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(回答先: 【隠遁の指導者−1】金正日総書記の業務スタイル【朝鮮日報】 投稿者 天地 日時 2005 年 1 月 13 日 08:18:43)
【隠遁の指導者−2】金正日総書記の素顔に迫る
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/01/06/20050106000048.html
金正日(キム・ジョンイル)総書記は父(故金日成(キム・イルソン)主席)に対しては「絶対的な忠誠」、母(金貞淑(キム・ジョンスク))に対しては「尊敬」した。
妻に対しては神経を使ったが、すべての行動に対して干渉をした。子どもは可愛がったが、一度仲が疎遠になったり、憎まれることがあると、徹底して無視した。
長男の金正男(キム・ジョンナム)氏が生まれた時(1971年)、金総書記は明け方に妊婦(成恵琳(ソン・ヘリム))が入院していた病院全体に鳴り響くほど、大きく車のクラクションを鳴らし、喜んだ。病室の外で待っていたところ、息子が生まれたという連絡を受けたのだ。金総書記は車で成恵琳氏の姉ソン・ヘラン氏の自宅を訪ね、「たった今、恵琳が息子を生んだ」と言って大喜びした。
「長男に対する金総書記の愛情表現は格別だった。正男氏が3〜4歳の頃、「おしっこしたい」と言うと、下着姿のままの金総書記が牛乳のビンを持ってきておしっこをさせるビデオテープまである」(金総書記の義理の甥 イ・ハンヨン氏)
絶対権力者らしく、息子には何ても与えた。正男氏の誕生日には100万ドルを使って世界中の玩具を買い占めたこともある。最新のゲーム、玩具、ダイアモンドを散りばめた時計、金でメッキされた玩具の銃なども、300坪に達する正男氏の玩具部屋いっぱいに入れられた。
金総書記が官邸で一人で食事する時、5〜6歳になる正男を食卓の上に乗せることもあった。1980年3月、正男氏が留学のためスイスのジュネーブに行った時、金総書記はほぼ毎日正男氏に国際電話をかけた。
「金総書記父子は電話線を通じて泣いていた」(ソン・へラン氏)
その後、金総書記は高英姫(コ・ヨンヒ)氏を新しい妻(75年ごろから付き合いはじめ、79年ごろ同棲を始めたと伝えられている)として迎え、高英姫氏が息子(正哲(ジョンチョル)、正雲(ジョンウン))を生むと、愛情は正男から正哲、正雲へと移って行った。
正男氏がスイスに留学したせいもあるが、80年代の初めごろからは、地方の招待所(別荘)などに遊びに行く時も、必ず正哲、正雲兄弟だけを連れて行った。
金総書記は妻に対することもすべて管理した。金総書記が高英姫氏と同棲をはじめたことから神経疾患を患い始めた成恵琳氏がモスクワに療養のため行く時や正南氏の留学なども自分の許可を受けるようにした。
金総書記が高英姫氏と出会う前まで、金総書記と成恵琳氏は極めて仲がよかった。成恵琳氏は金総書記より 5歳も年上だった。2人は同質の感性、芸術的センス、機知でぴったりと交感し、楽しくてたまらない友たち同士のようだった(ソン・へラン氏)。
高英姫氏は在日同胞出身で、北朝鮮最高の芸術団である萬寿台芸術団のダンサーだった。身長が高く、はっきりした目鼻立ちにすらりとした身体の高英姫氏は金総書記の目にとまった。
ある時は、稽古場まで訪ね、高英姫氏の練習する姿を見守ることもあった。後に、高英姫氏は週末のパーティーの際、金総書記の隣の席に座る固定のパートナーになった。
高英姫氏はパーティー会場に入る時から金総書記と同行し、直接上着を脱がせ、一緒にダンスを踊った。金総書記は高英姫氏と付き合う時、ベンツに乗ってドライブを楽しみ、車の中で韓国の歌を夜通し聴くこともあった。
金総書記は高英姫氏が子どもたちを連れて欧州を旅行したり、東京ディズニーランドに遊びに行くことを承諾するほど、彼女を格別信頼した(金総書記の料理人 藤本健二)。
金総書記の父に対する忠誠はものすごかった。金日成・金正日両氏の関係は、父子の愛情というより、「権力関係」が中心に置かれた印象が強い。金総書記は叔父のキム・ヨンジュ氏と権力闘争を行ったが、74年、金日成主義・首領独裁体制を完成した。北朝鮮という小さな地で、父を「神」にまつった見返りとして、絶対権力を受け継いだのだ。
金日成主席は「正日が私の息子だからではなく、私に思想の最高水準を味わせてくれた」と言及したほどだ。金総書記は父に「親孝行」を証明しようと努力した。後継者になった後も、毎朝主席宮に電話をかけ、父の「機嫌」を伺った(イ・ハンヨン氏)。
金日成主席の食事や健康状態を定期的にチェックし、担当者の報告を受けた。
周りの人々に父を「あの爺さんが…」といった風に指称、親近感を表現することも度々あった(元北朝鮮外交官)。
金総書記は金日成主席の視力が悪くなると、文書での報告を禁止し、報告内容を録音して金日成主席が最も楽な姿勢で報告を受けるようにした。結果的に録音報告は文書報告より情報量がはるかに少なく入り、回数も減る。自然と、金総書記の方に権力が追加移動するほかない(黄長(ファン・ジャンヨプ)氏)。金総書記が初めからこれを狙ったかどうかは不透明だ。
金総書記は生母 金貞淑氏に対してはさらに愛情を持っていた。金貞淑氏は金総書記が7歳のごろ、死亡している。ロシア訪問の途中、金総書記は「この世で一番愛する人は母」と発言している。
金総書記は対話の途中、「金貞淑」を取り上げたという理由だけで、某アフリカ国家の外務長官に北朝鮮訪問期間中、国賓待遇をした(元北朝鮮外交官)。
金総書記は子どもを海外で教育させた。正男、正哲、正雲の3人はスイスの国際学校に通った。長女のソルソンはフランスで勉強した。幼いごろから外国文化に経験させるという理由もあり、自分の私生活が北朝鮮住民に知られることを防ぐための目的もある。
実際、金総書記の家系でどんなことが起ったかは、ベールに包まれている。北朝鮮を脱出した何人かの手記から伺うのが精一杯だ。特に、高英姫氏との生活は伝えられたことがなく、2人の間で生まれた正哲、正雲兄弟についても同じだ。
孫光柱(ソン・グァンジュ) /The Daily NK 編集人
▲孫光柱氏の略歴
−1957年生まれ
−高麗(コリョ)大学卒
−東亜日報新東亜、ニュースプラス記者
−統一政策研究所研究委員、国際問題調査研究所・理念研究センター長
−著書『金正日レポート』、『ドキュメンタリー金正日』など
朝鮮日報