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(回答先: 追補 投稿者 岩住達郎 日時 2005 年 4 月 07 日 00:39:57)
「再現性、予言性」についての少々のご質問と、御礼
岩住達郎さん、どう贔屓目に見ても理論的とも客観的とも言いがたい私のつまらぬ文章にご回答いただき、本当にありがとうございます。私は文章中で「理科系の出身」などと申しましたが、すでにお見通しとは思いますが、単に理科系学部にいた、というだけの、何一つ究められなかった情け無い者です。
ですから私のような者が「科学」を口にすること自体がおこがましいのですが、ただ「科学」や「実証主義」の名を使い「客観性」を語りながら、極めて重大な事実を隠蔽する輩がいる、そのような「科学」なら百害あって一利なし、と考えているからに過ぎません。
私は先日の投稿の中で述べたように、「権力を持つ者の意図」は物理的事実と同様の事実として定義されるべきではないか、などと、柄にも無く叫んでいるのですが、私のようなド素人が何を言っても無駄なことは承知しております。だけども言わざるを得ない、という気持ちだけで投稿を続けております。
ただ少しだけ、「再現性」「予言性」について、お教え願いたいと思います。
●まず「予言性」についてですが、これは未来に起こるべき事柄についての「予言」という意味でしょうか。それとも「未知なるものが発見される」ということを指しているのでしょうか。もちろんこの二つは切り離すことが出来ないでしょうが、例えばメンデレーフが未知の元素の存在を予言した、とか、アインシュタインが太陽の重力による空間の歪みの存在を予言した、というように、自然科学では比較的後者の方に重点が置かれているように思います。
未来の「予言」、というと何となく宗教臭くなってくるのですが、なりついでに、ですが、旧約聖書の中にあるミケア(ミカ)の話はご存知だと思います。(ただ宗教では神の言葉を預かって伝える「預言」となるようですが。)ある町の住人の不信仰がひどいので神がミケアに命じて「この町は滅びるであろう」と預言したところ、その町の住民がすっかり悔い改めてしまい、神はそれを見てその町を許したため、ミケアの預言は見事に外れることになった。もし預言が当たらなかった場合、その預言者は石で殺されなければならない掟があり、ミケアは神に「なんちゅうことをしてくれたんですか。私の立場も考えてくださいよ。」と文句を言ったところ、神は「じゃかあしい!ワシのやることに文句つけるな!」ということで、ミケアを3日間化け物魚の腹の中に放り込んでしまった、という話ですね。
未来の予言が人間に対するものの場合、予言したばかりに、逆にその予言された未来が変わって予言が外れてしまう、という話なのですが、人間の世界相手だと十分に起こりそうです。この反対に、例えば「株の大暴落」を権威ある人が言ってしまった場合に不安を巻き起こして本当に暴落する、というようなこともありうるでしょう。これが科学的な意味で「予言」と言えるかどうか。
また例えば米国のキリスト教信者の中には黙示録の予言(預言)を本気で信じ切っている者がおり、その予言が実現するように動いている、ということを言う人もいますが、もしそうなら、これは科学で扱う「予言」と言うよりは、一種の「洗脳プログラム」でしょう。
といって、予言を誰の耳にも聞こえない場所で言ってもこれはもう「予言」ということはできないでしょう。後になって「ホラ見ろ、思ったとおりだ」と言ったところで「アホか!」と言われるだけです。
もし岩住さんがこのような「未来の予言」まで含めておっしゃっておられるのなら、私はちょっと頭を抱えてしまいます。もちろんそれが可能なものも多いだろうけど、逆に原理的に不可能なものも出てくるのではないのか、ということです。まあ私のような鈍才が考えてもしょうがないことで、何十年か百何十年か後で天才的な社会科学者が登場して解決してくれることかもしれませんが、今の私にはどう考えようもありません。
●次に「再現性」についてです。もちろんこれは、例えば殺人が起きた場合に被害者をもう一度生き返らせて事件を再現させる、といった馬鹿馬鹿しい話でないことは承知しています。私が前の投稿で申しました「権力を持つ者の意図」などは、まさにこの「再現性」を持つ事実ではないのか、と考えます。その意味でこれなどは時間的な意味を含む「予言性」を持っているといえるでしょう。
