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(回答先: 「ファティマの奇跡」について (万事急須さんへ) 投稿者 プリズム 日時 2005 年 1 月 19 日 01:05:31)
昨日は、昼の慌ただしさによる疲れ(運動不足による筋肉疲労)もあり、夜はもうろうとしながら書いておりましたので、改めて読んで見ると次の前提条件になる部分が、どうも言い回しに無理・間違いがみられる為、少し訂正・補足させてください。
ただ、大まかな見方としては、同じ見方を取ってはおります。
プリズム投稿文の一部
【この予言者は「神の罰」つまり、「神による罰(罪)の宣告」が存在すると言うことを言っております。
「神による罰(罪)の宣告」が存在する為には、人間には何らかの「課題」が課せられているということになります。つまり神の愛を得るためには、ある「課題」があり、そしてその「課題」をクリアできる人と、クリアできない人が存在するということになり、つまりそれは人間には「優越」が存在するということになりませんでしょうか。】
つまり何が言いたかったかと申しますと、
この予言者が使用した「神の罰」という言い回しは、多くの宗教家が次のような発想の流れを作り上げる基になっているものであり、ある意味で不適切な表現方法であるのではないかと考えております。
つまり「神の罰」が存在することにより、人間には「罰」を受けない為になんらかのしなければならない「課題」が存在するということになり、そしてその「課題」を果たす為の、なんらかの「条件」が人間には存在すると考え、そしてその「条件」をクリアできる人、クリアできない人という「優越」が存在するという発想になっていると考えております。
つまりこれは「神の罰」という発想から、「神の罰」→「課題」→「条件」→「優越」という流れを人間が作り上げたというものであり、これは多くの宗教で用いられた勘違いによる解釈の延長からできたもので、洗脳の流れでもあります。
つまり「神の罰」という言葉はこれらの流れを再認識し、強調させるものであるため、この言葉を使用することには少し疑問を感じてしてしまいます。
と、すればよかった様に思われます。
また「神の罰」という、これだけを取ってみても、私は「神の罰」は存在しないという立場を取っておりますので、前提条件から私にとって疑問となるものです。
つまりある原因による結果は存在するかもしれませんが、「神の罰」という概念自体は存在しえないとする立場です。
つまりそれは「神」というものに対する解釈上の問題でしょう。
もし「罰」を与えるような立場にあるものが「神」というのなら、それは「神」ではなく、ただのひとつの個性ある存在であると解釈しております。
(具体的な発想についての詳細はとりあえずここでは省略させて頂きます。)
この予言の言い回しからみて、またキリスト教側によるなんらかの作為ある改ざん・でっちあげがみられるのか、その発言者自体がキリスト教的世界感で存在しているということは考えられます。