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(回答先: 中井正一におけるメディウムとミッテルに関する一考察 後藤嘉宏 投稿者 愚民党 日時 2005 年 3 月 08 日 09:58:22)
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Space as Diagram, Space as Rupture
[0.3]
http://home.att.ne.jp/gold/dravidian/nakai/nakai00b.htm
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中井正一は、美学者であると言われる。無論、これは、間違いではない。本人もまた、公の場所に於いて、或いはそう名乗ったことであろう(キノザッツ研究者を自称したこともあったようであるが)。
だがしかし、そうした肩書きを過剰に重視するのは、そもそも馬鹿げている。例えば、中井が執筆した論文のタイトルをざっと一覧すれば誰もが気付くように、彼は美術について、映画について、スポーツ、演劇、建築、哲学、或いは更に、図書館、言語、無意識、委員会、ユダヤ性、日本、そしてまた推理小説について、換言するなら、およそあらゆる文化的事象について語ったのである。
アカデミックな専門領域を大幅に踏み越えてのこうした執筆活動は、当時のエンサイクロペディストとしての面目躍如たるものがあるし、それは或いは今日のアカデミズムに於いては、単に「批評」にのみ関わるものとして、看過されることであるのかもしれない。
しかし孰れにしろ、多田道太郎もまた或る席で言っていたように(19)、それが一体如何なる事象ないし現象であるにせよ、中井は常にその根源に関わる論理を立てたのであるし、またその意味に於いては、常に一貫した理論を展開している。
しかもまた、それが原理的ないし哲学的思考の簡便な説明の為に映画を利用した、という進展を示す訳ではなく、まさに映画を考察する事によって、逆にそうした根源的な思考へと到達しているのである。
今村太平の次の言葉、すなわち、「中井正一が伝統の美学に見切りをつけ、そこから羽ばたき、飛び立ったとき、その飛翔のエネルギーは映画からえられた。したがって中井美学の内容の大部は映画理論である」(20)という言葉もまた、同様に解されるべきであろう。
しかしながら、先の引用に続いて、今村が次のように言うとき、事情は、いささか異なったものとならざるを得ない。
同じ年(一九三一年)のわずかひと月前に発表された「芸術的空間」では、中井正一は、まだハイデッガーの言葉を追い廻していた。そしてこの論文は「演劇の機構について」という副題をもっていた。中井正一はここではまだ演劇の壁の中で、「存在的呼び声」に耳傾け「実存」の影を追い求める人であった。だが『春』では彼はストップウォッチを握りしめ、スクリーンに躍動する社会主義の現実を見つめた。まさにここには新しい芸術の誕生とともに、蒼白き自我の哲学から解放された新しい美学者の誕生を見る思いがする。(中略)「春のコンティニュイティー」は演劇からの訣別であると同時に自我の哲学からの訣別でもある。まだ冬のさ中にある日本の歴史のどん底から、中井氏は映画『春』に未来の春を見いだしたのである。(21)
引用文中、「ストップウォッチを握りしめ」の件りの意味は、論文「春のコンティニュイティー」のなかで、中井が、辻部政太郎と共に映画『春』のカット数や持続時間を、まさにストップウォッチでもって計測し、その結果、表にしたものをそこに掲載していることに由来している。
それはともかくとして、今村のここでの言葉には、先に、中井美学の根底には映画理論があるとしていた言明から更に大きく踏み込んだ解釈と、そして敢えて付け加えるなら、何かそこに感情移入しているかの様な、あたかも自分の理論的な理想形態を歌い上げるかの様な調子を読みとることができる。
今村によるならば、中井はこの論文に於いて、またストップウォッチをその手に握ることによって、従来の「自我の哲学」から訣別し「スクリーンに躍動する社会主義の現実」に向けて雄々しく解放された、ということになる。
だがしかし、中井理論の根底に映画に対する思考が揺るがし難くあるにしても、それは一体、このような意味に於いてであろうか。
或いはまた、彼は本当に「蒼白き自我の哲学から解放された」のであろうか。
