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(回答先: 集団対話 投稿者 転載ですけど 日時 2004 年 12 月 06 日 01:19:25)
〈2大分類〉
集団主義には、主観的集団主義と客観的集団主義が有るかと思われますが、個別主義の場合にも、主観的個別主義と客観的個別主義が有ると思います。
〈牽引〉
集団の中には入りづらいが、そのうちの一人とならば付き合えるというとき、集団が個性平均の重心をもっているか、ないしは異質な他者に引きずられているような個性の解離ということが起きてい得るでしょう。
もしも自分とは懸け離れた重心をもった集団に対して、自分が歩み寄るようにして連続的に平均化できないとなると、離散した2つの、遵守自己と原形自己を別物として交互に演じ分けなければならなくなるはずなのです。
けっきょくのところ、個性にとって、それを望むか望まない個性の変形を受けるのが集団内化ということなのかもしれません。個性と個性が近接していても、少なくとも片側が集団内化すれば個性と変形個性は、変形を受けている間、位置が合わなくなることでしょう。
それが、むしろ適正な距離へと調整するものなのかどうか、双方の位置関係ではなく、それぞれの個性と集団内個性との意志重量の衝突、すなわち出会う2力の総和に委ねられるということかもしれません。
〈逆牽引〉
また集団総和の個性変形については逆となるはずです。
或る力の有る、または力の場を形成しうる力の有る不限定な個性に、集団において共通の属性で選ばれた散在する諸構成員が、散在を保ったまま内在する受動的にして意識的な力で、その重心を個性のほうへと引きずられてしまうということはありうるでしょう。
しかし、そこで個性の選別が生じ、本性に訴えるような潜在的に有力な個性、または集団外部に公認されている普遍個性、そうでなければ集団に需要されている特定個性というものが、集団特性へと合致し、定型該当するようにして刺激的に、一定以上の固有値をもって集団そのものや自治を変形させることは、大いにありうる事態でしょう。
そこで、同種の抗原によって本来性が息を吹き返すのであれば、一足飛びに、長期習慣化している特定値に移るということもあるかもしれません。
(個性が勝つための研究ではなく、集団の真下や圏内において個性が負けがちとなりうることを証明するかたちで、あらゆる、関係する個性制度に打ち克つ方策を可能ならしめる系統とは如何様かということですね。敗北の許容を企図するのであれば、焦燥に駆られて自己をけしかけることなく、大小の集団的存在から蒙り続ける日常と向き合うことができるかもしれませんね)