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(回答先: 『攻殻機動隊』における自我 倉岡悠 投稿者 愚民党 日時 2005 年 3 月 10 日 06:36:53)
W 意識現象の唯物論的定義
報告者:柳橋大輔
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ktanioka/lacan/Lacan-report5.htm
W 意識現象の唯物論的定義(邦訳 pp.65-85)
発表:柳橋
(前置き pp.65-66)
・このセミネールの教育方針=このセミネールはあくまでフロイトのテクストの反映でしかなく、自分でフロイトのテクストを読まねば意味がない
というのも、フロイトのテクストにある組織だった矛盾に現れるフロイトの思考の動きを辿ることこそが重要だから。
・これから示す読解は私の分析経験のたまもの。そこで見えてくるのは、「フロイトが人間の中に主体の重みと軸を発見した」ということ
・主体の定義:「経験の全体を覆い、経験に命を吹き込み、意味を与えることになる、象徴の組織化された体系」
・このゼミを実践に役立ててくれ。
1 (pp.67-73) 〔自我に対する主体の脱中心性〕
p.67
聴衆の「抵抗」が予想される。
(前回読んだフロイト『快感原則の彼岸』参照。反復している過去の外傷体験をそれとして認めることを自我が快感原則(≒恒常原則)に基づいて拒絶すること)
抵抗せずに私のしゃべる未知の経験に自らを開こう。
pp.67-68
親子関係(とりわけエディプス的な三角関係=パパ・ママ・ボク)を分析経験の中心に置くこと
→ 分析経験を個人的・心理的経験へと収束させてしまう
⇒ 確かに有効ではあるが、実はそうしてはならない。
pp.68-69
その理由:ある患者が見たひっくり返った乳児の夢。ラカン、この夢を分析。
ここには、一般に考えられているような患者の家族内における感情的・具体的な依存の問題よりもむしろ、あるもっと広い象徴体系のなかでの自分の価値が知りたい、という問いが現れていると解釈。
pp.69-71
さて、「抵抗の分析」とは?
一般に考えられているように、自我の抵抗がいかに真実を覆い隠すかを主体に悟らせることではなく、分析関係において分析家の返答をどの水準で行なうべきかを知ること。
自我の水準 自我以外の水準
感情的・具体的水準
=体験の問題性 患者の無視している彼の歴史の水準
=運命の問題性
歴史的テクストの水準 「症状の固有の水準」・「分析の本質的な水準」
個人の正常な発達・正常化を目指す 個人的経験に対し脱中心的
自我相互の対話・精神療法 症状はこの水準での介入に反応
この意味での抵抗の分析を前提としなければ症状は解決しない
pp.71-73
まずこの二つの水準を整理しよう。
・無意識=自我に無視された主体=「われわれの存在の核」(フロイト)
・無意識≠自我 「無意識の主体の「私」は自我ではない」
だが他方、
これまでの自我は誤りの自我であり、「私」=無意識こそが真の自我(「ほんとうのわたし」)であるというかたちの単純化=中心化
→ 単に中心をずらしただけ
フロイトの発見を無にするだけ
(悪しき弁証法。エリクソン〈アイデンティティの心理学〉など?)
自我は「私」とは別のもの。(自我は「私」ではない。)
したがって自我は誤りというより、むしろ幻想・想像的機能を持つ一対象
自我に対する主体の脱中心性こそが本質的。
2 (pp.73-80) 〔意識の唯物論的定義〕
pp.73-74
現在(1954年)、みんなが持ってる自明性 意識=自我 ⇒ 公準・第一原因
「われわれの存在が与えられる」場と確信
⇔ フロイトはこうした意識の「幻影的側面」(「像」)をほとんど説明しなかった
(Vgl.『快感原則の彼岸』四 の「知覚−意識(W-Bw)システム」)
→ フロイトは匙を投げたのか?