例えば、同じく中井映画論に触れた衝撃を語る「私にとっての中井正一」の吉田喜重は、近代的自我の概念を越えた主体性の問題について触れながら、中井にとっての主体性とは「ランボーのそれのように、ロマネスクなものではありえない。勿論、砂漠の彼方からタムタムの響きも聞こえない。組織と集団、それが私達の苦痛にみちた砂漠なのだ」(22)と語っている。だがしかし、こうした言わばサルトル的な主体性の問題にせよ、それは明らかにカント、ハイデガーをはじめとしたドイツ観念論に基づく諸問題の系譜に連なるものであるし、また構造主義などによって提出された、こうした主体性に対する疑義、すなわち、その「主体」に於いてさえ、社会的・文化的な諸関係によって、私たちの自由意志と呼ばれるものは既にあらかじめ決定されているのだといった疑義は、ここで改めて蒸し返すまでもないであろう。
一体中井は、何ものかから「解放」されたのであろうか。
ここでの課題とは、今村の「読み」によって中井を解釈する事にあるのではない。また、「機械主義」「マルクス主義」「自我の哲学」、その他それが一体如何なるものであろうとも、既知の何らかのバイアスをかけることによって、あらかじめ用意された文脈のなかに中井というテクストを押し込めることで、予定調和の「解放」を獲得することもまた、私たちの問題ではない。
だがしかし、その「中井というテクスト」を読むこととは、では一体どのようなことであるのか、という設問を為す前に、私たちは、ここで問題とされている「春のコンティニュイティー」という論文に立ち戻り、これまでやや粗雑な形でしか扱われることのなかった幾つかの点を確認しておく必要があるように思う。
例えば、岩本健児の論文「機械時代の美学と映画」(23)には、同じ中井の「春のコンティニュイティー」に触れ、「機械主義」の文脈を取り出した一節がある。これはしかし、中井を読むにあたって「機械主義」を前提にするものではない。逆に、「機械主義」の文脈を提示する中で、中井という固有名に触れるに過ぎないものである。その意味で、こうした岩本の論旨には納得がいく。
或いはその他、それが「マルクス主義」であれ「自我の哲学」であれ、その体系の展開に沿って中井を取り上げることは、それがその一貫性に於ける論理的構築物の輪郭を曖昧にさせることの無い限り、十分根拠のあることだと思う。
ここで私たちがそうした方向性を取ることはないが、同時に、それを全く排除することを意図してもいない。寧ろ、或る留保の下では、そうした体系性への指向を積極的に進めることさえあるだろう。
だがしかし、テクストとしての中井の読みにあたっては、何度も言うように、同じそうした行為が、最もクリティカルな思考の力線を見失うことに通じてしまうというということもまた、強調されて然るべきだ。
既に述べたように、「春のコンティニュイティー」に於いて、中井は、ストップウォッチを手にしている。これまでそれは、テクストとしての中井自体を「機械主義」の内部に閉じ込め、そこから一歩も出さないことの根拠としてのみ、機能してきた。しかし、彼にとっては、そうした計測行為がもたらすものとしての計測結果そのものが本来の一義的な目的であるのではない。
ストップウォッチによる計測を表にまとめた後、彼は、次のように記している。
「この表がわれわれにものがたるものは、すなわちこれまでの映画の形式のきわめて大胆なる破壊である。」(24)
逆に言うならば、それが「これまでの映画の形式のきわめて大胆なる破壊」であるが故に、その意味に於いてのみこうした計測は為されているのであり、フォルマリスティックな文脈に於ける同じ行為とは、データーの収集・統計そしてそれらの累積を目的にしないという点で、大きく異なっている(中井は、他のサンプルを挙げて、それと比較するということさえしていない。これは無論、方法の不十分さを物語るのではなく、まさに、目的の別を物語っているのである)。
では、「これまでの形式の破壊」に於いて、それをストップウォッチで計測・表示する行為とは、中井にとって一体如何なる意味を持っているのか。
ここで私たちは、それを映画理論史の内部で類推的に説明するのではなく、中井にとってのストップウォッチというデバイスが或る特殊な重要性を帯びた装置であるということを思い出すことから始めなくてはならない。
中井は、「スポーツ美の構造」に於いて次のように言っている。
