★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ38 > 208.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
私たちの住むこの国はいったい何を目指しているのか[斎藤貴男氏]ラブラブパン食い競争
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/208.html
投稿者 なるほど 日時 2004 年 12 月 17 日 14:26:17:dfhdU2/i2Qkk2
 

講演録

2004.9.26

無関心が生み育てた”生きにくい国家”
−私たちの住むこの国はいったい何を目指しているのか−


講師:ジャーナリスト 斎藤貴男氏
主催:NPO法人障害児・者人権ネットワーク
協賛:Change Japan!
文責:障害児・者人権ネットワーク事務局

司会
 本日はNPO法人障害児・者人権ネットワーク主催の斎藤貴男さん講演会と折田みどりさんのオカリナコンサートにお出かけ下さり誠にありがとうございます。私はネットワークで事務局を担当しております小野です。不慣れですが講演会の司会を務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
 それでは、ネットワークの始まりは、いつも矢野伸(まさる)さんのフルートです。毎回リハビリの成果を披露していただいております。本日は折田さんのフルートと佐藤さんのギターとの競演でお願いいたします。

--------------------------------------------------------------------------------
 ありがとうございました。矢野さんはいつもよりずっとリラックスして演奏してくださった様子が印象的でした。
 さて続きまして、私たちNPO法人障害児・者人権ネットワークの理事長をつとめさせていただいております粟谷弘海よりご挨拶させていただきます。

粟谷
 こんにちは。NPO法人障害児・者人権ネットワークになりましてから代表を務めさせていただいております粟谷です。よろしくお願いいたします。
 このネットワークは発足して10年になります。この会は当事者、障害者、障害児はもちろんですが、家族であるとか、弁護士、福祉関係者、もっと広く市民の方々にご参加いただき、障害者の人権について考え、人権侵害されている場合は守っていこうということで、これまで取り組んできました。
 今回の斎藤貴男先生の講演会は直接障害に絞ったことではなく、もう少し幅を持たせていただいております。どうしてかというと、自分たちが住んでいるこの日本がどんどん住みにくくなっている、又は、働きにくくなってきている。これからお話いただく斎藤先生の「無関心」ということが日本を変えてしまったというおもしろい切り口でお話いただきます。いつもは障害に限定することが多いのですが、それだけでなく、幅広い観点から社会を捕らえようということで今回の企画となりました。この講演会が私だけでなく、皆様にとって実り多いものになればと思っております。1時間半のお話を聞かれた皆様が、地元に戻られてほかの方にもお話いただければと思います。本日は5時までを予定しておりますので、お時間の許すかぎりお付き合いいただければ幸いです。

司会
 それでは本日の予定をお知らせいたします。斎藤さんのご講演は1時30分から3時まで、その後30分間質疑・応答の時間を取らせていただきまして3時45分からはオカリナの演奏会、4時15分からはフリートークの時間とさせていただきます。
 それでは斎藤さんのご紹介をさせていただきます。その前に斎藤さんをお招きしたいと思います。どうぞ拍手でお迎えください。
 斎藤貴男さんは1958年生まれです。早稲田大学商学部を卒業の後、イギリスのバーミンガム大学の修士課程を出られました。新聞記者、雑誌記者を経て,現在はフリーのジャーナリストとしてご活躍されていらっしゃいます。ご著書は多数ございまして、その一部を本日ご用意させていただいておりますので、皆様どうぞご利用ください。
 斎藤さんは最近では「怒れるジャーナリスト」と評されることが多いとのことですが、端緒は、北海道北見営林署の二人の署員が何者かに殺害された事件で、容疑者とされた梅田義光さんが取調べの際、拷問に耐えかねて自白させられてしまう。その再審事件がきっかけだそうです。その他にも関東ではあまり報道されなかったようですが、大阪のスーパーを経営している方の奥さんがお客様が拾ったお金を警察に届けるのですが、受付の警察官がそれを使い込んでしまうわけです。使い込みを隠すために届けてくれたスーパーの女性を逆に犯人に仕立てようとするわけです。そのあたりから権力というものの不合理な傲慢さを「許せない」という怒りが涌き、その後の取材にもつながっているとのことです。
 私たち障害児・者人権ネットワークでは差別のない社会を、ということで今まで活動してまいりましたが、差別や言論統制を助長するような法律が生まれたり、法律が改正されたりと、そうでなくとも労働の場や生活全般の中でかなり大変な思いで日々過ごしている障害を持った方がますます暮らしにくくなっています。障害をもった方にとって暮らしにくい世の中というのは、障害を持たない方にとっても同様に生きにくい国です。今回は視野をぐっと広げて、斎藤さんにお話をお伺いすることにいたしました。斎藤さんのご著書の中の一節をご紹介いたします。
 「他人の批判を書くときにはそのための取材に最大限の努力を払い、誰からも後ろ指をさされることのない一人前のジャーナリストたらんことを心がけてきた」
