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(回答先: EUはパレスチナ国家を保障するプランを打ち出す予定(エル・ムンド) 投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2004 年 10 月 12 日 07:00:59)
A Performance-Based Road Map
http://www.asyura2.com/0406/war60/msg/117.html
辞書をひきひき読んでみた事が有りますが、英語っていう言葉はこんな風にも使えるんだ。
と感嘆しました。
美しい表現のオンパレードでありながら、その内容は曖昧模糊としていてどちらともとれるものばかり。
良く読めばこれはパレスチナ人に対する体のいい降伏勧告である事がわかります。
ここに書かれたパレスチナ国家とは、「国家の残飯」である、と言えます。
うちの犬でももうちょっとまともなものを食ってます。
去年のものですが、E.W.サイード の論評です。
以下引用
今ひとつロードマップから漏れている恐ろしい事実は、現在イスラエルが西岸地区に建設を進めている巨大な「分離壁」だ。南北347キロにおよぶコンクリートの壁を走らせる予定で、120キロはすでに建設されている。 この壁は高さ25フィート(7.5メートル)幅10フィート(3メートル)で、建設コストはキロあたり160万ドルと見積もられる。 この壁は単にイスラエルと想像上のパレスチナ国家を1967年の停戦ラインに従って分離しているだけではない。実際にはパレスチナ側の土地をさらにえぐり取るものだ。時には5、6キロも内側まで。 壁のまわりには塹壕や電線や堀が張り巡らされ、一定間隔で監視塔が設置される。 南アフリカのアパルトヘイト終焉から10年近く経った今、この吐き気のするような人種差別の「壁」が建設されようとしているのに、大半のイスラエル人や、いやおうなくこの費用の大半を払うことになるアメリカのイスラエル支持者たちからは、わずかな不満の声さえあがらない。 カルキリヤの町に住む4万人のパレスチナ人にとっては、住む家は壁のこちら側にあるのだが、彼らが耕作し、それで生計を立てている土地は壁のあちら側にある。 壁が完成してしまえば──たぶん、合衆国、イスラエル、パレスチナ人のあいだで手続についての論争が何カ月も続いているうちに──およそ30万人のパレスチナ人が彼らの土地から切り離されると推定される。 ロードマップはこれについて沈黙しているし、また最近シャロンが認可した西岸地区の東側にも壁を設けようという計画についても黙っている。そんな壁が建設されれば、ブッシュの夢の中のパレスチナ国家を建設するための土地は本来のものの40パーセントに縮小してしまうだろう。これが、シャロンがはじめからずっと心に抱いていたものだ。 。
「ロードマップ」の考古学
Archaeology of the roadmap
Al-Ahram Weekly Online : 12 - 18 June 2003 (Issue No. 642)
5月前半、コリン・パウエルはイスラエルと占領地を訪問した折、パレスチナの新首相マフムード・アッバースと会見し、またそれとは別にハナン・アシュラウィやムスタファ・バルグーティなど少数の市民団体活動家とも会見した。バルグーティによれば、パウエルはコンピュータ化された地図で入植地や高さ8メートルのフェンスや何十箇所ものイスラエル軍検問所などを見て、驚きといささかの狼狽を示した。これらのものがパレスチナ人の生活を困難にし、将来を暗くしているのだ。パレスチナの現実に関するパウエルの見解は、その威厳ある立場にもかかわらず、控えめに言っても問題がある。それでも彼は確かにこの資料を持ち帰りたいと申し出、さらに重要なことに、ブッシュがイラクに注いだと同じ努力が「ロードマップ」の実現のために注がれるだろうとパレスチナ人たちに保証した。