例えば、「物指」および時計のもつ意味は、またあるいはそれに似ている。数学においては、対象的関係の数の領域における「関係自体」を数字あるいは線の上に代入して、その操作の表示とするに反して、物指の目盛は「物の関係」によって、倍加の関係を示す。それと同じ意味で時計はその目盛の上に数の関係に映されたる時を刻む。私は機械美の根底をこの「物の中に見出されたる関係自体の象徴的運用」としてこれを見たいと思う。すなわちそれは「もの」の中に働ける数である。すなわち数学および幾何学的線が標示 Zeichenとしての数であるならば、目盛あるいは機械関係は象徴Symbolとしての数である。かかる意味で機械の美しさを取扱うことが許さるるならば、比量的関係における同質的転換における人間の行為現象はすなわち「もの」の中に働ける力学性である。そして、スリットにあらわるる距離とタイムの函数性はその数学化である。真の働きにおける数。すなわち働きの中に浸されたる叡知的計量性。その厳密性。それがすなわちスポーツのもつ真聖と呼びなされるものである。(25)
数学に於いては、何らかの対象及びその現象に関して、それを数の領域に還元・抽象化した上で、標示する。それに対し、「物指」或いは時計(ストップウォッチ)に於いては、それを再び具体的な「物の関係」(一秒ないし一センチの差を示す間隔)に投射した上で、それを示す。中井が、いわゆる「機械美」を見出すのは、この点に於いてのみである。したがってそれは、取り敢えず「機械美」とは呼ばれるものの、如何なる意味でも個人的な美的感覚に従属するものではない。また、同じ意味で、ロマンチックで素朴な進歩への憧れを、機械や都市という象徴的な対象に投影=感覚化しているに過ぎない「機械主義」とも、なにものをも共有してはいない。
彼の言うところの、「物の中に見出されたる関係自体の象徴的運用」、或いは「働きの中に浸されたる叡知的計量性」とは、人間の対他的行為現象が、「関係自体」と呼ばれる純粋に力学的原則によってのみ支配される領域にまで還元された(ないしは関係付けられた)上で、その或る種暴力的なまでの単純化として、時計(ストップウォッチ)の目盛に事物として提示されることの、或る種の唯物的「真聖」を述べているのである。「真聖」と、少し大仰な言葉ではあるが、これはしかし、そのようにしてしか触れようの無い或る事実的関係性の厳格さを示しているのである(「『もの』の中に働ける力学性」「距離とタイムの函数性」)。これは本格的には、「関係自体」という言葉に代表させて、やがて論じるつもりでいるのだが、潜在的な意味では、この場所全体のテーマとも呼ぶべき問題の系であろう。
だがしかし、今はまだ、あくまで「春のコンティニュイティー」に於けるストップウォッチの役割にのみ問題を限定しておこう。
既に述べたように、中井は、映画『春』に於ける「これまでの形式の破壊」を言うためにこそ、ストップウォッチによる計測を行なっている。そしてまたそれは、データーの収集・統計の意図に基づくものではなく、計測という行為を通じて「働きの中に浸されたる叡知的計量性」を見出そうとするものである。これはすなわち、或る対象及びその現象に関して、何らかの経験的かつ累積的なデーターから総合的に判断された認識・把握を優先させること(一般的な意味での合理的立場)なく、しかも同時に、「真の働きにおける数」そして「その厳密性」をその現象自体と関わらせようという立場である。私たちは、ここに、中井独自の意味での「合理主義」を見出すことが出来るであろう。実際、彼は次のように言っている。
人間は、事実に対して依存することが真実に近づく最も近い道であることも、そのことから知ったのである。合理主義は決して主義ではない。人為的なものではない。人類の依存する自然の中に厳としてある法則性に対して、謙虚であることである。(26)
私たちは、この中井独自な意味に於いての「合理主義」を十分に検討するだけの前提は、まだ経ていない。しかし、少なくとも次のようには言い得るであろう。
つまり、「春のコンティニュイティー」に於けるカット数やその持続時間を計測するといった行為は、中井によって独自な用語として使われている「合理主義」というものに基づいているのであり、これまでの統計的なデーターに由来する座標成分の全体的なバランスからの逸脱によって映画『春』を論じようという意図は、彼にはもとよりない。彼がそれを「これまでの形式の破壊」と見做すのは、言わば(カント的な意味に於いての)ア・プリオリな断定である。そして、その断定によって内在された場所に於いてのみ、彼は、その映画それ自体と、ストップウォッチによって計測するという行為それ自体の間に立ち、それら両者が「関係性」を持つ(持ってしまう、この意味ではア・ポステリオリだ)という事実に現われる「法則性」「厳密性」を見るのである。その「法則性」とは、「機械美の根底」を為すものであり、「真の働きにおける数」を示している。そしてまた、こうした姿勢の全体をもって、彼はそれを、「謙虚」と呼んでいるのだ。