 それでは斎藤さんのお話をお願い致します。

斎藤貴男さん
ジャーナリストになったきっかけ
 どうも皆さん、こんにちは。フリーライターの斎藤貴男といいます。今簡単にご紹介していただいたのですが、もともと私はそんなに深い考えがあってもの書きになったわけではありません。学校を出た頃は、ただなんとなく「カッコよさそうだな」という理由だけで最初新聞社に勤めました。今思うと自分でもちょっと信じられませんが、産経新聞だったんですね。というか、そこしか入れてくれなくてですね、毎日とか日経は受けたのですが全部落ちまして、産経新聞だけにひっかかったのですが、産経新聞本紙では使ってくれず、日本工業新聞という系列の産業専門誌に配属されたのがこの仕事にはいる最初のきっかけでした。2〜3年ほどやりまして週刊誌の記者や月刊誌の編集部を経て、十何年か前からフリーになっているわけですが、人生観が変わったのは、週刊誌記者時代のいくつかの経験です。
梅田事件
 今ご紹介してくださった最初の話というのは梅田事件といいまして、終戦後すぐ北海道で起きた事件だったんですね。一種の冤罪事件だったのですが、その再審請求がありまして、結局無罪だという判決が出たときに、最初にこの人が殺人犯で、無期懲役だという判決を出したときの裁判官や取り調べをした警察官は一体今どういう風に考えているんだということを取材に行ったのです。これは週間文春の仕事で、今の文春からは考えられないリベラルなプランだったんですね。最初記者としては面倒な仕事を押しつけられたな、という印象でした。そもそもそんな人たちが今どうしているかわからないし、もし見つけても「俺は今でもやつが犯人だと思っている」と言われるか、逃げられるか、どちらかしかないのではないか、と。それでは記事にならないなと。その程度にしか思っていなかったんですね。そうしましたら、地元に行きますと梅田さんの支援グループというのがありまして、しっかり当時の警察官や裁判官がどうしているか辿っておいてくれました。そして、そういう人たちの家に行ってみますと、本当に驚くんですね。例えば元警察官、彼を取り調べて拷問して自供させた警察官などは、「そもそも物的証拠が集まるくらいなら苦労はない。そんな事ができる能力があったら俺は今ごろ警視総監になっている。ただ、上があいつを犯人にしろと言ったから犯人にしただけだ」とか、あるいは、当時の刑事課長さん、つまり、当時取り調べで最も責任があったはずの人などはこう言っていました。「あなたは何も知らないんだな。責任は刑事課長という職にあるのであって、俺にあるのではない。個人は関係ないんだ。」というお返事でした。それから無期懲役の判断を下した裁判官は何と言っていたかというと、時代状況があんな風ですから、いろいろな不備は認めるんですね。「十分な捜査はできていない。自分も民事の裁判官なのにこの件については人手がないので仕方なく刑事裁判をやったんだ。しかし我々は十分努力した。国家の代理人としての我々が無期懲役だと言ったのだから本当にどうだったかは関係ない。本当はどうあれ、国家が無期だと言えば無期にすればいいんだ。」という風に言っていました。このあたりからだいぶ記者としての取り組みが変わっていきます。
 その後、予防接種の副作用の問題−インフルエンザとかの接種をして障害が残ってしまう子や亡くなってしまう子が沢山いるのですが−で、そういう子ども達に対して国が全く責任を感じない。全く悪いと認めない。そんな事件を取材していくうちに、今の私ができあがったというそんなことなのです。
今、気がかりなこと−北オセチア共和国学校占拠事件
 そんなことで今私がすごく気に掛けていることがあります。それは先日ロシアの北オセチア共和国で起きました学校占拠事件です。確かに日本でも大きく取り上げられはしましたが、多くの方はあまり自分達には関係ない、海の向こうの遠い世界の出来事という風に思っていらっしゃるのではないでしょうか。しかしそれは違うのではないかと感じたんですね。というのは、事件が起きてまだ解決の糸口がない頃、ブッシュ大統領が、ロシアのプーチン大統領に全面的な支援を約束しました。となると小泉さんは何も強いことは言っていませんでしたが、支援するなら当然日本も、というのが残念ながら今のこの国の状況です。で、何が残念なのか。対テロで結束するのは当たり前ではないかと言いたいところなのですが、北オセチアの話は単純に正義と悪という風に分けられる話ではないわけです。チェチェン共和国の独立派の反抗だと言われているわけですが、だとしたら、相当根深いんですね。
 チェチェンという国はちょうど黒海とカスピ海の中間にあり、いわゆる北コーカサス地方にある日本の岩手県ほどの大きさの国です。人口100万人もいない小さなところですが、ここがソ連崩壊後、独立の機運が高まるわけです。ところがその周辺、アルメニアとかアゼルバイジャンとかグルジアという国々が独立している中で、ましてやそこは石油が採れるところなんですね。中東に抜ける地域でもあるわけです。そういうところにこれ以上独立されてはたまらない、ということでロシア軍が攻めていきます。制圧していくわけですが、そこで行われることはわれわれ日本人の想像を絶しているわけです。滅多やたらと爆撃をする。チェチェンの人が居れば片っ端から捕まえる。そしてその家族に対して金を要求するそうです。「生きて返してほしかったら金をよこせ。金が工面できなかったら殺してしまう。」そして、信心深い人たちなのだそうですがそれを逆手にとって、殺してしまった後の死体を引き渡して欲しかったら、これもまた金を持って来い、というわけです。この場合の要求額は生きているときよりも高いそうです。そういう暴虐の限りをこの10年間くらいの間ロシア軍がチェチェンに対してやり尽くしているんですね。