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《他者》を観察すれば、《他者》が《宇宙史》の一部分であり、人と《宇宙史》とは部分と全体との関係にあることがすぐに分かる。梵「他」一如であることは自明である。
《我》と《他者》とが同質のものである(《同質者公理》)とするならば、当然に《我》もまた《宇宙史》の一部であり、梵我一如であることがわかる。
問題は、何故に《我》は梵我一如であることを認めないのか、であろう。
《我》は客観的には梵我一如であることを認めるが(《客観公理》)、《我》は主観的には梵我一如であることを否認する(《主観公理》)。
したがって問題は、(1)《我》が主観的に梵我一如であることを認めることができるどうかか、(2)主観的に梵我一如であることを認めるというのはどういうことなのか、であろう。また問題は、(3)「梵我一如であることを否認する《我》」とは何か、であろう。
「梵我一如であることを否認する《我》」は《知りつつあるモノ》である。
《知りつつあるモノ》は《知られつつある世界》を知りつつあるモノである。それは《知られつつある世界》の中心にあり、《知られつつある世界》を超越した、別個の、外部の存在である。
しかしひるがえって《他者》を見るなら、《他者》においては、《他者》の《知りつつあるモノ》は、《他者の身体》の内部にあり、《他者の身体》の内部的な作用である。
さすれば、《我》の《知りつつあるモノ》も《我》の《身体》の内部にあり、《身体》の内部的な作用であると思われる。(《同質者公理》)
《知りつつあるモノ》が「《身体》の内部的作用」であることと(《客観公理》)、《知りつつあるモノ》が《知られつつある世界》の超越的認識者であること(《主観公理》)の矛盾はどう理解すればよいか。
《客観公理》による説明は簡単であろう。 「《身体》の内部的作用でしかない《知りつつあるモノ》が、勝手に、その《知られつつある世界》の超越的認識者であると思いこんでいるだけだ」という説明で十分である。
しかし、《客観公理》による説明は《我》にとっては意味がない。《我》は主観的存在だからである。《主観公理》の発展によって矛盾を解消すべきなのである。
「《知りつつあるモノ》は《知られつつある世界》の超越的認識者である」という《主観公理》の説明には欠けているものがある。
《主観公理》の説明には「《知りつつあるモノ》が《身体》の内部的作用である」という視点がない。《主観公理》の体現者としての《知りつつあるモノ》は、自らが「《身体》の内部作用である」ということを知ることができないのである。
これを《知りつつあるモノの背後者》と呼ぶことにしよう。「《知りつつあるモノ》が《身体》の内部作用である」という事情は《知りつつあるモノ》の認識作用の背後にある事情だからである。
《知りつつあるモノ》は《知りつつあるモノの背後者》を直観によって知ることはできない。なぜなら、知るという作用は矢印の始点から終点を知るという作用であり、矢印の始点から見てマイナス方向にある《背後者》は原理的に見て終点とは別のものだからである。
しかし、《知りつつあるモノ》は《知りつつあるモノの背後者》を兆候によって知ることができる。
《知りつつあるモノ》の興味・注目を決定するのは《知りつつあるモノの背後者》の作用である。
《知りつつあるモノ》は自らの興味の赴く様子、どういう時に何を注目するかを観察し、それを《知りつつあるモノの背後者》の兆候として観察することにより、《知りつつあるモノの背後者》の実体を推知することができるようになる。
しかしながら、《知りつつあるモノ》が《知りつつあるモノの背後者》への見通しを獲得していくと、《知りつつあるモノ》は重大な危機に陥る。 《知りつつあるモノ》は深刻な《めまい》に襲われるのである。
《知りつつあるモノ》が、《知りつつあるモノの背後者》を見通すということは、《知りつつあるモノ》からもたらされる《ちから》を破壊することである。《知りつつあるモノ》は自らを動かす《ちから》を破壊し、《知りつつあるモノ》は自らの《ちから》を失う。
《知りつつあるモノ》が《背後者》を知ろうとすればするほど、《知りつつあるモノ》は知る《ちから》を失う。《知りつつあるモノ》は《背後者》に迫れば迫るほど、自らの存在原因を失う。
《知りつつあるモノ》は《めまい》に襲われるであろう。 では、《めまい》に対してはどう対処すればよいのか?