こうした「合理主義」こそが、これまで単に別種の審美的な基準に過ぎない「機械主義」に内属させて事足れりとされてきた、中井によるストップウォッチの計測行為が含み持つ真の意味に他ならない。
事情は、以上に記した通りである。であるならば、以下に見られる通念も再考されるに値するに違いない。
すなわち、従来、とりわけ映画的言説のフィールドで行なわれてきた中井についての解説や研究によると、彼の映画理論は、これまで触れてきた「春のコンティニュイティー」という一種のフィールドワークを終えた後、再び美学・哲学的な思考に基づく映画の理論的考察へと立論の場所を移動させていった、ということである。
そこから、或る場合には、先の様な実地調査に於ける中井をのみ評価するという姿勢もまた生じてきている。
しかし、これまでのここでの記述の上に立つならば、両者の間に断絶性を設定しようとするようなこうした態度は、少なくとも中井のテクストを十分に検討したものであるとは言えない、ということが指摘し得るであろう。つまり、まずもってストップウォッチによる計測という行為自体がデーター収集の意図に基づくのではなく、映画というものそれ自体に対する一種の原理的なアプローチであり剥出しにされた方法論とも呼ぶべきものであるのである。この意味で、中井の映画理論は、常に終始一貫していると言える。
また、逆に、私たちは同じ場所に於いて先の一貫性を踏まえた上での探求の変化ないし深化と呼ぶべきものをもまた、ここで指摘することが出来る。以下、この先の議論を多少先取りすることになるので、話を単純化しておこう。
つまり、「春のコンティニュイティー」に於ける中井は、ストップウォッチを手にしていた。そしてまた、それ以降の中井は、レンズとフィルムについての純粋に理論的な考察を推し進めていくことになる。これら両者が、共に原理的なアプローチとして一致していることは、既に述べた。しかし、それはまた同時に、映画に対する同じ原理性の思考に基づきつつも、より根源的な場所へとその位置をゆるやかに移行させているのである。
中井にとっての「機械美」についての記述を想起されたい。そこでは、「物の中に見出されたる関係自体の象徴的運用」として、その語が用いられていた。であるならば、すなわち、以下のことが言い得るのである。
つまり、対象それ自体に対する対他的な人間行為が事実として生ぜしめる「関係自体」とは、同じストップウォッチという装置に関して、例えるなら陸上競技が含み持つであろうような根源性を、映画に於いては遂に決して持ち得ない。
要するに、両者の間には、レンズとフィルムという今一つの装置(ないし装置群)が常に介在してしまうのである。
中井に於ける「春のコンティニュイティー」とそれ以降の諸論文との間に横たわる変化・深化とは、ここに見られるように、[映画→(レンズ・フイルム→)ストップウォッチ]という関係性の上位レヴェル(間接性・複合性)から、[映画→レンズ・フィルム]という下位レヴェル(直接性・根源性)への移行であるのだ。
このように、「春のコンティニュイティー」及びそれ以降に於ける中井の映画理論には、同じ思考の磁場に於いての深化ないし直截化と呼ぶべきものこそあれ、立論の仕方そのものの移動・断絶性は認められない。
彼は常に、映画に対する或る原理的な立場からの考察を続け、その探求に於ける深化によって考察の対象を変化させること(ストップウォッチからレンズ・カメラへ)はあるものの、彼独自の「合理主義」と呼び表される概念をそこに見出し、それを展開するということだけは、決して変わらなかったのである。
そして、今や私たちもまた、そうした中井の原理的な思考についての、と言うより寧ろ、その思考に基づきその思考から権利上「読む」事の出来得る思考へと向けて、私たちの論を展開し得る段階に立ち至ったことと思う。と言うのも、これは久野収や多田道太郎など多くの論者が指摘していることであるのだが、例えば栗田勇の言葉を引用しておくなら、次のようなことだ。
それで、そういう姿勢こそ、中井さんの本を読み、中井さんに接する上にも一番基本とされるべきものではないかと思うのです。自分が、自分の足で、自分の思弁力で疾走していなければいけない。立ちどまっておもむろに、球を受けとり、抱きかかえてはいけない。走りながらラグビーの球を受けとって瞬間に投げ返す、そういう姿勢が無意識にでも出てくるように訓練させるのが中井さんの本だと感じます。(27)
