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(回答先: Re: 「実証主義」と現代史についての一考察(2) 投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 4 月 03 日 08:39:46)
「実証主義」と現代史についての一考察(3)
私は以前に、自分の阿修羅投稿の中で次のように申しました。
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http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/286.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2004 年 10 月 01 日 09:35:49:
スペインは米国の謀略テロ被害者第1号だった:メイン号事件から9.11へ
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【引用開始】
もちろん私は歴史を専門的に勉強したこともないし、持っている知識にしてもたかが知れている。さらに、歴史を専門に研究する人々が歴史上の「事実」に関してその真偽をどんな基準で判断しているのか、よくわからない。
当然だが歴史は自然科学とは異なる。自然科学なら必ず観測・測定可能な物体なり現象なりで一つの仮説が証明されうる。一定の条件と手段さえ整えばある予測された結論(素粒子論やカオス理論によって導き出される確率的な分布を含めて)が繰り返して検証可能である。しかし人間は自然界の物質とは異なり、物理的・受動的に反応すると同時に、「意図」を持って行動し「意図」を持って物事を創造しうる能動的な主体である。
歴史を、あたかも意図を持たぬ(持ったとしても反射的・一時的な判断程度の)機械人形が、「歴史法則」や経済原則、地理的要因などによって、受動的に動かされるプロセスであるかのようにとらえて、それを「客観的な歴史的事実」などと主張することは本質的に誤っているように、私には思える。少なくともこれは科学的な態度とは言いがたいのではないか。観察者自身もその対象も「意図」を持った能動的な人間である、という自然科学とは根本的に異なる条件を無視しているからだ。(私自身が理科系の出身であるだけに、逆に、歴史をそのような目で見る人には大きな違和感を覚える。)
上記のような人が陥る「偶然史観主義」とでも呼ぶべき「偶然に起こった出来事を人間が利用して歴史を作ってきた」などという考え方は、私には単なる知的不誠実=似非科学としか見えないのだ。(具体的な批判例は『(5)「メイン号事件」についての、日本におけるさまざまな反応の実例』の中で展開させていただく。)
もちろん自然科学流の「繰り返しての検証」は原理的にできない。一つの仮説を元に将来を予測したとしても、当事者が意図的にその行動を変えてしまう場合には仮説の検証自体が成立しない。また物証が意図的に消滅させられあるいは隠匿された場合、その検討は不可能となる。あるいは意図的に「物証」が捏造された場合は検証自体が無意味になる。例えば「メイン号事件」に関して、万一新たな資料が発見されたとしても、その資料自体の真偽がどう判断できるのか。
イタリア・ルネサンス期のロレンツォ・ヴァラが「コンスタンティヌスの寄進状」(ローマ教皇領の根拠とされた)のでっち上げを見破ったような例はある。しかしすでに千年間以上の既得権益となった教皇領が奪われることは無く、時すでに遅し、である。そしてこの件は、いかに重大な「物証」捏造が意図的に行われうるのか、の実例でもあるのだ。
人間の歴史にはこのような「嘘の上に成り立つ事実」もあるだろうし、逆に「事実に基づいた嘘」もありうるだろう。歴史の「真実性」と自然科学的な方法論における「真実性」とは、重なる部分と同時に、本質的に異なる多くの部分を含んでいるものではないか。
再度申し上げるが、人間は物理的・受動的に反応すると同時に、「意図」を持って行動し「意図」を持って物事を創造しうる能動的な主体である。ある出来事に関して「何が真実か」は、その出来事と、その前後に続く一連の物事との間に貫かれる「ある意図」を検出することによってもまた、明らかにされうるのではないか。もちろん私はこのような方法を慎重で十分な調査と照合が不足したまま適用した場合の危険性は重々承知している。
当然だが、「全能の神(悪魔?)のような陰謀主体」を想定して、すべてをそこに演繹的に帰結させるような考えは単なる知的怠惰であろう。このような考え方は要するに一神教的世界観のグロテスクな変形に過ぎない。従って例えば「ユダヤ人が何百年も前から仕組んできた陰謀」であるとか、「フリーメーソン」「イルミナティ」等々に、様々な現象を結び付けて説明して「事足れり」とするような態度にも、私は「偶然史観主義」と同様に強い違和感を覚える。
この世に陰謀、謀略、だまし、やらせ、詐欺、でっち上げ等々が存在するのは当然なのだが、あくまでも人間の世界は多元的・相対的・流動的でしかなく、どのような陰謀主体も無様につぶれることもありうるし途中でその意図を変更させざるを得ないこともあろう。陰謀・謀略を練る者が意図を持った人間であり、それを見破って打ち破ろうとするのも、すべてが意図を持った人間だからだ。