ですから独立派としてもロシア軍に対する報復という意味合いが非常に強い。ですから、ああいったテロが許されることでないのは当然なのですが、もしもそれを止めさせたかったら、武力で鎮圧してもまた新しいテロが誘発されるだけです。もしも、本当に止めさせたかったら、そもそものその占領を、せめて前向きな形での話し合いで解決の方向にもっていかなくてはなりません。こういった背景があるわけです。だけどそういう背景を一切抜きにして、ただ単にテロはけしからん。だからロシアとアメリカは組んで対テロだ、と。こうなってきますと、イラクやアフガニスタンでアメリカがやってきたこととこれまた同じことが繰り返される。そして日本はとりあえず関係もないのにまたこれに協力していくようなことがあれば、言ってみれば先進国のネットワーク対テロやゲリラたちのネットワークというのが対立の構造になっていって、もしかしたら本来日本はそんなことに関係ないのに、口を出してきた憎い敵としてテロリストたちがいずれ日本に上陸して北オセチアと同じような事態を引き起こすこともあるのではないか。こんな風に今考えているわけです。あまり言いすぎると被害妄想の気があるのではないかと思われそうですが、それ位、今の日本は、世界は、危険な状態になっている、というのが私の認識です。
今の日本を「危険」と思わせるできごと
 そういうやや大仰なことを言うのにはそれなりの背景があります。それはやはりここ数年の私の取材経験が言わせています。もともと産経出身だといいましたが、その後の週刊誌の時代も週刊文春にいたものですから、私たちの世界では、私はもともと主張するほうではない、ノンポリ系文春ライターといわれていたんですね。ただ単に企業で活躍している人がいればその人を紹介するとかという程度のことしかしておりませんでした。しかし、90年代の後半あたりから、もともと経済ライターですから、規制緩和だとか構造改革といわれる分野を取材しているうちに今の立場になってくるわけです。戦争と平和の問題も含めて声高に主張していかなければならないなと改めて思わされてしまったんですね。
 とりあえず、どんな取材をしてきたかをお話しする前に、今年に入って起きた、しかし、一般のマスコミには余り出てこなかったいくつかのエピソードからお話ししていきたいと思います。今年に入って1月、2月にかけてイラクに自衛隊が派遣されていくわけですが、その過程でかなりの色んなことが起こっています。
自衛隊出陣式での問題発言
 2月16日だったと思いますが、横須賀の海上自衛隊の基地から護衛艦「むらさめ」というのが出ていきました。その前々日に広島の呉の港からから輸送艦「おおすみ」というのが出ています。この二つが合流してペルシャ湾に向かっていったわけですが、この「むらさめ」が出ていくときに横須賀基地で実はすさまじい発言がありました。こういう場合出陣式をするわけですね。自衛隊の人たちと家族、報道陣、これらの人達だけが集まって式典があったわけです。一般の人はそこには入ることはできないわけです。防衛庁関係の三人の政治家が挨拶するんですね。一人が浜田靖一原防衛庁副長官、浜田幸一のせがれです。それから中谷元元防衛庁長官、それから玉澤徳一郎元防衛庁長官が挨拶したんです。浜田、中谷両氏は例によって武士道の国云々という言葉をはきました。これは、武士道とは死ぬことと見つけたり、ですから、大変なことではあるのですが、今までも色んな人が似たようなことを言ってきているので、ここでは省略します。問題は玉澤元長官の発言です。彼は居並ぶ自衛官や家族に向かってこう言ったんですね。「本日天気晴朗なれど波高し。皇国の興廃この一戦にあり。」この言葉はご存じと思いますが、100年前の日露戦争でバルチック艦隊を迎え打った東郷平八郎元帥が日本海開戦において大本営に打電した言葉です。皇国の興廃、つまり天皇の国が滅びるも栄えるも、この一戦にある、と。これを100年後の今、元防衛庁長官までやった政治家が自衛官達に向かって発言した。そして何故か、この発言は翌日の新聞にはごく一部の例外を除いて一切報じられませんでした。一部の例外というのは毎日新聞の神奈川県版だったわけです。それも玉澤の名前は伏せられて、元防衛庁長官がこう挨拶する一幕もありましたと、たった一、二行で済まされていたわけです。私は、たまたまこの時に、今年は日露戦争100年にあたるわけで、メディアがどう報道しているかをネットで調べているときにこれを見つけ、こんな話知らないなと思って全ての新聞に目を通してみた。そしたら他には載っていない。そして、この元長官とは誰だということで横須賀方面の関係者にいろいろ電話を架けて調べ上げ、最終的には自衛隊にも確認したというのがこの経緯です。この事実からいくつかのことが分かります。1つは、かねてより小泉首相はイラクに自衛隊は戦争しに行くのではない、復興支援に行くんだと言っていたわけですが、彼らのインナーサークルではこれははっきり戦争だと認識していること。しかも、にもかかわらず、その覚悟というか認識たるや、なりきり東郷平八郎ごっこという極めて子供じみた発言であること、そしてそういう問題発言を報道すべきジャーナリズムがほとんどそれをしない。そこには毎日新聞以外の記者さんたちもたくさんいたんですね。もはや単にだらしないというレベルではなくて、積極的に戦争協力を始めてしまっているという現実です。こういう現実がすでに2月の時点でありました。
教育基本法に関する問題発言