中井の理論が、或る特殊な用法に於いて使用された「合理主義」の概念に関するものであることは既に述べた。ここで更に付け加え得るのは、そうした「合理主義」は、単にテクストの中身にのみ関わるものではなく、まさにそうした言説を組織してゆくエクリチュール行為自体にもまた関わっている、ということである。
つまり端的に言うなら、中井の文章の或るものが「実践」を話題にしているのであるならば、そうした中井の理論自体が「実践」であることもまた意識されるべきであるのだ。
無論これは、中井にのみ関わるものではなく、およそ何らかの優れた理論活動を為し得た者に関しては常に意識されるべき事柄であろう。ただ、ここで栗田がそうしたように、中井に於いてそれがとりわけ強調されねばならない理由とは、こうした二重の意味での「実践」ということ自体が中井によって強力に自意識化されており、そしてその両者が必然的に辺りに波及させざるを得ないテクスト空間の緊張そのものによって、彼の言説が自らを支えているからである。
中井の理論とは、その理論化行為自体によって正確に「実践」と呼ばれるべきものであり、またそれを「読む」という行為もまた、それに相応しく「実践」されたものでなくてはならない。
これはしかし、同時に如何なる意味に於いてもその個人的な読解を許すということには、決して結びつかない。寧ろ、そうした「実践」の場所に於いては、個人的な読解の一切は常に厳しく禁じられることであるに違いない。
と言うのも、そうした「実践」という行為が齎らし得るものとは、客観性の対としての主観性の問題とは、全く関わりがないからである。或いはまた、システム論的な決定性とは対極にある主体の問題とも、それは関係性を持っていないからでもある。
換言するなら、こうした「実践」の位相とは、[主観−客観]、ないし[構造−主体]といった類の二元論的発想とは、根底的に次元を異にしているのである。
私たちは、中井の映画理論と機械主義、「春のコンティニュイティー」とそれ以降に於ける断絶の有無といった問題から始め、彼の「合理主義」についてその独自な概念の外郭について幾らか垣間見ることが出来るような場所にまで、ようやく辿り着いたように思う。以降の展開に於いては、ここで最後に示した通り[主観−客観][構造−主体]の問題の周辺を巡り、如何に中井がそうした思考の磁場から離脱して行くかについて、まず述べて行くこととなるだろう。
そしてまた、こうした議論が意識的・無意識的を問わず最も鮮明に具現化する場所として、映画理論に於けるリアリズムの問題が際立って取り上げられることになる。
何故ならば、そこで繰り返し議論に議論を積み重ねられてきた事実性とフィクション性の問題こそ、同じこうした二元論の周囲に展開しているものであるに他ならず、また、ここでの私たちの立論の立場として、そうしたリアリズムの議論に於いて、それをフォルマリズムとの二分法、ないしそれら一方による他方の超克といった理念によって語ることの決してなかった中井、或いは、単にリアルというもの自体を指し示す楽天性によって、リアリズムの立場を揚棄しようという試みもまた、決して行なうことの無かった中井という存在のきわめてオリジナルなあり方を、可能な限りの繊細さをもって考察する必要があるからである。
次の章では、まさに映画理論そのものについて、そしてまた「映画」という言葉が事実上表象概念でしかないことと、であるにも関わらず必然であるかのように起きざるを得ない或る種の誤解というものについての考察から始められる。
ここであらかじめ断っておきたいのは、この文章に於いては、「映画」というものを表象概念なしで考察し得ると言っている訳では決してない、という点である。無論、私たちはそうした概念から「決定的に異なった思考」というものを或る意味で(ア・ポステリオリな)作業仮説とする。しかしそれは同時に、何度も述べるように、体系性(及びその体系内に於ける構築物としての概念)というものを全くその視界から排除するものとは、決してならないのだ。
寧ろ逆に、そうした「決定的に異なった思考」と呼ばれるものとは、体系性・(理論的構築物としての)概念性がその中からしか生まれてくることの無いような何かでさえあるのである。そして、こうした微妙な点に於いてこそ、中井独自の意味での「合理主義」というものが、私たちの思考に足るものとして示されることとなるのだ。
私たちもまた、「走りながらラグビーの球を受けとって瞬間的に投げ返す」ことこそが、まさにそこで必要とされるに違いない。
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