ほぼ同じ主張が、今度はブッシュ本人によって5月末にアラブ・メディアによるインタヴューの中で確認された。ただし、例によって彼が強調するのは一般論であり、具体性には乏しい。彼はヨルダンでパレスチナとイスラエルの指導者たちと会見し、その前には主だったアラブの首脳たちとも会見した──もちろん、シリアのバシール・アル・アサドは除いての話だ。これはみな、現在アメリカが大いに力をいれているらしい推進策の一環だ。アリエル・シャロンが「ロードマップ」を受け入れたことは(あれこれと保留をつけて無意味化してはいるが)存続できるパレスチナ国家の誕生には縁起の良いことのようだ。
ブッシュのヴィジョン(この言葉は、断固として最終的な三段階の和平計画となるはずのものに奇怪な夢のような響きを与える)は、自治政府の再建、イスラエルに敵対する扇動や暴力の完全排除、このプランを起草したいわゆる「カルテット」(合衆国、国連、EU、ロシア)とイスラエルの要求を満たすような政権の樹立によって達成されることになっている。イスラエルの方では、移動制限の緩和や外出禁止令の解除など、人道的な状況の改善に着手することになっている。ただし、いつ、どこで、ということは明記されていない。 第一段階では、2003年6月までに最新の60箇所の高台入植地(2001年3月以降に創設された「不法な前哨入植地」と呼ばれているもの)を撤去することになっている。だが、その他の入植地の撤去についてはなにも記されていない──西岸地区とガザには20万人が入植者しており、イスラエルに併合された東エルサレムにもさらに20万人が入植しているのだが。第二段階は2003年の6月から12月までの移行期間とされ、この時期には「暫定的な国境を持ち主権国家の属性を備えた(なにひとつ明言されていない)独立したパレスチナ国家の創出というオプション」に努力を集中させ、最終的には国際会議による承認を経てパレスチナ国家を「創出」する。ただし、ここでも国境は「暫定的」なままだ。 第三段階は、この紛争に完全な終結をもたらすためのもので、国際会議を通じて、難民、入植地、エルサレム、国境など最もやっかいな問題の解決を図る。このすべてにおいて、イスラエルの役割は協力することだけであり、真の責任を負わされるのはパレスチナ人側で、矢継ぎ早に成果を出し続けることが要求される。その一方で、軍事占領は、2002年春に再占領された主要地域では緩和されたとはいえ、おおむねそのまま継続する。監視という要素は組み入まれておらず、このプランの構造の欺瞞的な対称性のため、次に何が起こるか(もし起こるならば)についてイスラエルが決定権を握っている。パレスチナ人の人権問題は、現在は無視というより隠蔽されているが、「ロードマップ」にはなにひとつ具体的な是正措置が書き込まれていない。これまで通りのことを続けるかどうかは、明らかにイスラエルの胸一つなのだ。
今度ばかりは、ブッシュも中東問題の解決に真の希望をもたらしたと、常連の論説者たちは言う。ホワイトハウスからの計算づくのリークによって、シャロンがあまりに非妥協的な場合にイスラエルに対して発動されうる制裁措置のリストが流されたが、これはすぐに否定され、やがて消えてしまった。 新たに起こってきたメディアのコンセンサスでは、ロードマップの内容──従来の和平案を引き継いだ部分が多い──は、イラクでの勝利によってブッシュが自信を深めたことのあらわれと描いている。パレスチナ・イスラエル紛争に関する大方の論議と同様に、作為的なきまり文句や現実離れした前提が、力の現実と生に体験された歴史をないがしろにして、議論の流れを方向付けている。懐疑や批判の声は反米的だとしてはねつけられる。その一方で、ユダヤ系組織の指導層のかなりの部分が、ロードマップはイスラエルにあまりに多くの譲歩を要求するものだと非難する。