 その10日後、国会のある永田町で、教育基本法改正促進委員会という超党派の議員連盟が発足しました。これは教育基本法を改正したいと主張する自民党と民主党の議員さんたちの集まりですが、ここで西村愼悟という国会議員がやはりこういう発言をしたんです。「なぜ教育基本法を変えるか。それは、お国のために命を投げ出す人間を創りあげるためだ」と。しかし、超党派の議連の人たちはその言葉によって何ももめることはなかった。つまり多くの参加議員がこの西村議員の発言を否定しなかったということです。教育基本法改正にはそういうねらいがあるとかねがね言われてはいましたが、その当事者がはっきり発言をした、そして、この発言も翌日の朝日新聞以外には報道されなかったということです。その朝日もまた、朝刊第4面の端の方にほんの20数行だけ、ごくごく小さい扱いで載せた、ということです。本来この西村というのは、数年前には防衛政務次官に就任し、核武装発言というのをやらかして辞任に追い込まれた人間です。そして又、昨年日教組だとか朝鮮総連の関連施設に銃弾が撃ち込まれた事件が続いたんですが、これの犯行によって逮捕された刀剣友の会という愛好家団体の最高顧問がこの西村という人だったわけです。直接テロを指導したとは言いきれませんが、これだけのことをやらかした右翼団体のボスであったという事実を並べ立てていけば、仮に私が新聞の編集長であったら朝刊トップと社会面などで書き分けていくような、重大事件だったと考えます。しかし、それもしなかったわけですね。
憲法のあり方を変えるための憲法改正−国民の生き方を規定する−
 こういう発言のたぐいがいくつかありまして、今年の6月になりますと、自民党と民主党が憲法改正に向けた論点整理、あるいは中間報告というものを発表しました。9条の問題がクローズアップされて、それはそれで重大ですけれども、私はどうしてもここでみなさんに知っておいていただきたいことがあります。いずれも、自民、民主、それぞれ表現の仕方は違うのですが、憲法というものの有り方を根本から変えてしまおうといっているんですね。たとえば自民党の方はこんなことを書いています。憲法というのは今まで国家権力の規範として捉えられてきた。しかしこれからはそれだけではなく、国民のルールとして捉えてもらうようにしたいと言っています。民主党は民主党で同じような趣旨を述べながら、新しいタイプの憲法にするんだと言っているわけです。しかし、これは憲法学の初歩の初歩というか、原理原則なんですが、私は後に憲法の学者さんたち何人もに会って確かめたのですが、これはそもそもまったく憲法というものを根底から変えようとしているんだということです。つまり自民党が言うようにこれまでは憲法は国家権力を縛るためという原則が言われてきたのですが、これはたまたま言われてきたのではなくて、憲法というものはもともとそうなんですね。人間社会というのはまるっきり野放しであれば秩序は保てない、それを保つためには国家の存在と言うのはやむを得ないと多くの者は考えるわけです。しかしこの秩序を司る国家というものはそれだけの権力がありますから放っておけばどれだけ暴走するかわからない。そこで、憲法で暴走を防ぐんだと、これが市民革命を経た以降の近代世界の常識というふうに捉えられてきたわけです。日本の場合は、かつての大日本帝国憲法はそういう建前ではあったのですが、同時に欽定憲法であり、天皇が国民に下げ渡すという意味がありましたので、それは全然果たされなかった。そこで日本国憲法で、これはアメリカの押し付けかもしれませんが、そういう近代憲法になったんだと。それでも十分ではなかったというのが従来の考え方だったのですが、ここで自民党も民主党も、この立憲主義そのものをぶち壊そうとしている。つまり国家を縛るための憲法であったものが、国民の生き方を規定するものという風に位置付けられてきたということなんですね。これは大変なことだという風に思います。ではどのようにしてそのような考え方が打ち出されたか、自民党のホームページを見てみました。そうしますと自民党の中にも衆議院・参議院両方に憲法調査会がありますが、自民党の中にも憲法調査会があります。そこでの議論の経緯が十分ではないのですが、ホームページを見ると解ります。そこでですね、3月頃に国民の権利と義務というのをテーマに議論がされたときにどんな意見がでたかが紹介されているんですね。そこに決定的な言葉が見つかりました。これは宮城県選出の伊藤信太郎議員が述べていた言葉で、こんな風な発言があったそうです。「今の日本国民は自由を得たいのではなく、自由から逃げたがっている。したがって新しい憲法ではわが国の国民はこれこれこういう風に考えたら幸せになれるんだということを示してやる必要がある。そしてそれが大多数のマジョリティーが考えている願望だ」とこんな趣旨のことが述べられているわけです。つまり今の日本にいる人間は自由が欲しいのではなく、今ある自由をむしろもてあましてしまって、もっと統制して欲しいと考えている。だから国として、このように生きなさいという模範的なあり方を示してやろうと、こう言っているわけです。ここまで極端な言い方をする人はあまりいませんが、事実、自民党や民主党は論点整理や中間報告にはそのように人間の生き方を示すための憲法だ、とこういうことが書かれてしまっているということです。そうなりますといろんな局面、場合、場合、時代に応じて西村議員が言うように国のために命を投げ出す人間が欲しいと思えばそのような方向にもっていく、よい悪いを別にすれば自然な成り行きかなと思います。ちなみにこの伊藤議員なんですが、すばらしいキャリアをお持ちなんですね。慶応大学大学院を卒業してアメリカに渡ります。映画がお好きなようで、アメリカの映画の学校のマスターをとります。それからハーバード大学の大学院も卒業します。そして日本に帰ってきてからは防衛庁長官の政策秘書になり、その後東北学院大学の教授職などを歴任されてから衆議院議長の秘書もやり、数年前に華々しく政界にデビューした。