多くの社会科学者がこの「権力を持つ者の意図」の「再現性」を無視するために、災難が繰り返されるわけで、自分の力では無理でも、早く新しいより優れた社会・政治理論が出てきてもらいたいものだ、と願っています。まあ私が死ぬまでには間に合わないかもしれませんが。(実際には「権力者にへばりつく者の言動」とか「権力を持たない者の行動」にも「再現性」がありますけど。)
そしてその「再現性」があるからこそ、適切な「予防措置」が考えられるべきであり、岩住さんが「日本の取るべき進路」でおっしゃっておられることも、このような観点に立ってのことだろう、と考えております。以上のような受け取り方で間違いは無いでしょうか。
●また、『即ち、科学に必要なのは反証主義であって実証主義ではない、それどころか実証主義は進歩を阻害する、従って人文・社会学は殆ど進歩しなかった、という事なのです。』とおっしゃっている点については納得できました。分かりやすい言葉で言えば「すべてを疑え」「疑って疑って、疑いつくせ」ということなのでしょう。
私などが柄にも無く、スペインと世界の現代史や、9・11から3・11事変までの流れを、「おかしいじゃないか、おかしいじゃないか」と追っかけているうちに、とんでもないところにまで行き着いてしまいました。ただ、私が今考えているようなことも、様々な事実とつき合わせながらどうせまた自分で疑っていくことになるでしょう。まあ、「科学的だ」と言う自信は全くありませんが、少なくとも「非科学的ではないだろう」というふうには思っています。
●ただ『如何なる議論も人間の価値観を基礎としている限り議論の普遍性は絶対に達成できないのです。』という点は、確かにそうだとは思うのですが、実際には難しいですね。私が私の主観から自由になれるのか、ということになると、努力はしているつもりなのですが、「こりゃ、死ぬまでアカンわ」と悲観的にならざるをえない状態です。
私はまず「○○主義」のようなものは排除し、以前にがんじがらめにされていた「左翼主義(これもあいまいな言葉で定義は難しいのですが)」を自分で捨て去りました。これらは一見「客観的」であるかのような「主観」を自分の頭の中に積み上げていってしまい、紛れも無く主観で言っているにも関わらず自分は客観的なつもりになってしまう、と考えたからです。考えた、というよりも、物事の流れをじっと見ていると「おかしいじゃないか」ということが多かったわけです。
必然的に「自分は左翼だ」と考える人に対してはどうしても厳しい見方をしてしまいます。といって「自分は右翼だ」と考えている人に甘いわけではありません。そもそも、人間を右から左に一列に並べておいて、「左」「中」「右」などと考えること自体が、「主観」の最たるものだ、と考えます。最もひどい「主観」は、決して自分の頭で考えたことではなく外から植えつけられたものです。つまり「洗脳の結果」こそが最大の「人間の価値観」「主観」を形作る、と思います。
ではそれでどうか、というと、次々と新しい自分を縛り付ける「主観」を自分で作っていってしまい、それをまた実際に今起こっている事実の検証で覆していく、もうこれでへとへとになってしまう、それでも朝起きたら「またやろか!」ということになる、まあこんな毎日です。
私などよりはるかに先輩の木村愛二さんなどはこれを何十年も繰り返してきたのだろう、と推測しています。たしかにあの方はときどき口が悪くなるときがあるのですが、しかしこのような、次々と自分の身にまとわりつく「主観」を振り払う苦しみをしたことが無いような者から、他人の言葉を引用するだけの(つまり客観のふりをした主観をぶつけるだけの)ケチつけに遭うと、自然に口も汚くなるだろう、と思います。
●また長々とくだらぬことばかり申し上げたかもしれませんが、今後も阿修羅の読者諸氏による社会・人文科学の革新に少しでも役に立てるような情報を送り続けていきたいと考えています。私の主観がどうしても混じるかもしれませんが、これは無視して、事実だけを抜き出して、読者諸氏の「主観打破」の一助にしていただければ幸いだ、と思っております。