現在地 HOME > 掲示板 > 雑談専用12 > 461.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: Re: 補足 投稿者 万事急須 日時 2005 年 1 月 19 日 22:50:18)
万事急須さん、こんにちは。
>これに関しては私はまだsolid matter(物凄く科学技術の発展したこの世界の知的生命)の可能性のほうが高いだろうと考えていますが、
わかります。
知的生命体・異星人等については、想像の域ですが、違う機会にでも語り合わなければなりませんね(笑)
>とりあえず「神」なら不介入主義を貫かなければなりませんから大変ですね。
>いつも人間を見ながら「やれやれだぜ」と思っている事でしょう。
「やれやれだぜ」と思っている時点で、それは大いなる存在としての「神」ではないのかもしれません。
「神」という名の一つの個性ある存在でしょうね。
大いなる存在としての「神」とは、この世に存在するすべてのものであると思っております。つまりそれは全ての存在の受け入れとも取れるかもしれません。
「意志のない意志そのもの」であり、「生命ではない生命そのもの」であり、つまり「動かない動かし手である」と、・・・言っている意味、わかりませんよね。
>有名なマタイ伝7:1の「人を裁くな。あなたが裁かれないためである」というのはウソらしいです。
>正確には「誤った判断をすると、あなたも誤って判断されますよ」という事らしいです。
「人を裁くな。あなたが裁かれないためである」というのは、私はそのものずばりそのままの意味であると思っております。
現在のキリスト教は、この言葉の内在する意味を把握せずに、この言葉とは逆の行動を取っております。
つまり「人を裁くな」と言いながら「人を裁いている」矛盾が、キリスト教には起きております。
そこで、この言葉を自分達の都合のいいように解釈しているのが現在のキリスト教であり、
「人を裁くな。でも神は人を裁く。その神から選ばれたものは神の代弁者として、人を裁くことが許される」というような解釈を用いているのではないでしょうか。
私は「人を裁くな。あなたが裁かれないためである」というのは、矛盾のないものであるとは思っております。ただ大いなる存在としての神も人を裁くことは理論上、不可能であると思っております。
つまり、もし「人を裁くな。あなたが裁かれないためである」を私が解釈し、詳細に発言するなら、
『人をはじめ、すべての存在は大いなる存在の「神」の一部分であり、すべてが「神」を表現するの無数の一側面であり、「神」そのものである。つまりこの世の中に存在するすべてのものは、何ひとつとして完璧でないものはない。それらが存在することで、完璧なのである。それらの無数の個性・表現・創造の多様性こそが、「神」の無数の表現・側面であり、その存在こそが完璧である。どこに不完全であると裁くことができるであろうか。完璧さを期待し人を不完全であると裁くのであれば、個性の多様性、無限の神の創造を裁くことになる。つまりそれは自分自身の表現を裁くことになり個性を裁くことになるのだ。自分自身そのものを裁くことになるのだ。』
といったところでしょうか。ちなみに私は宗教家でもありませんが。(笑)
>兎に角、キリスト教を集獄的で魅力のない物に貶めているのも悪魔の仕業であると思いますので、
実は、私は「悪魔」という価値感による表現方法は別として、本当の意味での「悪魔」というのは存在せず、すべては組織的宗教におけるでっちあげであると思っております。
もちろん組織的宗教の背後には、この世界を支配・洗脳しようという何らかの集団がいるとは思いますので、その集団の「でっちあげ」であるとは思います。それらを「悪魔」というのではないかと言えば、そうかもしれませんが、それは私達の目線(次元)から見た場合ということです。
つまり意味付けをしているのが我々ではありますが、本来、すべての現象・存在に、ある特定の意味は存在しないと思っております。
「与えるものが、自分が受け取るもの」という考え方をするのなら、「悪魔」という意味付けをすれば、自分にとってそれは「悪魔」という価値感の存在になるのだと思います。