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分岐仮説(マルチコミュニケーション)
現状の社会環境でコミュニケーション能力を高める(対話に生きる)ということは、前提として大テレビを視聴するということであり、広告と雰囲気に取り巻かれるということであろう。
流行語やトピックスは一斉伝達され、観ていない者ほど取り残されるのが実情に思える。もとより人とのコミュニケーションを幅広く取る限りにおいて、幅広い人々に適用できる語法を修得しておく必要があるはずである。
しかし、間隔を空けて観るには違和感を感じさせる番組という食材も、日常的に摂取していると、あるいは人間として内部から、除菌処理されてしまうかもしれない。人間の免疫システムに欠かせないはずの怒りや批判精神という一見ネガティヴな要素、契機を抜かれてしまうのではないか。
大テレビそのものとの対話においては、圧倒的な情報量と生々しい映像に押されてしまう、または押し流してゆく目的をともなって、大メディアは双方向の議論の余地を与えていないのが一般的であると思われる。
他方、コミュニケーションの本番としての、対人コミュニケーションでも、押し流してゆける勝算の有る者が待ち構えているだろう。
自身の実力もさることながら、場の聴衆を味方にできる計算をいつの段階からか、習得しているはずなのである。
じっさいには議論に勝者はいないとしても、議論を目にして支持者は流動するはずである。議論は瞬間的であっても、そこで優劣を自覚しあえるはずなのだ。
だとすれば、或る者たちは、自身に有利な環境でのみ議論するようになっているかもしれない。待ち構えていて、異質な者を捉え、場の代表として議論を挑むということがあろう。
場合によっては適宜、助っ人を調達でき、切れ目ない連係によって優位に立てるわけだから、通行者であった群集も、その多くは、場における多数に靡くという展開になるはずである。
だから、議論を行うには、少数派であれば、少数派中心の場を囲い込むというのが合理的なのであろう。
しかし、常に場で優勢であるという意味では連戦連勝の英雄であっても、優位な場から出ていないのであれば、その者が唯の一歩であれ、もし場から出たならば、形勢を維持できる目算は得づらいはずなのである。
したがって、端的に言えば己にとってコミュニケーションしやすいところで、そうしているだけという対話姿勢なのかもしれない。
そもそも、そこから始め、次々に標的を取り込んで