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(回答先: 独裁と民主主義の八百長 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 4 月 28 日 21:48:01)
なんだか、問題がひろがりすぎてよくわかりません。
議会制民主主義のことを問題にしているのか、民衆の政治意識の成熟を問題にしているのか
それとも、よい政治とは何かを追求しているのか。
民主主義にも国家からの自由と国家への自由があったように、議会についてもいろいろです。
議会といえば、議院内閣制かアメリカのような議会を考えてしまいますが、スイスでは、議会自身に統治権があるようです。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の議会を参照)
また、歴史的に、ギリシャ・ローマの民会がふれられることが多いですが、ゲルマン民族やヴァイキングなども民会を持っていたともいわれ、ヴァイキングの末裔になるアイスランドの民会は近代の議会制民主主義の最古のものとして有名のようです。
(引用開始 「ヴァイキングの歴史」から http://www.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/uchida(05-1-30) )
王と首長は、民会のシング(集会)で選出され、選挙民に対する行為に責任を負った。その権限は、住民の意思によって制限された。つまり、王は人々が決めた事が自分の意見より優れていれば、それを承認しなければならなかった。
王の基本的な役割は、住民の安全、繁栄、名誉を保証することであった。また、王は宗教上の儀式をつかさどる祭司でもあった。キリスト教が中央集権的な君主制を持ち込むまでは、王にはどのような立法権もなかった。法律が制定できるのは、民会シングだけであった。
(以上 引用終わり)
思うに、半島を南下して都市国家を建設したギリシャにせよ、ヨーロッパ各地を席捲したヴァイキングにせよ、移動していたことが一つの鍵になっているように、私には思えます。
他民族の土地を通過していくことは、いろいろな情報を収集して、決断していくことが必要です。そこでは、王のみの判断では失敗の可能性があり、合議制によるほうが正しい判断をくだせる可能性が高かったのではないか。
議会という意味での民主主義は、結局、参加型の民主主義であり、
民衆の政治意識が高まったときには、9.11以後のアメリカ議会のように、一色にそまってしまうこともまたさけられないでしょう。
プロレタリア独裁にせよ、愛国主義にせよ、民族主義にせよ、それらは国家への自由という意味では同じサイドにあり、そのような民衆意識の高揚の中では、民主主義とは、愛国主義・民族主義も含めて、それらの運動自体のこととされ、議会は単なる手続き上の組織にすぎなくなってしまうでしょう。
彼らにとっては、いずれも議会制民主主義とは一つの形式であり、手段であって、それ以上のもの・・・例えば同志的信頼・・が、その先にあるということでしょう。
(以下、レーニン 何をなすべきか から引用)
「『民主主義』つまり遊びごとふうでない真の民主主義は、部分が全体にふくまれるようにこの同志的関係の中にふくまれているのではないか?」
(以上 引用終わり)
このことからすると、民族主義・愛国主義に民主主義を対置したところで、それは弱い。
お前が、民族主義を主張する自由を認めてやるから、俺が個人主義を主張する自由を認めろといっているようなものですよね。
さて、生産力の発展が、直接には労働者階級の利益にならない、手放しではよろこべないのが資本主義であることを、さまざまな事件を通して、ワヤクチャさんは、ご存知なのだから、
それを協同組合云々にもっていかなくても・・。
かなり、外れてしまいましたが、要するに、私自身、議論の意図がつかめなくて、失礼ですが、民主主義についての、おしゃべりをしてるだけのような・・。