《身体》の内部作用には、《知りつつあるモノ》よりももっと確実なものがある。《息しつつあるモノ》である。《身体》内部の《息しつつあるモノ》は《知りつつあるモノ》が知っていようが知っていまいが、《身体》が生まれてから死ぬまで、《息しつつあるモノ》であり続ける。《息しつつあるモノ》は《知りつつあるモノ》よりも根源的でありはるかに強力なモノである。《息しつつあるモノ》が30秒間その動きをサボれば、《知りつつあるモノ》はたちまちに錯乱状態に陥るのである。
《知りつつあるモノ》が《めまい》に襲われたら、自らの《身体》の中に《息しつつあるモノ》があることを思い出そう。《知りつつあるモノ》は、《息しつつあるモノ》によって《生かされつつあるモノ》であることを思い出そう。そして、それを実感として取り戻そう。そして《息しつつあるモノ》の意思に従って、深呼吸をしよう。そうすれば《めまい》は治まるであろう。
《知りつつあるモノ》は、自らが《身体》の内部作用であることを実感しながら、《息しつつあるモノ》によって《生かされつつあるモノ》であることを実感しながら、《背後者》を見通さなければならない。そのような実感を背後に感じながら《背後者》を見通していかなければならない。
《知りつつあるモノ》が《身体》の内部作用である実感を背後に感じながら、《知りつつあるモノの背後者》への見通しを得る時、《知りつつあるモノ》は自らが《身体》の内部の作用であることを知る。また、その《身体》は、《宇宙史》のいまここという、《宇宙史》の一部分であることを知る。《宇宙史》は全体であり《身体》はその一部であり、《知りつつあるモノ》は《身体》の内部の作用であることを知る。
《知りつつあるモノ》は梵我一如であることを知るのである。
しかしながら、この梵我一如はいささか哀れなモノである。
《知りつつあるモノ》は、広大無辺な《宇宙史》の中のちっぽけな地球の中の、地球の表面のカビのような人類の中の、何十億分の一の個体の、《身体》の内部のいまここという点に置かれた作用でしかないのである。
カバラ的な降神術には頼るまい。カバラはいんちきである。《他者》をだまくらかす力はあるが、いんちきである。いんちきに頼るものは自らも騙されるのである。
ちっぽけな《身体》であることを認めたうえで、《ちから》を取り戻そう。
私の《身体》はちっぽけであるが、同じくちっぽけなモノたちと共にある。同じくちっぽけな《他者の身体》とともにある。私の《身体》はモノたちや《他者の身体》と共振しつつある。共振によって私の《身体》はモノたちや《他者の身体》たちと対話し、影響しあう。
私の《身体》の中にある私の《ちから》はモノたちや《他者の身体》たちに広がっていく。さらに、そのモノたちや《他者の身体》たちを通じて、私が知らないモノたちや《他者の身体》へと無限に伝わっていく。
また私の《身体》の中の《知りつつあるモノ》はモノたちや《他者の身体》を知る。私の《身体》がモノたちや《他者の身体》たちと対話することによって、彼らの《知りつつあるモノ》が知った世界を知る。
私の《ちから》は、私の《身体》の中にありながら、モノたちや《他者の身体》との対話を通じて、《宇宙史》全体に広がっていくのである。私の《ちから》の伝わりは微々たるものである。私が知っているモノたちへ伝わる《ちから》は私が持っている《ちから》の何十億分の一であろう。彼らから別のモノたちへの《ちから》はさらにその何十億分の一であろう(何百京分の一)。しかし、確実に私の《ちから》は《宇宙史》全体に広がっていくのである。