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(回答先: Re: キリスト者も似たようなことを 投稿者 健奘 日時 2005 年 5 月 06 日 14:56:20)
古くて申し訳ありません。私が昔書いたものです、ここから現在の私の思考の出発点となっておりますので、おかしいかも知れませんが読んでください
私
認識論として
わたしは二人いる
そしてわたしは二人いなければならない
人間が人間であるということのためにも
一人のわたしはこの社会に何の矛盾も無く適合している私
この社会が持っている矛盾の中にも
悩み、悲しみ、そして苦しみ、また或る時は笑いながらも
適合している私
もう一人はそのことを認識(し)っているわたし
私は言葉を喋り、考える
この社会に合ったものとして
他の人達とのあいだに違和感が無いものとして
もう一人はそのことを認識っているわたし
私は或る時は怒り、或る時は喜ぶ
この社会に合った者として
他の人達とのあいだに違和感が無いものとして
もう一人はそのことを認識っているわたし
時には、私は服を着、ネクタイを締め、正装することを知っている
この社会に合った者として
他の人達とのあいだに違和感が無いものとして
もう一人はそのことを認識っているわたし
私は生きることが働くことだということも知っている
この社会に合ったものとして
他の人達とのあいだに違和感が無いものとして
もう一人はそのことを認識っているわたし
私は何が善か悪かを知っている
この社会に合ったものとして
他の人達とのあいだに違和感が無いものとして
もう一人はそのことを認識っているわたし
私は或るときまで
死後は魂となって、自分が消えることが無いものと信じていた
私が生まれたときからの社会がそうであったように
他の人達とのあいだに違和感が無いものとして
もう一人はそのことを認識ってしまったわたし
生まれたとき、今とは違った社会だったとしても
その社会が持っている矛盾の中にも
悩み、悲しみ、或る時は笑いながらも
適合しているだろう私
もう一人はそのことを認識っているわたし
私は二人いる
私は二人いなければならない
人間が人間であることのためにも
1968年2月