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(回答先: 実証主義と科学理論について、バルセロナより愛を込めてさんへ 投稿者 岩住達郎 日時 2005 年 4 月 06 日 09:26:26)
全文で普遍性について言及するのを忘れましたのでカッコで追補します。
大変興味のある論題を拝見し、私の「社会・人文科学」に対する見解を述べたいと思います。
先ず、科学とは何かという定義から始めます。これは辞書に書いてある定義では無く、私自身の永い経験から決めた定義である事をお断りしておきます。
科学とは研究対象の再現性と予言性を議論する学問である。
理工学系の学問では再現性と予言性は常識ですが、現在の人文系の学問では全く無視されています。即ち、現在の人文系の学問は経済学も含めてこの定義では科学とは言えません。しかし、未来の人文系の学問が再現性と予言性を持つ可能性は十分にあるのです。唯、今は誰もその手法を開発しようとしていないだけです。
次に理論の定義は
理論とは研究対象について実験により反証可能な予言を厳密な論理に従って作ったものである。即ち、実験不可能な議論は理論とは見なせない。ここで実験可能とは定量的な測定可能とは限らない。
重要な事は、如何なる理論も正しいと証明する事は出来ない、無限に反証を示すことに失敗して始めて理論が正しいのであろうと推定出来るに過ぎない、という事です。「その理由は理論とは普遍性が絶対的な生存理由であり、普遍性を確保する為にこの手法が確立されたのです」。この事は自然科学でも物理学者には良く理解されていますが、生物関係の学者には殆ど理解されていません。
本来、理論とは唯の一つでも反証が確認されればその理論は誤りを含んでおり、その理論から誘導された全ての結論は、全てが誤りとは言えなくても、最早信頼出来ない事になります。つまり、理論を打破するには反証を一つ見つけるだけでよいのです。或る理論が打破されると、それに更に改良を加えるか、又は完全に基礎からやり直すか、という進歩に対する原動力が沸き上がって来ます。この原動力が自然科学をこの百年で長足の進歩を遂げさせた理由です。そして、その結果自然科学から人間の価値観が完全に追放されたのです。
所が、一般人の感情論や政治的配慮から、偉い人が大変な努力をして作った理論をたった一つの反証で叩き壊すのは拙いのではないか、という意識が潜在的に存在するのが問題なのです。日本人に限らず世界の社会・人文学に携わる人達の恐らく99%以上の人は或る理論から導かれた結論と一致する実証を得た時にその理論は正しいと結論するでしょう。つまり、実証例が挙がれば反証例を無視してしまい、反証を挙げた人達を弾圧して黙らせるというのが社会・人文の学問では常識です。
これは科学理論の本質を理解していない証拠であり、科学理論に対する正しい対応は理論から導かれた結論に対する反証を得る努力をする事にある筈です。即ち、科学に必要なのは反証主義であって実証主義ではない、それどころか実証主義は進歩を阻害する、従って人文・社会学は殆ど進歩しなかった、という事なのです。この百年間世界の政治思想は修正に次ぐ修正で堂々巡りを繰り返すだけで、相変わらず失敗ばかりしているのが何よりも証拠です。
反証主義に従って社会・人文学を見直せば今まで何百年もかけて蓄積した莫大な量の議論は殆ど皆誤りを含んでいる事が分かります。つまり、どんなに議論を重ねて来ても反証が確認されれば直ぐに破棄して新しいアイデアを追求する勇気が無い限り、これからも社会・人文学が長足の進歩を遂げる可能性は全くありません。歴史的に有名で偉い先生が述べたことを金科玉条として信じ、先生を偶像として奉っている限り進歩なんてある訳が無いのです。この先生とは孔子から始まり、キリストを経て綿々と現在まで続いている価値観を説く有名人の事です。「如何なる議論も人間の価値観を基礎としている限り議論の普遍性は絶対に達成できないのです」。
「日本の取るべき侵略」で何度も述べましたが、社会・人文学でも人間の価値観(主観)から分離した「摂理」の様な法則を次々と発見し、議論の中から個人の価値観を分離出来る様になるまでは社会・人文学の進歩は望めないでしょう。言い換えれば、社会・人文学でも自然科学の様に人間の価値観追放に成功する事が進歩の目安となります。阿修羅で議論されている人達でも個人の価値観を主張されているのが多い事は明らかで、従って議論がいつまでも収束して行かないのです。