自分の力で成し遂げたのであればすごいなと思うしかないのですが、ちょっと違うんですね。なぜならば、この人が防衛庁長官の秘書になったときの防衛庁長官はお父さんだったんですね。衆議院議長の秘書になったときの衆議院議長もお父さんだったわけですね。つまり50いくつにもなる人が、すべてを親の七光りで生きてきた。親の七光りで大学に行き,親の七光りでアメリカの大学院を出、親の七光りで就職し、親の七光りで政治家になった。こういう人が自分の力で生きている人間に向かって、「おまえたちの行き方を俺が定めてやる」と言っているのが現実です。そしてこの伊藤議員一人をせめるつもりは私にはありませんが、今のこの国の権力を握っている人のほとんどが親の七光りでその地位を得た人であるわけです。だれでしたっけ、防災大臣がつい数日前福井県から自衛隊機で帰ってきてけしからんという記事がここ一、二日の新聞に載っていましたが、言ってみれば権力を私(わたくし)している人たちばかりなのが今の日本社会だということが言えるかなと思います。
衛生プチ帝国
 前置きめいた話が長くなってしまいましたが、ただ単に伊藤議員なり西村議員なり、玉澤元防衛庁長官なりの個人的なミステイクだとみなすわけにいかない。もしもそういうことならば非常にハッピーなことなのですが、そうではない。今この国が向かっていこうとしている方向を象徴しているわけで、むしろ全体状況としてはおそろしいことになっているのではないか、というのが私の受け止め方です。
 今日本がどういう方向を目指しているか、ここ数年の私の取材から言うことができるのは、こういうことです。戦争と差別と監視が日常化する国になるのではないか、と。私の表現ですと、衛星プチ帝国といっているんですね。衛星というのは衛星国の衛星、アメリカの衛星国ということです。プチというのはフランス語で小さい、アメリカの衛星国ではあるんだけれど、経済大国ではあるので、それに見合った帝国でもありたい、というとこういう姿ではないか。例の国連安全保障理事会に入りたいと言っている小泉さんの姿がまさにその通りだというふうに私は思います。安保理に入って何をするのか、独自の主張があるわけでもない、ただ、アメリカの票が二つになるだけだという風に世界で受け止められているそうですが、その通りではないでしょうか。これは漫画家の石坂啓さんに言わせると、もっと気の利いた表現をしてくれます。漫画家ですから、ドラえもんに例えるわけですね。アメリカはジャイアン、日本はすねお君だと。どこまでも乱暴なジャイアン、決して悪いやつではないんだけれど、小ざかしくて小金持ちのすねお。ジャイアンは時々いいこともし、頼もしく感じることもあるけれど、その周りをうろちょろしているだけのすねおはみんなに馬鹿にされている。ですが、漫画だからそれでいいのですが、現実のアメリカの乱暴というのは拳骨でただぶん殴るだけではないんですね。武器を使って片っ端から殺して回るわけです。それにくっついていって日本ももはや軍隊を出してしまった。で、近い将来アメリカと同じことをすることになったとすると、すねおのように馬鹿にされるだけでは済まなくて、世界中の軽蔑と憎悪を浴びることになるのではないか、というふうに私は思います。それではなぜ衛星プチ帝国のようなものになりたいのか?となると、これはいろいろあるのでしょうが、何よりも大きいのは、実際に政権についている、権力の座にある人々が政界に対してより大きな力を持ちたいという、経済的に見返りもあるのでしょう、野望が何よりも大きいのだと思います。それだけではなくて、国としてそうありたくなるという構造もあるわけです。それの大きな理由は、やはりグローバリゼーションであろうかと思います。グローバリゼーションというのは色んな捉え方があるのですが、ここでいうのは経済のグローバリゼーションということです。つまり昔に比べて今は日本の企業のほとんどがアジアだとか中国に進出しているわけです。どういう進出の仕方かというと、つまり製造拠点を持っていっているわけです。昔の経済成長の時の国際化というのは、そういう大掛かりなものではなくて、海外の原材料を輸入してきて、日本国内で製品にして輸出するというものでした。バブル経済の頃、80年代頃までの流れだと貿易摩擦が起こるので、これまで一番物を輸出してきた国に工場をもっていく。そしてそこの労働者を雇って現地の部品を使って、たとえば車を作る。そして地元に売っていくという、つまり消費地立地という考え方だったわけです。90年以降進んできたのは今申し上げたように安い労働力を求めて世界に進出していく、たとえば東南アジア、中国、台湾など日本国内より遥かに人件費が安いわけですね。ですが、人件費が安くてもいい品質の物ができなければまずいわけですが、今の時代はどこで作ってもあまり品質の変わらないものができる。だったら人件費の安いところで作ろうという考えが90年代に加速しました。そうなるとどうなるかと言いますと、国内は空洞化してしまいます。つまり、今まであった工場が閉鎖してしまうわけですから、特に地方の高校を出たばかりの若者が働く場というのが全然ありません。みんな中国に取られてしまったわけです。それだけではなく、雇用情勢はかつてなく厳しいわけです。今までの何十分の一という安い人件費で物が作れる。では企業そのものはどうかと言うと、大儲けできているわけですね。日本経済新聞をチェックしていくと解るわけですが、今日本の企業はかつてないほどの史上最高の利益構造を築くに至ったということです。国内の労働者はホワイトカラーも含めてアップアップしているわけですが、経営者、株主、そして将来の経営者になるエリート層はこれはもう大儲けでウハウハしているという状況が現れてきています。その笑いが止まらない経営者たちにも泣き所はあります。