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(回答先: Re: 梵我一如と《めまい》 投稿者 如往 日時 2005 年 2 月 14 日 05:10:48)
どうも。レスありがとうございます。ホロコースト論よりもこちらのほうがうれしいです。
> これは、「《我》は客観的には梵我一如であることを認めるが」を「《我》は客観的には梵我一如であることを意識することがあるが」に、「《我》は主観的には梵我一如であることを否認する」は「《我》は主観的には梵我一如であることを忘却している」に、書き換えた方が理解し易いのではないしょうか。
これは「山川草木悉皆成仏」の思想ですね。「忘却している」というのは「もともとは知っていたのに、今は忘れてしまった」という意味ですね。「もともとは知っていた」と言えるかどうかが分からないので「否認する」という表現にしました。
また、「否認する」というのは、強い潜在的な意思によって否認しているのではないかというニュアンスも含んでいます。我々は「梵我一如であることを認めたくない」から認めないのではないのだろう、という気がしています。
何故に、我々が「梵我一如であることを認めたくない」のかというと、一言で言えば「梵我一如を認めると人格を破壊する(という気がする)から」だと思います。お坊さんがたは「無我」などと平然と説教していますが、やはり「無我=人格破壊」はこわいのだと思います。
* 人格(ペルソナ=仮面)は《思いこみ》に過ぎない。人格破壊の決意をしても、実際には現実生活に変化はない、ような気がする。
* 日本人が気軽に「無我」というのは、それが「身近な小集団への同化」を意味しているからだろう。
> そして、以下、 《知りつつあるモノ》=ノエシス[思惟することの作用の(側面)]、《知られつつある世界》=ノエマ[思惟されるもの(の総体)]、さらに《我》=サブジェクト[思惟の主体]と置き換えるともっと解り易くなると思います。
フッサールの用語が分かりやすいとは言えないでしょう。たけ(tk)はヤマト言葉にこだわっております。(ドイツ人の研究者に「日本では下宿のおばさんが哲学用語で喋っている」と言わせたい)
たけ(tk)は「思惟」は「《思いこみ》を操ること」であると定義しているので却下。「知覚することの作用」ですね。これに関しては、たけ(tk)の《知りつつあるモノ》とフッサールの「ノエシス」とはおそらく似たようなものでしょう。ただし、たけ(tk)の場合は、捨ててしまうべきもの、他の《諸々のxxしつつあるモノ》との相対関係にあるモノ、それを《我》と思うのは誤りであるようなモノ、というニュアンスで使っていますので、おそらくフッサールのニュアンスとは異なってくると思います。
> アートマン・プロジェクトは・・
「アートマン・プロジェクト」。なかなかかっこよい命名をいただきありがとうございます。・・って調べたら『アートマン・プロジェクト』という本もあるんですね。
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http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393360095/249-0876906-2925107
目次
プロローグ
意識の初歩的根源
テュポーン的自己
メンバーシップの自己
心的・自我的領域
変容のシンボル
ケンタウロスの領域
微細領域
元因および究極領域
発達の形式〔ほか〕
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うーむ、ちょっと怪しげ・・。
> アートマン・プロジェクトは一人一人が目覚めて、一人一人が始める他に道はないのでしょう。そして、プロジェクトの一つ一つがシンクロナイズし、人々の《ちから》が伝播することによって宇宙史が再構成されていくとしたら、そこには素晴らしい世界が生まれると想像できます。
たけ(tk)はあんまり、人には勧めたくないですね。『人格』を引きちぎって奈落の暗闇に何度も飛び込まないと奈落の底にはたどりつかない。奈落の底にたどりついて始めて、自分が自分の足で立っていることに気がつき、光が見えてくるという感じです。
でもまあ、多くの人がアートマンプロジェクトに参加してくれて、「プロジェクトの一つ一つがシンクロナイズし、人々の《ちから》が伝播する」ならすばらしいことだとは思います。
>そんな世界の現出を信じられ、もし死に臨むことができたら、この上なく幸せに思います。
死なないで (^^;)