したがって、先ほど述べたように「何が真実か」は、その出来事と、その前後に続く一連の物事との間に貫かれる「ある意図」を検出することによってもまた、明らかにされる可能性がある、と私は思う。歴史を一枚の織物として、物理的・地理的要因を「横糸」とすれば、人間(注意!歴史の登場人物および歴史を記述する人物の双方!)の主体的な意図が「縦糸」、というように見て、その双方の「糸」の表面と裏面でのつながりを見抜いていく中で「何が真実か」が発見可能ではないか、と思う。
このような見方に関して、専門的に歴史を研究される方から厳しいご批判を受けることは覚悟しているが、「歴史」があくまでも人間の歴史であり、「歴史の記述」があくまでも人間の思考の産物である以上、以上のように考えざるを得ない。19世紀段階の自然科学を中途半端に真似しただけの「普遍的で客観的な歴史的事実」など、「天地開闢6千年」のキリスト教原理主義の歴史観同様、私とは無縁である。
【引用終り】
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上記の文章は、私が持ついわゆる「人文科学」「社会科学」への不信感を表明し、新しい「ものの見方」を獲得するために実験的に作ったものなのですが、以前から私は、いわゆる人文科学者や社会科学者が、どうして自然科学に対する奇妙なコンプレックスを克服できないのか、「自然科学の方法論に準拠しなければ科学とは認めない」という自然科学者に対して(自然科学者としては当然の言い分ですが)、どうして堂々と自然界と人間界の相違を主張して社会・人文科学の、科学としての独自のあり方を主張できないでいるのか、不思議に思っています。
自然科学者としては、相手がはっきりとものを言わない限りは相違がはっきりしないわけですから同様の主張を繰り返すしかないわけで、自然科学に準拠すると言いつつも、結論の出るはずも無い堂々巡りの屁理屈合戦を繰り返しては、結局は派閥とか力関係で「真偽」を決め付けたりするため、「やっぱりあいつら頭が悪い。こりゃ相手にしないほうが良いワ。」ということになってしまいます。自然科学者としては、本心では、恐らく社会科学や人文科学など「科学ではない」と思っているでしょう。
しかし、「人間」という自然界には存在しない要素が作るものの場合に、自然科学とは別の方法論が存在する方が当たり前であり、「これだけ違うのだ」ということを明らかにしていけば、自然科学者も納得できると思います。奇妙に「科学」という名にこだわって「科学的であろう」とするために、逆に非科学的、というよりも似非科学的になってしまうのではないでしょうか。
何よりも、
『人間は正直にも嘘つきにもなる存在である』
『人間はある「意図」を持って行動し発言するものであり、その「意図」は必ず様々な種類の欲と主観によって作られている』
『人間は自らの「意図」を実現させるためには、時として、意図的に嘘を付き、他人の口を封じ、他人を殺すこともいとわない』
『人間の欲を他人の障害から自由に満たすために「権力」を欲するものであり、「権力」を用いて他人を精神的・肉体的に支配しコントロールし、時には抹殺する。』
『権力の土台はモノとカネの動きの掌握であり、また情報と知識の掌握である』
『その「権力」を実現する手段は暴力であり、暴力装置を持つことによって「権力」を得ることができ、情報装置を握って、法体系を整備して、その権力を維持することが可能である。』
『人間は支配され騙されることによって安心感を得たりそれによって生きる意欲を得たりする場合がある』
『人間は多数でいると、支配されたり騙されたりしていても安心でき、その状態を全力で維持しようとする傾向を強く持つ』
『現代を含む「歴史」の資料はそのような人間が作ったものであり、それを分析して解釈し結論をまとめるのもまたそのような人間である』
というようなことを
普遍的な事実として認め、過小評価せずに、自然科学と共通の方法論をテーブルの足の一つとして持ちながらもそれとはもう一つ別の足を確立し、これらの人間に関する事実を織り込んだ別の体系の科学として再出発すべきでしょう。上記のようなことを「これは哲学の分野であって科学ではない」「信念の問題であって実証とは無縁だ」と言うから、逆に擬似科学になってしまうのではないでしょうか。なお上で「欲」と書いたものにはいわゆる「善悪」の概念は含まれていません。
このような人間という存在は自然科学の概念には無く、社会・人文科学の独自の対象であり、それを含んだ自然科学とは別の体系を作る必要があるように思います。そしてその体系を科学として堂々と自己主張すればよいのであって、自然科学への、それも19世紀段階の科学へのコンプレックスがあるから、自然科学に対して自己主張しない、これは日本だけではなく世界中でそのように見えるのですが、特に日本の場合には欧米崇拝が頑強に根付いているため決して自ら変革しようとはしないようです。
このような対等の立場に立った自然科学者との対話が無いから、いつまでたっても自然科学者から「フン」と軽蔑されるのではないでしょうか。私にはこのような社会・人文科学者が科学を本当に信用しているとは信じられません。本当に科学的方法論を信頼するのであれば、自然科学には存在しない上記のような人間的要素を切り捨てたり過小評価したりは決してしないでしょう。
(これらの点については、もしご覧であれば、ですが、自然科学を究めておられる岩永達郎さんからコメントをいただきたいのですが。)