労働力が安い国というのはその分政情が不安定、つまり危険だったりするわけですね。いつクーデターが起きてしまうかも、革命が起きてしまうかもわからないわけです。そうなったときにその工場が新しい革命政権に取られてしまうかもわからない。つねにそういうリスクを背負うことになります。儲かっているんだけどいつもちょっと危ない状態ですね。これをカントリーリスクとか、ポリティカルリスクとか言うのですが、これが怖いわけです。怖いのだけれどその分大儲けできるかも知れない。リスクとチャンスを天秤にかけて判断するのが経営者の仕事であるわけですね。もしも失敗したらそのリスクは自分で背負うのが資本主義社会の本来のルールであるわけです。ところが、これだけ沢山の企業が同じような状況になってくると、変わってきます。今経済界の人たちはこういう風に考えるわけです。我々は何も金儲けのためだけに海外に進出しているのではない。日本経済のためにやっているんだ。従って我々が背負わなければならないリスクというものを我々だけに背負わせるな、日本全体としても背負ってもらいたい。そのために何かあったときに自衛隊に来てもらいたい。実例があります。70年代後半にIJPCというプロジェクトが破綻します。イラン日本ペトロケミカルズ(イラン日本石油化学)の略でして、イランと日本の三井物産を中心とする三井グループが50対50の合弁で進めた事業です。イランのバンダルシャプールという町に世界最大級の石油化学工場を作るという計画で60年代から進められ、70年代後半には8割方工事が完了していました。そのとき費やされた費用がざっと6000億円かけてつくられたわけです。ところが8割方できたところでホメイニ革命が起こります。パーレビ国王が失脚し、ホメイニさんが政権を握るわけです。このとき三井グループはIJPCが国営化されてしまうことを恐れました。国有化されたら今まで費やした6000億がパーになってしまうわけです。しかし、ホメイニ新政権はこれを国有化せずに、今までどおり日本とつきあうことで自らの利益にもしようとこういうふうに考えた。三井グループは喜んで工事を再開するのですが、今度は9分9厘工事が仕上がったときにイラン・イラク戦争が起こるわけです。そしてイラクとの国境にあったこのバンダルシャプールはイラク軍の攻撃を受けてお釈迦になってしまったわけです。これ以上の工事の続行は損失を拡大するだけだと考えた三井グループは、1300億円の違約金を払って合弁事業を解消した、という日本戦後経済史に残る事件があったわけですね。IJPCの教訓というのが経済界で叫ばれているわけです。つまり、IJPCを忘れるなというわけです。何故、そういうことになるかと言うと、あのとき自衛隊が海外に出ることができていたらどうだったかという風に考えているようです。ホメイニ革命が起こりそうだとわかった時点で自衛隊がペルシャ湾に出ていく、そして、パーレビ政権におまえの国で革命が起こりそうだよ、とそんなことにならないように鎮圧しろ、と。もし出来なかったら我々自衛隊が黙っていないぞ、とこうやるわけですね。まあ、でも起こってしまった。起こってしまったら今度はホメイニ新政権に対して自衛隊が脅しに行く。IJPCという日本の資産がある、もしこれを革命政権が自分達のものにするようなことがあれば自衛隊が黙っていないぞ、と脅す。そして今度はイラン・イラク戦争になる。今度はイラク側に自衛隊が出ていく。そしてイランの側にある日本の施設を攻撃したら我々がイラク軍をたたくぞ、と。つまり武力でもって相手に威しをかけて日本の企業の資産を守るという行動原理を当時もとることができたら三井グループもあれほどの損失を被らなくてもよかったのではないか。そして、今、あらゆる企業が似たような状況に直面している中で、自衛隊が外に出られたら、今度はカントリーリスクをヘッジすることができるだろう。こういう風に企業の経営者さんたちは考えているわけです。軍事力でもって企業の権益を守るというと私たちは驚いてしまうわけですが、何のことはない。戦前の日本もそうでしたし、戦後もずっとそうやって経済発展してきたわけです。つまり、企業の経済活動と外交と軍事力三位一体化した軍産複合化、アメリカはずっとこれをしてきたわけですが、日本は憲法9条があったのでそれはできない。いわばODAの外交努力、外交と企業活動でもって国力を増強してきたわけですが、それに軍事力を加えたいという欲望が抗いがたくこの国の中枢にあるということだというふうに考えています。ですから、数日前も首相の私的諮問機関、安全保障と防衛力に関する懇談会というところが会合をもちまして、これからは専守防衛ではなくて、海外に展開する事が自衛隊の本分である、と。こういうふうな考え方に転換したいということを打ち出してきました。東京電力の荒木浩さんという元社長が座長を務めているんですが、主にこの懇談会というのは企業の、財界の人たちで構成している組織です。その財界の意向として、自衛隊はどんどん海外に行くべきである。従来の専守防衛ではいけないという風な考え方を打ち出したその背景に、このポリティカルリスクを軍事力でヘッジしたいという考えがあるわけですね。ですから今の憲法改正の流れの説明をするときに放っておけば北朝鮮がミサイルを撃ってくるから、それに対して自衛隊が戦わなくてはいけないとか、アメリカに助けてもらうためにはいつもアメリカの言う事を聞いていなくてはいけないとか言う言いかがなされますが、それらの言いかたのすべてがうそとは言いませんが、対北朝鮮という文脈よりは、世界に広がる日本企業のリスクを軍事力によってカバーする方が遥かに重要だと考えられているということを理解していただければと思います。
もっと差別を助長する国になる?
