現在地 HOME > 掲示板 > 昼休み4 > 773.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: 【人格抽出の失敗】 投稿者 ゾンビに朽ち無し 日時 2005 年 1 月 04 日 01:49:55)
障碍が、総環境との関係で決まるならぱ当然、コミュニティ障碍も、総環境との関係で決まるであろう。
とくに「致死性でない障碍」に、完全に相応する個別「理想環境」下では、個別個体は安定(生存)しうるはずなのである。
また「自壊性のないコミュニティ障碍」に完全に対応する共有「理想環境」下では、個別性個別個体は安定(生存)しうると思われる。
「原初環境」と「完全環境」の無い“絶対状況”下で“永続問題”を産出し、その意味で“永続問題”と直結する「現-総環境」が否定される場合に、かつ「次期環境」で個別性の解禁(保証)への理解が進取された者で、なおも共同性へと拘泥し、ましてやコミュニティへの全員の不可避の帰属を主張する者は、少なくともコミュニティ依存であろう。
その場合、コミュニティ障碍は、「現-総環境」において存在すると思われる。
ところが進取された理解によって、他者の理解の如何に関わらず、その他者がコミュニティ依存であることが判明し、同時に自己のコミュニティ障碍が滅却される事態が訪れるかもしれない。或いはコミュニティ依存の自覚で、他者のコミュニティ障碍が滅却されるかもしれない。
極端な様相には、元々はコミュニティ障碍であった自己に対し、全ての他者がコミュニティ依存であると認められることも理論的にはありうるであろう。そのようにしてコミュニティ障碍とコミュニティ依存は混在しうるはずなのである。
だが自他のコミュニティ依存を自覚できるのであれば、或る限定された場であれ、その全員がコミュニティ依存であると発覚する事態へも、そのコミュニティ性の各々の同定と双方の不可逆的な反転が未成立で、そして、それ故に、その境界が未知である間は、移行する可能性を残すものと思われる。それとともにコミュニティ依存とコミュニティ障碍が、同一理解者によっては両立しないとの法則性が感得されるはずなのである。
コミュニティ依存とコミュニティ障碍とが、不可侵で領域を接し、ポジとネガを拮抗させながら、人的な境界線を2段階に亘って維持するとすれば、人材そのものは同一であるはずだから、コミュニティ依存とコミュニティ障碍それぞれの、発現の存否を問わない一貫した資質において相補的に、全員を塗り分けているのであろう。ただし、恐らくは急な理解という事態の推移に偶然にして間にあい、または、その理解を瞬発的な起爆力に用いて同時に資質の転換を成し遂げることも、むろん可能であるはずなのだ。さらにまた、その衝撃が、変化の速度を充分に上げうることが想定されるのである。
(暫定)