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(回答先: 問題がよくつかめません 投稿者 ジャン 日時 2005 年 4 月 30 日 16:33:30)
ジャンさん、レスありがとうございます。
民主主義の問題点とは「みんなで多数決で決めたことだから従うべきだ。」というところに端的に現れています。
少数意見の尊重といったってそれは個人の姿勢にまかされていてなんらシステム的には機能しておりません。
例えば「子供を生む権利」は多くの人が賛成するでしょうが、人口問題を考える時に人口削減しなければならないという事が明白であり「子供を生む権利」は一人っ子政策などで制限せざるを得ないという事があるのです。
民衆の即自的要求を実現するのが民主主義と捉えられた時にその民主主義の結果は大変な問題を生む可能性があるのです。
民主主義がいい結果をもたらす為には民衆一人一人が世界の様々な問題を把握しそれらの問題解決の為の政策を選択する能力を身に着けなければなりません。
我々はこれまで衆愚政治か独裁政治しか実現してこなかったのではないでしょうか?
この2つの極端なブレの中で我々は翻弄されているだけの存在に見えます。
>問題がよくつかめません
>http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/974.html
>投稿者 日時 2005 年 4 月 30 日 16:33:30: tV9DFzLB7Zpg6
>(回答先: 独裁と民主主義の八百長 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 4 月 28 日 >21:48:01)
> なんだか、問題がひろがりすぎてよくわかりません。
> 議会制民主主義のことを問題にしているのか、民衆の政治意識の成熟を問題にして>いるのか
民衆の世界把握の不充分さを一番問題にしております。
現在の政治制度に対する対案立案をあきらめたような無気力を問題にしております。
> それとも、よい政治とは何かを追求しているのか。
民衆の現実把握の進歩が伴った民衆の政治参加を追求しております。
これは民衆の政策立案能力の向上という形で進められるべき事です。
> 民主主義にも国家からの自由と国家への自由があったように、議会についてもいろ>いろです。
> 議会といえば、議院内閣制かアメリカのような議会を考えてしまいますが、スイス>では、議会自身に統治権があるようです。(フリー百科事典『ウィキペディア>(Wikipedia)』の議会を参照)
> また、歴史的に、ギリシャ・ローマの民会がふれられることが多いですが、ゲルマ>ン民族やヴァイキングなども民会を持っていたともいわれ、ヴァイキングの末裔にな>るアイスランドの民会は近代の議会制民主主義の最古のものとして有名のようです。
>(引用開始 「ヴァイキングの歴史」から http://www.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/uchida(05-1-30) )
> 王と首長は、民会のシング(集会)で選出され、選挙民に対する行為に責任を負>った。その権限は、住民の意思によって制限された。つまり、王は人々が決めた事が>自分の意見より優れていれば、それを承認しなければならなかった。
優れれいるかどうかは誰が判断するのですか?
民主主義では民衆自体が最上を判断します。
民衆の認識が間違っていれば判断を誤ります。
でも、それでもいいというのが民主主義です。
>王の基本的な役割は、住民の安全、繁栄、名誉を保証することであった。また、王は>宗教上の儀式をつかさどる祭司でもあった。キリスト教が中央集権的な君主制を持ち>込むまでは、王にはどのような立法権もなかった。法律が制定できるのは、民会シン>グだけであった。
(以上 引用終わり)
> 思うに、半島を南下して都市国家を建設したギリシャにせよ、ヨーロッパ各地を席>捲したヴァイキングにせよ、移動していたことが一つの鍵になっているように、私に>は思えます。
> 他民族の土地を通過していくことは、いろいろな情報を収集して、決断していくこ>とが必要です。そこでは、王のみの判断では失敗の可能性があり、合議制によるほう>が正しい判断をくだせる可能性が高かったのではないか。
民主主義とはある意味、個人の責任を問わない事です。
みんなで決めた事なのだから1人1人の責任は軽減されます。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」です。
結果について誰も責任を取る必要はありません。
> 議会という意味での民主主義は、結局、参加型の民主主義であり、
> 民衆の政治意識が高まったときには、9.11以後のアメリカ議会のように、一色にそ>まってしまうこともまたさけられないでしょう。
> プロレタリア独裁にせよ、愛国主義にせよ、民族主義にせよ、それらは国家への自>由という意味では同じサイドにあり、そのような民衆意識の高揚の中では、民主主義>とは、愛国主義・民族主義も含めて、それらの運動自体のこととされ、議会は単なる>手続き上の組織にすぎなくなってしまうでしょう。
> 彼らにとっては、いずれも議会制民主主義とは一つの形式であり、手段であって、>それ以上のもの・・・例えば同志的信頼・・が、その先にあるということでしょう。
> (以下、レーニン 何をなすべきか から引用)
> 「『民主主義』つまり遊びごとふうでない真の民主主義は、部分が全体にふくまれ>るようにこの同志的関係の中にふくまれているのではないか?」
(以上 引用終わり)
> このことからすると、民族主義・愛国主義に民主主義を対置したところで、それは>弱い。
> お前が、民族主義を主張する自由を認めてやるから、俺が個人主義を主張する自由>を認めろといっているようなものですよね。
> さて、生産力の発展が、直接には労働者階級の利益にならない、手放しではよろこ>べないのが資本主義であることを、さまざまな事件を通して、ワヤクチャさんは、ご>存知なのだから、
>それを協同組合云々にもっていかなくても・・。
生産力の発展が労働者階級の利益になるためには労働者階級がいかに生産手段を所有するか生産手段を共有する組織に属することができるかが課題になるでしょう。
> かなり、外れてしまいましたが、要するに、私自身、議論の意図がつかめなくて、>失礼ですが、民主主義についての、おしゃべりをしてるだけのような・・。
民主主義と言えば何かいいことのように思われるでしょうが、反日教育によって「日本を打倒すべきだ。」と考える中国人が多数になり民主主義的手続きで対日本戦争を始めたとしたら問題ありますでしょ?