 もうひとつ、先ほど私は、戦争と差別と監視の国になるといいました。では今までは戦争も差別も監視もない平和で平等な世界だったかというとそんなことはなかったわけです。理不尽な差別もたくさんありましたし、ベトナム戦争や朝鮮戦争のときはしっかり国として協力していたわけです。しかし、多くの人がそのままではいけないと感じていたのも事実だと私は信じたいと思います。なかなか遅々として進まなかったけれども、しかしそれでも改善のための努力はそれなりにあり、やはり平和と平等がいいよねと話をすれば分かり合える程度の空気はあった。どうやってそれをもっと真っ当な、より進んだものにするかという段階になった時期もあったと思います。しかし、今は、そうではない。今お話したように戦争は経済力の拡大のためには望ましいんだと言う考え方がひとつあります。差別ももっとやるべし、という空気も蔓延していると思うんですね。それはただの印象論でもありません。小泉さんがもたらす構造改革の必然ではないかというふうに思います。従来の自民党の土建屋政治が横行していましたので、構造改革というと何か新しいことが始まると手放しで歓迎してしまった節があります。実際に行われている構造改革がどういう風に進められているかということを一つ一つ検証していくと、多くの人にとってよいことではなかったのではないか、と考えられるわけです。例えば社会保障改革、税制改革、労働市場改革、教育改革、司法制度改革、何とか改革と言われるメニューはたくさんあるんですが、いくつかとりあげてみますと、たとえば社会保障改革、これは高齢者福祉だとか、障害者福祉だとか、福祉の分野がどんどん切り捨てられている現状があります。高齢者福祉でも従来税金でやってくれていたものがいつのまにか介護保険料というのを強制的に徴収される。じゃあ、65歳以上になったら、高齢者になったらみんなが福祉を受けられるかというとそうではない。介護認定と言うのを受けて、よほど悪い人だけが受けられるのであって、ある程度元気な人はそれまでかけていたものを掛け捨てにさせられてしまう。そこで、多くのお金に余裕がある人は民間生命保険会社の介護保険というのにも入って安心を買う。こういうことが起こっています。つまり余裕のある人にとっては必ずしも悪くないけれども、余裕のない人にはますます老後が不安になってしまう。そんなだけではなく、余分にお金もとられてしまうという状態になっているわけです。それから税制改革、新聞だけ見てもやたら専門的に書いてあって解りにくいのですが、答えははっきりしています。今政府なり経済界なり、世の中を動かしている人たちが考えている方向ははっきり一つなんですね。それは法人税の大幅な減税、所得税における累進税率の大幅な緩和、課税最低限の引き下げ、消費税率の大幅アップ。つまり、企業やお金持ちからはできるだけお金をとらない、その代わり足りなくなる分は貧乏人から巻き上げるという、これ以上でも以下でもない構想が考えられていて、ただ、あからさまに言ってしまってはみんなが反発するので、適当な難しい言葉を使って煙にまいているという状況に他なりません。それから雇用改革とか労働市場改革とよばれているもの、これは先ほどの空洞化の問題と密接に関係があります。そうやってどんどん仕事が外に奪われてしまっているので、国内の仕事はどんどん減っているわけですね。それによって人件費が相当削減されました。それでは国内に残った仕事をやれる人は幸せか、というとそう単純ではありません。日本経済団体連合、つまり日経連が95年にこういう提言をしています。新しい時代の日本的経営、日本的経営というのは終身雇用制や年功序列を中心として、つまり、言ってみれば、どこかの会社にお勤めしたら、エリートも末端の労働者もだいたい一生面倒見てもらえる。その代わり、その会社に対して忠誠心をもやして一所懸命仕事をする。これはこれで別の問題があったのですが、安定の見返りとしての会社人間という流れで戦後ずっときたわけです。80年代まではこれが日本経済の強みだといってJapan as No.1 などと自慢していたわけです。ところがこの日経連報告では、この日本的経営を根底から変えましょうという提言がなされました。つまり、高度成長やバブル経済を通して、人件費が世界一の水準になった。そこでそのままやっていたのでは人件費の分が製品コストにかかり、国際競争力がなくなるので、まずリストラをしましょう。そして海外に生産拠点を移しましょう。という提言を機に、国内に残った仕事も大きく3つのカテゴリーに分けなさいというわけです。同じような勤労者であっても今までのように皆が正社員で終身雇用などというのは止めてしまえというわけです。

 長期能力蓄積型従業員
 高度専門能力活用型従業員
 雇用柔軟型従業員

 上からまず、長期能力蓄積型の従業員というカテゴリーをつくります。これは言ってみれば超エリートなわけです。大学院卒のような人を雇って、きちんと研修をして、ジョブローテーションを組んで、将来の幹部になってもらう人たち。この人たちは非常に手厚く扱いなさい。社会保障もやり、基本的に終身雇用で、給料もたっぷり払いなさいというわけです。この人たちは何も問題ないわけです。次に高度専門能力活用型の従業員というカテゴリーを設けなさいというわけです。これは例えば営業、経理、法務など、会社の仕事に必要なさまざまな専門的な能力、これらを持った人たちを必ずしも終身雇用ではないけれどある程度の見返りをもって雇うと。契約社員のようだが、給与もそれほど悪くない。これも大変ですがそれほどひどいものではない。問題は3番目、雇用柔軟型従業員、これは文字通り、柔軟で、会社が雇いたいときに雇い、いらなくなったらいつでも首にしていい。文句も言ってはならない。裁判に訴えても労働者側は勝てない、とこういうあり方を日経連は提案しました。発表当時この話はそんなに騒がれなかったのですが、それは多くのマスコミや研究者がこの雇用柔軟型に位置づけられるのはせいぜい、工場労働者か一般職のOLくらいではないか、と考えたためだと思われます。しかし、実際に私がいろんな経営者に会って話を聞きますと、それどころではなくて、だいたい世の中の労働人口の8割くらいをこの雇用柔軟型に位置づけたいと考えているという感触を受けました。つまりよほどのエリートか特殊な能力を持っている人意外は普通のサラリーマンはホワイトカラーだろうがなんだろうが、雇用柔軟型だというわけです。事実すでに大学を出た若い人たちでも新卒派遣などという形で正社員にはしてもらえない、派遣労働者でしか道がない。それでも何でもとにかく仕事があればそれでいい、という状況になってきました。こうやってですね、同じ会社で働いていても、働き方が違うというのが当たり前になってくるとどうなってくるかというと、ただ単に年収が悪くなるとか、待遇が悪いだけでは済まなくなることがあります。それが問題なんです。