それでも体制派のマスコミは、シャロンがこれまで決して認めなかった「占領」という言葉を口にし、350万人以上のパレスチナ人に対するイスラエルの支配を終わらせるつもりだと実際に発表したことを、何度もくりかえす。だが、そもそも彼は自分が何を終わらせようと言っているのかわっているのだろうか?「ハアレツ」紙に論説を寄せるギデオン・レヴィーは6月1日の記事で、シャロンは「何年も包囲攻撃を受けてきた共同体の外出禁止令下の生活について」、たいていのイスラエル人と同様、何もわかっていない。チェックポイントでの屈辱や、出産する女を病院に連れて行くため、砂利とぬかるみだらけの道を命がけで進むしかない人々について、彼が何を知っているというのだ? 飢餓線上の生活についてはどうだ? 家屋の破壊についてはどうだ? 夜中に両親が殴られ屈辱を味わうのを見ている子供たちについてはどうなのだ?」と書いている。
今ひとつロードマップから漏れている恐ろしい事実は、現在イスラエルが西岸地区に建設を進めている巨大な「分離壁」だ。南北347キロにおよぶコンクリートの壁を走らせる予定で、120キロはすでに建設されている。 この壁は高さ25フィート(7.5メートル)幅10フィート(3メートル)で、建設コストはキロあたり160万ドルと見積もられる。 この壁は単にイスラエルと想像上のパレスチナ国家を1967年の停戦ラインに従って分離しているだけではない。実際にはパレスチナ側の土地をさらにえぐり取るものだ。時には5、6キロも内側まで。 壁のまわりには塹壕や電線や堀が張り巡らされ、一定間隔で監視塔が設置される。 南アフリカのアパルトヘイト終焉から10年近く経った今、この吐き気のするような人種差別の「壁」が建設されようとしているのに、大半のイスラエル人や、いやおうなくこの費用の大半を払うことになるアメリカのイスラエル支持者たちからは、わずかな不満の声さえあがらない。 カルキリヤの町に住む4万人のパレスチナ人にとっては、住む家は壁のこちら側にあるのだが、彼らが耕作し、それで生計を立てている土地は壁のあちら側にある。 壁が完成してしまえば──たぶん、合衆国、イスラエル、パレスチナ人のあいだで手続についての論争が何カ月も続いているうちに──およそ30万人のパレスチナ人が彼らの土地から切り離されると推定される。 ロードマップはこれについて沈黙しているし、また最近シャロンが認可した西岸地区の東側にも壁を設けようという計画についても黙っている。そんな壁が建設されれば、ブッシュの夢の中のパレスチナ国家を建設するための土地は本来のものの40パーセントに縮小してしまうだろう。これが、シャロンがはじめからずっと心に抱いていたものだ。
イスラエルが大幅に修正しながらもこのプランを受け入れ、合衆国も本気で取り組む姿勢を明確にしているが、その根底にある無言の前提は、パレスチナ人の抵抗がある程度成功しているということだ。そのために使われる一部の手段や、途方もない代償、またもや新しい世代が多くの犠牲を出していることを嘆かわしく思うかどうかは、また別の話だ。イスラエルと合衆国の圧倒的な優越にもかかわらず、若いパレスチナ人たちは完全には諦めていない。ロードマップの出現については、あらゆる種類の理由が挙げられている──イスラエル人の56パーセントがそれを支持している、シャロンもついに国際社会の現実に屈服した、ブッシュは他の地域で軍事的な冒険に乗り出すためにアラブとイスラエルの援護が欲しい、パレスチナ人もついに分別を取り戻してアブー・マーゼン(マフムード・アッバースは、この戦士名の方が親しまれている)を首相にした、等々。 確かに一部はその通りだ。だが、言わせてもらえば、パレスチ人が頑として自分たちを「敗北した民」(イスラエルの参謀総長が最近述べたように)とは認めないという事実がなかったとしたならば、和平プランなどというものが出てくることもなかったろう。とはいえ、ロードマップが解決らしいものを少しでも本当に提唱しているとか、基本的な問題に取り組んでいると考えるのは大間違いだ。 和平についての一般的な言説の多くと同じように、このプランは、必要とされる抑制や放棄や犠牲の責任を全部パレスチナ人に負わせ、それによってパレスチナ人の歴史の密度の濃さや重要性を否定している。「ロードマップ」を読み通すということは、時代も場所も忘れ去ったどこにも位置していない文書に立ち向かうことに等しい。
