★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ38 > 294.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
文科系と理科系を問わず専門職エリートほど本を読んでいません。彼らには、古典的教養 など、かけらもない。副島隆彦
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/294.html
投稿者 TORA 日時 2004 年 12 月 24 日 18:39:38:CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu85.htm
--------------------------------------------------------------------------------
文科系と理科系を問わず専門職エリートほど本を読んで
いません。彼らには、古典的教養 など、かけらもない。

2004年12月24日 金曜日

◆本は、古典作品と、現在のものをどれぐらい時間配分して読むべきか 副島隆彦
http://www.soejima.to/

(前略)
本物の知識人、言論人の本だけが、10年、20年と岩浜の岩礁のように残ります。しかし一時期、ベストセラーと呼ばれるような本たちでも、その多くは消えてしまいます。30年残る本は、きわめてわずかです。本には、それぞれ「本の命」がありまして、書いた著者本人の、生身の人間としての命や運命とは、別個独立の運命をたどるようになります。「本の命」は、書いた者とは別個に長らえ、あるいは死に絶えます。たった一ヶ月で死んでしまう本が、大半です。

今のような「出版洪水のさ中」にある時代には、本の出版点数だけが気が狂ったように書店に並びます。 が、多くは消えてしまいます。そういうものだとして、今の出版社は、「売れない本」は、どんどん、つぶして、断裁(だんさい)=壊して、薬で溶かして新聞紙用の再生紙になってゆきます。

一方、classics 「クラシック」 と呼ばれる、「古典」「古典作品」「古典の名著」とよばれる本が、時代の風雪に耐えて生き残って、多くは文庫本になって、ひっそりと大型書店の隅(すみ)に、さがせば探し出せるようになっています。それでも、そういう日本基準の古典的な名著でも、今は、古本屋で探さないとなかなか入手できないものが多いです。

たとえば岩波書店の岩波文庫の、「青帯」(思想、学術) 、「黄色帯」(日本の古代からの古典作品)、「赤帯」(西洋の古典的な作品)などを、今探し出して、それらを 渉猟(しょうりょう、さがしもとめる)ことは、40代までの私がやったことです。もう今の私は、やりません。出来ません。もう、私は、古典的な大作と呼ばれるような本で、まだ自分が読んでいないものを、今さら読めないのです。もう、私には、そういう人生時間は残されていないのです。

私は、明らかに、日本知識人であり、日本読書人階級の人間であります。私が自分で積み上げた読書人生の重みから、私は、たいていの人間の、その「読書量と読書の幅」を、ほぼ一発で見抜くことが出来ます。たいていの人間は、私のような読書人にはかないませんから、私の目の前にいて、そして30分間も話せば、その人の知識の厚みは、すぐに露見して私の判定にかかります。

それは、生来の秀才で、それぞれの分野で、相当な専門人になってゆくような人たちに対しても私は、容赦しません。このことは、私が、全く知らない理科系の知識にもある程度はあてはまります。高校時代に数学や物理が抜群に出来たような人たちは、日本の秀才階級ですが、しかし、こういう人たちには、いわゆる「読書生活」はありません。理科系の人間には、ですから総じて古典教養などみじんもありません。文化的な教養としてピアノやヴァイオリンをそれなりに上手に轢けるような人たちはいます。ただし医師になるようなタイプは、文科系と理科系の中間の人たちがいます。

本当のエリートと、専門職業エリートは、一般書店に行って、そこで自分が読みたい本に出会って、それを家で読みふける、という生き方をしていません。そういうことをしていると、「国家試験を中心とした、競争型の勉強」では、落ちこぼれ、となり、競争に敗れるからです。ですから、文科系と理科系を問わず専門職エリートほど、本を読んでいません。たいした量の本も読まずに、それで、40歳、50歳を迎えるのです。 そして、つまらないエリートのまま60歳を迎えます。あとは、しらけて大学教授用の年金の計算でして、ほとんどただの人として終わります。 彼らには、古典的教養 など、かけらもありません。私は、そのように断言します。(中略)

