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(回答先: 梵我一如と《めまい》 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 2 月 11 日 15:28:52)
たけ(tk)さん、こんにちは。
【『夜と霧』について。如往さんへ】といったスレッドを建てていただきながら、回答が遅れていますことをお詫び申し上げます。以前、この件についてはたけ(tk)さんと少しやり取りをしたと記憶していますが、ログしたものが見つからず愚図愚図している間に時間が経過してしまいました。ただし、ガス室問題に関する私の認識はその時と今と然程変わっていないと思っています。
そして、省察的に自他の世界認識の風景を再構成しようとする試みは、おそらく、【主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義と天上天下唯我独尊と公理主義http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/819.html投稿者 たけ(tk) 日時 2004 年 6 月 06 日】以来ではないでしょうか。
>《我》は客観的には梵我一如であることを認めるが(《客観公理》)、《我》は主観的には梵我一如であることを否認する(《主観公理》)。
これは、「《我》は客観的には梵我一如であることを認めるが」を「《我》は客観的には梵我一如であることを意識することがあるが」に、「《我》は主観的には梵我一如であることを否認する」は「《我》は主観的には梵我一如であることを忘却している」に、書き換えた方が理解し易いのではないしょうか。
そして、以下、 《知りつつあるモノ》=ノエシス[思惟することの作用の(側面)]、《知られつつある世界》=ノエマ[思惟されるもの(の総体)]、さらに《我》=サブジェクト[思惟の主体]と置き換えるともっと解り易くなると思います。
たけ(tk)さんは、《我》が梵の先端的顕現であり、末来に投影されている《我》の振る舞い(兆候)の中に《知りつつあるモノの背後者》(=超越的認識者[自己完結的存在])を見通すことが可能だと考えられていて、さらに梵と《我》とが恰もフラクタルな繋がり(関係性)を有している模様を叙述しようとしているのだと受けとめています。
しかしながら、見通しを獲得していくことが「《知りつつあるモノ》は自らを動かす《ちから》を破壊し、《知りつつあるモノ》は自らの《ちから》を失う」ことに繋がり、さらには《知りつつあるモノの背後者》を無化し、結果として《我》にたいし脱力感・無力感を伴なった深刻な《めまい》に襲われるとしています。
この《めまい》から回復するためには、「自らの《身体》の中に《息しつつあるモノ》があることを思い出そう。《知りつつあるモノ》は、《息しつつあるモノ》によって《生かされつつあるモノ》であることを思い出そう。そして、それを実感として取り戻そう。」と、身体性に潜む強靭な自然性(=《息しつつあるモノ》)に目覚めよと語っています。その上で、自身(=《身体》)の内部で脈打っている自然の息吹を実感しながら、その源に想いを馳せていくならば、やがて「《宇宙史》は全体であり《身体》はその一部であり、《知りつつあるモノ》は《身体》の内部の作用であることを知る。」ことになり、すなわち「《知りつつあるモノ》は梵我一如であることを知るのである。」と導かれています。
アートマン・プロジェクトは一人一人が目覚めて、一人一人が始める他に道はないのでしょう。そして、プロジェクトの一つ一つがシンクロナイズし、人々の《ちから》が伝播することによって宇宙史が再構成されていくとしたら、そこには素晴らしい世界が生まれると想像できます。そんな世界の現出を信じられ、もし死に臨むことができたら、この上なく幸せに思います。
また、会いましょう。