言い換えれば、「ロードマップ」は和平プランというよりは、平定プランに近いものだ。パレスチナが「問題」であることを終わらせようとするものだ。 それゆえ、この愚直な文体の文書には「遂行」《パフォーマンス》という言葉が何度も出てくる。つまり、パレスチナ人がどんなに行儀よく振る舞うことを期待されているかということだ。 暴力を使わず、抗議をせず、民主主義を拡大し、指導者や組織を改善する──これらの要求はみな、根底にある問題は、パレスチナ人の抵抗の凶暴性であって、それを生み出した占領状態ではないという考えに基づいている。 イスラエルに対してはこれに匹敵するような要求は何もなく、期待されているのはただ先に述べたような「不法な前哨地」(まったく新しい分類であり、あたかもイスラエルがパレスチナ人の土地に建設した入植地には合法的なものもあるかのような印象を与える)の放棄だけであり、主要な入植地については「凍結」しなければならないが、決して撤去や解体が要求されるわけではない。 パレスチナ人が1948年以降、そして再び1967年以降にイスラエルと合衆国のおかげで耐え忍ばねばならなかったことについては何も記されていない。 アメリカ人研究者サラ・ロイが近刊書で述べているようなパレスチナ経済の「脱開発」de-developmentについても何も記されない。 家屋破壊、樹木の引き抜き、5000人以上の投獄、指導者の暗殺、1993年以降の封鎖、インフラの全面的な破壊、信じがたい数の死者や身体障害者──こういうものがすべて、ひとことの言及もなく放置されている。
アメリカとイスラエルの交渉担当者の凶暴な攻撃性と融通のきかない一方的外交は、すでによく知られている。 パレスチナ側の代表は年老いつつあるアラファトの同世代仲間の再利用にすぎず、ほとんど信頼すべきところがない。 実際、「ロードマップ」はヤセル・アラファトの政治生命を引き伸ばしたかのように見える。アラファト訪問を避けようとするパウエルや部下たちの努力も無駄だった。 爆撃でボロボロになった議長府に閉じ込めて彼を打ちのめそうとする愚かな イスラエルの政策にもかかわらず、彼はいまもものごとを掌握している。 彼はいまもパレスチナの選挙で選ばれた大統領であり、財布の紐も握りつづけており(といっても、財布はちっとも膨らんでいない)、そして彼の地位について言えば、現在の「改革」内閣(二人か三人の重要な新人が加わっただけで、あとはみな旧来の顔ぶれだ)の誰ひとり、アラファトに匹敵するようなカリスマも力も持っていない。
アブー・マーゼンを手始めに取り上げてみよう。 最初に彼に会ったのは、カイロで私がはじめてパレスチナ民族評議会(PNC)の会合に出席した1977年3月のことだった。 彼は飛びぬけて長い演説で、集まったパレスチナ議員たちに、シオニズムとシオニスト反体制派の相違を説明した。その説教くさい調子は、カタールで中・高等学校教師をしていたときに磨き上げたものに違いなかった。 これは注目すべき教育だった。当時たいていのパレスチナ人は、イスラエルを構成しているのはアラブ全員が憎悪する原理主義シオニストだけではなく、さまざまな和平推進者や活動家もいるのだということを本当にはわかっていなかったからだ。 後から思えば、アブー・マーゼンのスピーチをきっかけに、PLOはパレスチナ人とイスラエル人の一連の会合をヨーロッパで持つことになったのだ。そこでは平和について、またそれぞれの社会における支持者の方向づけにおよぼす重大な影響について長い話し合いが持たれ、結果的にオスロ合意への道を開くことになった。