もう時間が無いので、結論だけ書きます。三澤さん。あんまり、こういうことで、神経をすり減らして悩まないで下さい。ご自分の目の前の読みたい本を、読めばいいのです。 それが一番いいです。

古典的な大作をそれなりに読んでいないと、自分は、大学知識人になれないのではないか、たいした論文は書けないのではないか、という、不安や恐怖は、それは、被害妄想というものです。そういう考えを捨てなさい。「自分は、大秀才でありたい。そうあるべきだ」と思うのは、20台の終わりまでです。人は、みな、それぞれに自分自身の能力を過信し、そして、うぬぼれ、やがて、そのこと自体に、自ら裏切られ、失意し、自分の頭がたいしたことは無かったと、自覚し、そのことをやがて受け入れて、そして死んでゆくのです。

今の私から見れば、丸山真男(まるやままさお)もたいしたことはなかったなあ、となります。
こんな国では、大秀才や大知識人は生まれようがありません。これは、いつもの私の自嘲癖の文ではありません。古典作品など、ほとんどの日本人が、いくら知識人、読書人を気取ってみても、真実のところは、いくらも読んでいないのです。そんな人生時間、生活時間は、どう探しても、見つかるわけが無い。私もそうです。18歳のとき以来、私には、満足な読書時間はもう2度とありませんでした。目先の生活に追われてあっと言う間に、自分の中年時代が終わりました。

ですから、もの書き言論人としての私は、すべてをやっつけ仕事でやってきました。締め切りに追われながら苦しみながら書いてきました。 もういいや、で「えい。や」と、「読んだことにして」、がりがりと、「該当箇所のようなところを、鋭く見抜いて」それで、古典大作の海を、自分なりに苦心して渡ってきました。 どんな人も本当はたいしたことはないのです。

そして、三澤さん。つい最近、私は、私たちのような生来の読書人階級ではない、全くの馬鹿な若者が、吐いた、次の一行に、私は、のけぞった記憶があります。こいつは平然と言ったのです。 「本なんか読む奴ってさあ。 あれは、脳内セックスなんだってな。本を読んで、気持ちがよくなるらしいんだよ」  と、本当にその馬鹿は、言ったのです。

三澤さん。 私たちは、こういう馬鹿たちの海の中で生きている、いまや絶滅種(ぜつめつしゅ)にも等しい少数派の人間なのです。そして、このことは、世界的な傾向でしょう。日本だけのことではありません。 これが、ハイデガーの書いた、
「最後の人間たち」(ラスト・マン)たち、すなわち、本など読まないオタク人間か、自分の利益や、金儲けのことしか考えないユダヤ人のような連中がはびこる時代のまっただなかを私たちは生きているのです。(後略)


(私のコメント)
昨日の日記でも「ホワイトカラーの生産性がなぜ向上しないのか」について書きましたが、確かに大学卒の高学歴者は増えましたが、能力がそれに伴っておらず、年々低下して来ている。大学はすでに定員割れを起こして、経営面から大学進学希望者を集めることが急務であり、ほとんど無試験で入学しトコロテンで卒業してくるから、中学生レベルの学力しかない大卒者が増えている。

大学の質の低下も同じであり、特に大学教授のレベルは酷いもので、論文も満足に書かずに、たまに書いても誰も読まないような学内雑誌に載るだけだ。社会が求めているのは即戦力なのですが、大学はその期待に対して馬耳東風で変化の激しい時代に浮世離れした存在だ。

バブル以前なら会社に入って新たに鍛えなおして戦力にしていましたが、今は企業もその余裕はない。本当に優秀な能力のある学生なら大学など目もくれずに起業しているはずですが、日本には大学を中退して企業家になるようなビル・ゲイツのような人物は本当に少ない。能力が無いからこそ余計に学歴や経歴にこだわり、しがみつくのだ。

