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「実証主義」と現代史についての一考察(1)
これは私にとっては余りにも荷が重過ぎる考察かもしれません。私はまともに哲学や歴史学など勉強したことは無く、単に自分の手で情報を集めて自分の目で確かめ、自分の頭で筋を通して、自分の手で書き留める、それしか出来ない人間です。しかしそれでも、どうしてもこれだけは言いたい、という事柄ですので、「討ち死に覚悟」で突っ込むことにしましょう。
私ははるか以前には広瀬隆のファンの一人でした。その精緻を極めた文献の研究と考証、その中から複雑な人物関係を一つ一つ具体的な事物を通して解き明かしていき、ロスチャイルド家の発展を軸に近代世界を解剖して見せるその切り口に、胸をときめかした一人でした。
その広瀬隆が2001年の9・11事変を「イスラム・テロ」と断定したことを知ったのは、私がやっとのことでコンピューターを手に入れていろんな情報を集めだしてから後のことでもう2004年を過ぎていました。(すでに長年日本を離れていて、日本の情報は全く手に入らない身だったのです。)
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http://www.asyura.com/0403/bd35/msg/317.html
投稿者 ジャック・どんどん 日時 2004 年 4 月 28 日 16:12:24
広瀬隆さんには、「9・11事件の真相」についても書いてほしいですね!書くとヤバイのかな?
http://www.asyura.com/0403/bd35/msg/344.html
投稿者 馬鹿まるだし 日時 2004 年 4 月 29 日 10:09:24:
Re: 広瀬隆さんは、「9・11事件の真相」はイスラム原理主義者の犯行と著書で書いています(本文なし)
http://www.asyura.com/0403/bd35/msg/384.html
投稿者 広瀬半ファン 日時 2004 年 5 月 01 日 18:32:08
Re: 広瀬氏の限界を認識しよう
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これは私にとっては非常なショックでした。もちろん上の「広瀬半ファン」さんのように広瀬を「限界のある人間」としてとらえ「天は二物を与えず」と達観することも可能なのでしょうが、私のショックはそのような視点からではなかったのです。
彼は、自ら第一次資料を調べたこともあると思いますが、数多くの文献資料からの情報を極めて実証的に駆使して、歴史の隠された部分を解明していった、と思います。その基本にある哲学はやはり「実証主義」といえるでしょう。
しかしその「実証主義」が実際に目の前で(少なくともテレビのスクリーン上で)起こっている現実に対して一体何の役を果たしたのか? 文献考証に関してあれほど透徹している広瀬の眼は今現在起こっている事柄に対しては節穴なのか? しょせんは紙切れの上に書かれてある文字にしか反応できない眼だったのか・・・? そんな眼をそれまで内から支えてきた「実証精神」なるものは一体何なのか??
4つの登場口で武器を持った十数名の「テロリスト」がことごとくパスする? ニューヨークとワシントンで空軍のスクランブルが無かった? それもペンタゴンで? 飛行機操縦免許をやっと取った程度の「イスラム・テロリスト」が、あの巨大な最新鋭旅客機を、あの猛スピードで、あの小さな目標のど真ん中に、3回立て続けに命中させる? ペンタゴンにいたっては地上すれすれに激突させる? しかも(私はスペインのテレビで見ながらアレ?と思ったのですが)機体の破片らしきものは見えない! 巨大なWTCが上からスルスルとバナナの皮を剥くように崩れ落ちていく? そして後になって、鉄骨もグチャグチャになるほど高熱にさらされたはずのWTCの瓦礫の中から「テロリスト」のパスポートが発見される???
以上が、実際に世界の何億人の目の前で起こった事実なわけですが、で、これを見て考えて「イスラム・テロ」という結論を導く?
広瀬隆は『事実は疑惑を生み出すが、それでは充分ではない。事実は証明されてはじめて結論を導くものである。』とその著書の中で書いているようですが、では「9・11はイスラム・テロである」という『結論』が、これらの、世界中の人間の目の前で紛れも無く起こった事実から、どのように導かれるのか? 何によってどのようにそれが「実証される」というのか? 「イスラム・テロリストではない」ことの方がはるかにたやすく証明できる事実ばかりではないのか?
それとも、権力者が押し付ける「常識」に逆らうと大損する、という恐怖感によって、その「実証主義」を捨てたのか? それともテレビのアナウンサーががなりたてる「テロだ!」「テロだ!」という声に押されて何となく「実証精神」を見失ったのか? あるいは、元々から紙の表面しか見ることができない惨めな眼の持ち主であった、というわけなのか?
私は広瀬隆という、確かに限界を持っている一人の人物、について語っているのではありません。彼がそれまで散々世間に示してきた「実証主義」「実証精神」なるものの正体がいかに頼りにならないものなのか、ということなのです。彼の、湾岸戦争や真珠湾攻撃、トンキン湾事件やメイン号事件などについての文章は読んだことが無いのですが、もし何か書いたとしても、結局は9・11と同じような程度のトンチンカンになっているだろうな、と思います。
もっと言えば、私は、広瀬隆という人物ではなくても、誰が使ったとしても、いわゆる「実証主義」には最初から有効な範囲とその限界があるのではないか、と疑っています。歴史、特に現代史を見てそれについて語る場合、また実際に今この瞬間に起こりつつあることを見てそれについて語る場合、広瀬流の「実証主義」では手も足も出ない範囲がある、ということを、広瀬隆が自らの身をさらして、それこそ「実証してみせた」ということではないか、と思います。
さてそれではここで、広瀬という人物から離れて、現代史、そして今という我々が現実に息をしているこの時を『知ること』に対して、「実証主義」「実証精神」がいかなる働きをしてどのような限界を持っているのか、その限界を乗り越える方法はあるのか、ということについて考察してみたいと思います。