とはいえ、アラファトが、アブー・マーゼンのスピーチやその後の一連の対話に正式な権限を持たせたことを疑うものはいなかった。対話への動きは、結果的にイサム・サルターウィやサイード・ハンマーミのような勇敢な人々の命を奪うことになった。 パレスチナ側の参加者はパレスチナ政界の中心勢力(ファタハ)から出ていたが、イスラエル側は罵倒され社会的に無視された少数の和平推進派だった。まさしくこの理由のために彼らの勇気は称賛に値した。 PLOがベイルートを拠点にしていた1971年から1982年の間、アブー・マーゼンはダマスカスに配属されていたが、ベイルートを追われたアラファトやその仲間たちに加わって、その後の10年ほどをチュニスですごした。 私はそこで何度か彼に会い、彼のよく整理された執務室や穏やかで官僚的な態度、ヨーロッパや合衆国に明白な興味を示し、パレスチナ人がイスラエル人と共に和平推進に有益な貢献のできる舞台として位置付けていることに感銘を受けた。 1991年のマドリード会議の後、彼はヨーロッパでPLO職員と独立の知識人を召集し、来たるべき交渉に備えて水利や難民や人口統計や国境などの問題についての書類を作成するチームを作り上げたと言われている。これはやがて1992年から93年にかけてのオスロ秘密交渉として現実となったが、そこではわたしの知る限り、これらの書類はどれひとつとして使用されず、パレスチナ人専門家は誰ひとり交渉の席には直接参加せず、最終的に出てきた合意文書には彼らの研究の成果はなにひとつ反映されていなかった。
オスロ交渉では、イスラエル側は専門家をずらりと並べて、地図や書類や統計を引き合いに出し、少なくとも17パターンの合意文書の草稿を準備していたが、それに対して遺憾ながらパレスチナ側の交渉担当者は三人の完全に異なるタイプのPLO党員に限られていた。彼らは一人も英語ができず、国際交渉 (あるいは他のどんな交渉も)についてかじったことのあるものもいなかった。アラファトの目的は、そこに代表を送り込むことによって、なによりも自分の関与を保証することだったようだ。特に、ベイルートを撤退し、1991の湾岸戦争でイラク側につくという破滅的な選択をした後では、その必要が大きかった。 もし彼に何か他の目的があったとしたならば、その場合はちゃんとした準備をしなかったということになるが、それは彼のいつものスタイルだ。 アブー・マーゼンのメモワールやオスロ交渉についての他の逸話では、アラファトの部下がこの合意の「設計者」として承認されているが、この男はチュニスを離れたことはなかった。アブー・マーゼンはさらに、[93年9月の]ワシントンでの調印式(彼も、アラファト、ラビン、ペレス、クリントンと並んで登場した)から一年もかけて、ようやくアラファトに、彼がまだオスロ合意によって国家を得たわけではないことを理解させた、とまで述べている。 それなのに、和平交渉についてのたいていの説明はアラファトがすべて裏で操っていたことを強調する。これではオスロ交渉がパレスチナ人の全般的な状況を相当に悪化させたのも無理はない。 デニス・ロスという元イスラエル・ロビーの職員(今もその仕事に復帰している)が率いるアメリカの交渉団は常にイスラエルの立場を擁護してきた。だが、10年におよぶ交渉の果てにイスラエルが提示したのは、パレスチナ人に占領地の18パーセントを返還するが、そこにはイスラエル軍が依然として治安、国境、水利を管理しつづけるという非常に不利な条件がつくというものだった。 当然のことだろうが、入植地の数は2倍以上に増えた。