私は自営業者ですが銀行が金を貸してくれなくなり、開店休業状態なので、こうして毎日日記を書いているのですが、ネタを探すためにグーグルで探し回って気がつくのは、ネット時代になって利用者は数千万人もいるのに、ブログなどを書く人があまりにも少ないのだ。私などから見ても読み応えのあるサイトは、今までも紹介してきましたが、本当に数は少ない。

アメリカなどでは何万ものブロガーが、テレビのニュースキャスターの誤報を取り上げて血祭りに上げた。プロのテレビ・ジャーナリストへの厳しい洗礼を浴びせるには、プロのジャーナリスト以上の能力が求められますが、アメリカにはそんなブロガーが数万人もいる。ジャーナリストを目指しながらもなれなかった人がブログという手段で、フリーライターとしてプロのジャーナリストに戦いを挑んでいるのだ。日本ではまだそこまでいってはいない。

◆3大ネットワークの看板ニュースキャスター、ブロガーを痛烈批判
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20074989,00.htm

「長いキャリアのなかで犯したたった1つの過ちで、その人間を判断するべきではないと思う」とJennings。「CBSへの攻撃は、すなわち主流のメディアに対する攻撃であり、さらにはいわゆる『リベラルなメディア』への攻撃だと思う。私は、誰かがミスしても本人がそのことを謝れば、それでいいと思う。あとは本人が家に帰ってから、自分の基準を見直すことが大切だ」(Jennings)

 Ratherは、調査の進行中にはこの件について話をしないよう(CBSの)ニュース部門の幹部から言われているとして、この状況に関するコメントを断った。

 これに対して、BoycottCBS.comというウェブサイトを立ち上げたMichael Paranzinoは、間髪おかずにBrowkawの発言に関するコメントをブログに上げた。

 「Tom Brokawはニュースを読むのが仕事だが、果たして彼は内容を理解しているのだろうか。ジハードというのは、傲慢で偏見に満ちたメディアに改革を求める米国人の行動を指す言葉ではない。ジハードとは、暇つぶしに子供を大量虐殺したり、テルアビブのカフェで家族連れを吹き飛ばすイスラム原理主義者の行動に使う言葉だ。Browkawが忘れているといけないので付け加えておくと、世界貿易センタービルや米国防総省の建物にジェット旅客機を体当たりさせるテロリストの行動にもジハードという言葉が当てはまる」

 さらに同氏は「Browkaw氏がどんな暴言を吐こうと、我々がそれで口を閉ざすようなことにはならない」と付け加えている。


(私のコメント)
私なども久米宏や田原総一郎や筑紫哲也といった、テレビの数億円ものギャラをもらっている花形キャスターを相手に論争してきましたが、いかんせん私以下数名では日本のブログ界は寂しい状況だ。彼らのようなプロのジャーナリストに論争を挑むには彼ら以上に勉強しなければならないし、鋭い分析力も必要だ。しかし日本の知的エリートの多くはそこまでの能力はないのだろう。

冒頭に副島隆彦氏のBBSを紹介しましたが、日本のエリート達は本も満足に読まずに、日々の仕事に追われている。実社会に出れば本など読んでいたら競争社会から脱落するからですが、十分な読書時間なんて学生時代しかない。特に古典などは学生時代に読んでおかないと、実社会ではまず読む機会はないだろう。副島隆彦氏のような大学の助教授でもそうなのだ。

私自身も毎日が日曜日状態の人間でも読書時間は限られるし、テレビのニュースすら満足に見る時間がない。だからテレビのニュースキャスターに論争を挑むことなど無理なのですが、アメリカでは数万ものブロガーがサイトを立ち上げて、既成ジャーナリズムに戦いを挑んでいる。そしてCBSのダン・ラザーをクビに追い込んだ。日本ではとても無理だろう。日本の知的エリートの資質が足りないからだ。


日本のブロガーが田原総一郎をクビに出来る日は来るのか?

 次へ  前へ

Ψ空耳の丘Ψ38掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。