こうした自明性を支えているもの=意識のそれ自体に対する透明性・直接的反省の自明性
何ものかについての意識(für sich)は、
それ自体においてある意識(an sich)をとらえられなければならない
⇒ 意識は自己反省を前提とする
デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」
一方で直接的反省の自明性を説明
他方で認識される意識と認識する意識(「定立的意識と非定立的意識」)とを区別
pp.75-76
意識や自我をめぐるこうした問題を一気に解決してしまうために
鏡について考えてみよう:鏡像は現実の対象ではなくいわば意識現象そのもの
譬え話:
意識=「人間」が消滅しても鏡像=意識現象は存在するか?
⇒ フィルム・カメラなどの装置・機械のうちに鏡像=意識現象は存在する。
そこへ人間が帰ってきたとする。
人間はフィルム(機械)に再び像を、また自我には感知されない現象をも知覚する
⇒ 意識現象:いかなる自我によっても感知されず、反省的にとらえられもしない。
しかしどこかしらには「私」=脱中心化された主体がいる。
(整理:意識(現象)⇒ 反省的ではない。したがってここでは「非定立的意識」をさす
外に出ていくだけで帰ってこない意識・「われ思う」)
pp.76-77
自己反省的意識(=自我意識・「人間」)とは別に(以前に)存在する意識
=意識(現象)=機械が記録する「鏡像」
機械:間主観的領域を流通する交換の対象であるパロールによって作られる、
主体の活動から切り離された構造=象徴的世界
象徴によって構成される間主観的領域(象徴的世界)に組み込まれているかぎりにおいて、人間は脱中心化された主体である
pp.77-80
machina ex Deoではなく、むしろDeus ex machina(機械仕掛けの神/神を機械から)
⇒ 初めにパロール=機械ありき?
こう考えれば第一原因を設定することなく意識現象について考えることができる。
意識についての宗教的構想(「中心点としての反省的意識」)から訣別せねば。
(Z.B.神人同形論、科学主義的無神論、生気論、総体的行動主義、などなど)
⇔ 意識は無人世界の鏡像同様偶然的。予め中心点などない。
他方意識(ここでの意味での)を無視することは人間的現実の去勢の一つ
← 行動・行為・熱情を基礎付ける間主観的関係(象徴的関係)の
排除を意味するから
ここで使っている「意識」という概念の仮の種明かし:
ある表面(鏡・「線条野」)に現実的空間に対応した「像」が
生み出されるたびごとに生じるもの
=意識についての唯物論的定義
3 (pp.80-85)
〔自我 + 意識(像) ⇒ 主体〕
pp.81-83
では自我はどう理解したら?
自我:意識の領野の内部にあるが、意識(=中立的)とは異質なあるまとまり
⇔ バラバラな諸傾向(意識現象?)
⇒ 鏡像段階の弁証法へ。
特徴
主/奴=麻痺者/盲人の弁証法(Hegel)。
蛇/その視線に射すくめられた鳥。自我の構成に魅惑は不可欠
一方が他方に依存する複数の自動機械:後者が自我、前者は言わば意識現象
pp.83-84
( 3)のような状況(ある者の行為が他者に依存するという関係)は人間を構成する状況に他ならない。
欲望の平面において私(「」なし)と他者は両立し得ない←私の欲望は他者の欲望だから。
こうした「ライバル性」→「承認」(操作主体へ))
上の括弧内は自動機械の例では問題にならない。
この場合一方が自我のまとまりなら他方は直接的欲望・「バラバラな諸傾向」(=意識現象)
⇒ この両者は未だパロールを欠いている。
← 意識のみならず自我も想像的機能でしかないし。
pp.84-85
パロールを(ひいては操作主体を)成立させるためには、
第三のもの が 無意識のなか
機械を越えた上のところ になければならない
それには象徴体系が自我に関与する必要 ⇒ 複数の間の 認識 ではなく 承認
承認 = 自分が個別であると同時に普遍でもあることに気付くこと・「自分自身を他のものの一つとして数える」(⇒ 自己反省を行なう。〈理性〉(Hegel))
この弁証法的過程を経て初めて操作する主体=人間(×機械)が生じる
自我はみずから象徴を用いることができるようになる
次回は主体全体を包括すると信じ込まれている状態における自我について考えよう。
→象徴界における自我へ?
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ktanioka/lacan/Lacan-report5.htm
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