PLOが1994年に占領地に帰還してからは、アブー・マーゼンは、イスラエルに対する「柔軟性」、アラファトへの卑屈な従属、ファタハの創設メンバーで中央委員会の幹事長を務める古参でありながら組織的な政治基盤が完全に欠如していることで広く知られる二級の人物にとどまってきた。 私の知るかぎり彼が何かに選出されたことはなく、もちろんパレスチナ立法評議会には選出されていない。 PLOとアラファトのパレスチナ自治政府は透明性をまったく欠いている。 政策決定の過程や、資金がどのように使われ、どこにあり、アラファト以外のだれに発言権があるのかということは、ほとんど知られていない。 けれども誰もが同意するのは、アラファトという、魔性の徹底管理者で病的な支配欲の持ち主が、あらゆる物事について中心人物でありつづけていることだ。 そういうわけで、アブー・マーゼンが改革推進のための首相に昇進したことは、アメリカ人やイスラエル人には大いに歓迎されたが、たいていのパレスチナ人にとっては、一種のジョークにすぎない。あの親爺が権力にしがみつくために新手のからくりをあみだしたようにしか見えないのだ。 一般的な人々の理解では、アブー・マーゼンという人物は、ぱっとしない、ほどほどに汚職をやり、明確な独自の考えはなく、ただ白人男性に気に入られたいと思っているだけだ。
アラファトとおなじように、アブー・マーゼンがこれまで住んだことがあるのは湾岸、シリア、レバノン、チュニジア、そして現在の占領下のパレスチナだけである。彼はアラビア語以外の言語を知らないし、雄弁家でもなければ人前に出る人物でもない。これに比べれば、モハンメド・ダーランというガザ出身の新任の治安警察長官──イスラエルとアメリカが大きな期待を寄せて喧伝するもう一人のホープ── は、もっと若くて利口で、かなり冷酷だ。 彼がアラファトの14か15の治安警察組織のひとつを任されていた8年の間、ガザ地区はダーラン王国《ダーラニスタン》として知られていた。 彼は去年辞職したが、それはヨーロッパ、アメリカ、イスラエルによって「統一治安警察長官」として改めて採用されるためだった。とはいえ、もちろん彼もずっとアラファトの子分であり続けた人物だ。 彼はいまハマスとイスラム聖戦を厳しく取り締まることを期待されている。これはイスラエルがなんども繰り返す要求だが、その裏にあるのはパレスチナに内戦らしいものを引き起こしたいという願望だ。イスラエル軍が抱く一縷の望みである。
とにかく、アブー・マーゼンがどれほど勤勉かつ柔軟に仕事を「遂行」《パフォーム》したとしても、3つの要素に縛られることになるのは明らかだ。 ひとつは、もちろんアラファトその人だ。彼がいまも支配しているファタハが、理屈の上ではアブー・マーゼンの権力基盤だ。いまひとつはシャロンだ(ずっと合衆国が後ろ盾になるのだろう)。「ハーレツ」紙が5月27日に掲載した「ロードマップ」に関する14の「発言」の中で、シャロンはイスラエル側の柔軟性といわれそうなものについては、その余地は非常に少ないことを知らせている。3番目はブッシュと彼の取りまき連だ。戦後のアフガニスタンやイラクに対する処理のしかたから察するに、必ず必要になってくる「国づくり」を推し進めるような気持ちも能力も、彼らにはない。 すでにブッシュの支持基盤である南部の右翼キリスト教徒たちはイスラエルに圧力を加えることにやかましく抗議しており、また強力な親イスラエル・ロビーが、イスラエル占領下の合衆国議会という御しやすい付録を従えて、イスラエルに対するいかなる強制の暗示にも反対する行動を、ただちに起こしている。だがイスラエルを抑えることは最終段階に入った今、決定的に重要なことだ。
