では混同されているところがありますが、別のものであると思ってもらった方がいいでしょう。 トラパはニューエイジ的世界観を弁護しているわけではく、問題によってはむしろ厳しく批判している訳です。前個的なものを超個であるかのように持ち上げる誤謬であると。

NOBORU:
 ウィルバーに代表されるトランスパーソナル心理学は、精神世界への関心が場合によっては間違った方向に進んでいくかも知れない可能性をチェックする機能としても大きな意味があります。その意味でももっともっと関心を持たれ、学ばれ、広められていくべきだと思います。

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