こう言うと現実離れして聞こえるかもしれないが、たとえ当面の見通しがパレスチナ人にとっては厳しいものだとしても、すべてが真っ暗というわけでなない。 先に述べたような不屈の精神や、パレスチナ社会(蹂躙され、崩壊寸前で、いろんな意味で荒れ果てた)が、まるでトーマス・ハーディのツグミのように[注1]、突風に羽毛を波打たせながらも、迫り来る夕闇に向けて気迫を込めてさえずることができるという事実に戻ろう。 アラブの社会でこれほど御しがたく健康的に野放図なものは他になく、これほどに市民的、社会的な自発性や、機能している公共施設(驚くほど活気のある音楽学校など)に富んでいるものも他にはない。 その多くは未組織であり、故郷を追われた無国籍の惨めな生活を送っている場合もあるけれど、在外《ディアスポラ》のパレスチナ人は、自らの集団としての運命にかかわる問題を通して積極的に関与しており、私の知る人々はみな、なんとか理想を前進させようと常につとめている。 自治政府に浸透できたのは、このエネルギーのちっぽけな欠片だけだ。アラファトというきわめて両面的な価値をもつ人物を除いては、自治政府は共同の運命に関して奇妙なほど重要性のないものにとどまっている。 最近の世論調査によれば、ファタハとハマスが両方合わせて有権者の約45パーセントの支持を得ているが、残りの55パーセントはそれとは大きく異なり、ずっと希望の持てる政治体を発展させている。
その中の一つは、特に感銘を受けた(自分でも関与することにした)が、その重要性は、唯一の純粋な大衆基盤の組織として、宗教政党とその根本的にセクト主義の政治学も、アラファトの古参ファタハ活動家が奉る伝統的な民族主義も共に退けていることにある。 「ナショナル・ポリティカル・イニシアティブ」(NPI)と呼ばれるこの組織の中心人物は、ムスタファ・バルグーティというモスクワで教育を受けた外科医である。彼の主な仕事はという農村部の十万人以上のパレスチナ人にヘルスケアを提供しているVillage Medical Relief Committee(農村医療支援委員会)のディレクターである。 かつては筋金入りの共産党員だったバルグーティは、静かな口ぶりで人々を組織し、統率する。パレスチナ人の動きを阻害する何百もの物理的障害を乗り越えて、彼は各国を回って文字通りほぼすべての主だった独立系の個人や団体に呼びかけて、主義主張の境界を超えた解放と社会改革をめざす政治プログラムの支援に結集させた。 驚くほど旧来のレトリックにとらわれることなく、バルグーティはイスラエル人、ヨーロッパ人、アメリカ人、アフリカ人、アジア人、アラブ人たちと協力し、うらやましいほど上手に運営された連帯運動を築き上げた。そこでは多元的共存の主張が実践に移されている。 NPI は、インティファーダが目標のないまま軍事化していることにも絶望してはいない。 失業者への職業訓練を用意し、困窮者への社会サービスを提供しており、それを持って現在の状況とイスラエルの圧力に対する解答だと考えている。 何よりも、政治政党として認知されようとしているNPIは、パレスチナ人社会を国内のものも国外のものもふくめて自由選挙に動員することを目指している。イスラエルや合衆国の利害ではなく、パレスチナ人を代表するための本物の選挙を行うためだ。 このような真正性が、アブー・マーゼン路線には大きく欠けているように映る。
ここでのヴィジョンは、40パーセントの領土の上にでっちあげの暫定国家を築き、難民を切り捨て、エルサレムはイスラエルが握ったままというようなものではなく、軍事占領から解放された主権を持った領土であり、その推進力となるのはアラブであろうがユダヤであろうが可能なものはすべて巻き込んだ大衆運動である。 NPI は本物のパレスチナ人の運動であるため、改革や民主主義は日常的に実践されている。パレスチナの最も著名な活動家や無党派の人々がすでに何百人とこの運動に参加しており、組織としての会合も開かれている。イスラエルが移動の自由を制限している中で多大な困難に出会いながらも、今後も海外とパレスチナの両方でさらに多くの会合が開かれる予定だ。正式の交渉や論議が進められてはいるものの、その一方では非公式で敵方に取り込まれていないオルターナティブが多数存在しており、その中でもNPIと拡大しつつある国際連帯運動が中心的な要素となっていると考えれば、少しは慰められるというものだ。
引用終わり?