 90年代終わりにこんなことがありました。住友不動産とういう大手の不動産会社で、かなり大変なスキャンダルがあったんです。といっても一部マスコミ以外には取り上げられなかったので、あまり一般には知られていませんが、こういうものです。夜のセクハラ大運動会。その年、お酒を飲むだけではつまらないというので、運動会スタイルの忘年会にしようと思ったわけですね。ですが、実際にお酒を飲んで走ったりしたら死んでしまうので、そこはお遊びです。そこで行われたのがこういうものです。ホールに部長代理級以上の130人の男性社員、それから18人の若いOLが集まった。そこでこんな出し物が行われたわけです。男性と女性が密着して、肩を抱き合い、ひとつのアンパンを両側から食べていくわけです。そして、一番早く食べ終わったところが勝つという、ラブラブパン食い競争。それから、男女が互い違いに縦に並び、前の人の腹部を抱きかかえて中腰になって歩いていく恐怖のムカデ競争。それから、椅子を並べて、男性と女性が互い違いに並んで裸足になってスリッパを足にはさんでリレーしていく、愛の一本足リレー。こういうことを酒を飲みながらやったんですね。男の方の参加資格は部長級以上だけだったのですが、特別に参加を許された数人の若い新入の男性が様子をポラロイド写真にとってその場で競りにかけたという、限りなく乱交パーティーに近い催し物だったわけです。この話が週間現代に載り、他は黙殺したのですが、私は本を書く都合上、これの後追い取材をしました。そしてそれに参加した女性にインタビューしたわけです。するとその女性は、「斎藤さんは何もわかっていないんですね。」というわけです。何がどうわかっていないのかというと、つまりこのセクハラ大運動会を主催したのは社員の有志ではない、人事部だというんです。そしてそれに参加した18人の女性は全員が派遣社員なんですね。つまり人事が行う催しに派遣が逆らったらどんなことになるか。次の日から首になるかもしれない。それでもこんなふざけたものには出られない、といって多くの女性は参加しなかった。それが130人と18人という圧倒的な人数の差になるわけです。しかしこの18人については万が一にも首になるわけにはいかない事情があったわけです。旦那さんと別れて子供を一人で育てているとか、年取った両親の介護をしているとか、理由はいろいろですが、絶対に首になるわけにはいかない理由があったからいやだけれども出たんです。しかし、住友不動産の広報室に聞くとそんなことは尾首にも出しません。この18人はああいうことが根っから好きなノリのいい女の子たちなんですよ。といってきました。つまり、言いたいのはこういうことです。派遣社員という労働者としての権利に守られていない雇用があまり定着してしまうと、単に会社の上下関係だけではなくて、人間としての身分格差にもつながってしまうんですね。それが今やこの国の企業社会で当たり前になりつつあります。同じ頃、連合東京が、労働者派遣法が改正された時期で、派遣労働者というのが一般的になってきた時期なので、連合としてはその問題点を浮き彫りにすべく、派遣110番という相談窓口を設けました。その担当者に聞いた話なのですが、かかってくる電話のかなりの部分がセクハラに関するものだったそうです。派遣先の上司から肉体関係を迫られる、断ると、じゃあ明日からこなくていいよと言われる。心ならずも、という話がたくさんあるといいます。その担当者はそこで電話を聞きながら憤り、「それはどこの会社のなんと言う人ですか」「あなたの名前を教えてください。はっきりすれば連合として団体交渉してあげましょう」というのですが、事情が事情なのでそれには誰もはっきり答えてくれなかった。電話機の向こうで泣いておられるだけでしたと言って非常に悲しんでおられましたけれども、こういうことなんですね。ことの性格が性格なのできちんとした抗議や抵抗をすることもできにくい。これが雇用改革といわれるものの一つの側面です。人件費は削減されて企業にとってはよいのですが、そこで働く人にはこういう問題が起こり得るということです。それから教育改革、これもそれだけで何時間でも話せるだけの材料があるのですが、かいつまんで言いますと、今行われている教育改革というのは非常に問題が有ります。どういう問題かというと、教育を通して人間の格差が無理に作られてしまうということです。今品川区で小中一貫校というのが計画されています。再来年から小学校と中学校をくっつけてしまうとうんですね。小学校6年間と中学校3年間が別れている、別れていると継続的な教育がしにくい。そこでこれをくっつけるんだという理屈ではじまるんですけれども、ここで行われようとしているのは公立なんですが、小中一貫の超エリート校化というのが計画されています。すでにカリキュラムが作られつつあるんですが、それによりますと、4年生くらいまでに小学校のプログラムを全部終わらせます。それから5年生くらいから中学校の内容に入り、中学1年くらいまでに中学生の内容を終わらせます。そして中学2年、3年で受験体制に入るという。そしてそれがうまくいったかどうか、は都立日々谷高校への入学者数によって判断する。ちょっとどこか日比谷高校を基準にするところが時代錯誤なんですが、現実にそういうことになっているんです。小学校に入るときに入学試験もやりにくいだろう、そこで、今ここで計画に携わっている先生に聞きますと、中学にあがるあたりのガイダンスの時にそれとなく宣告をして、あまりできそうでない子は放り出すことになるらしい、という話なんですね。これは非常にはっきりした例なんですが、そうやってすべからく早い段階での選別を進めようとしているんですね。今までも高校くらいになると行く学校によって偏差値が違って、選別されてしまうのが現実であるわけですが、これをもっともっと早く小学校にあがるかあがらないくらいのときに分けてしまうわけです。何でそういう発想になるかというと、私はその教育改革担当者にその問題ではずいぶん取材をしました。教育課程審議会という教科書の内容を審議する委員会の会長をしていた三浦朱門という作家に取材をしに行ったんですね。どうしてそうしたかというと、一昨年から言われているゆとり教育、新しい学習指導要領でもって学習内容が内容も時間もそれまでの3割減っているんです。そのゆとり構想のもとを作った責任者だからと言う理由で三浦さんに取材しました。それで驚くべきことを聞くわけです。私は「ただでさえ学力低下がいわれています。新しい学習指導要領では授業時間も学習内容も3割減るといわれています。それではもっと学力が低下してしまうではないですか。その辺はどうお考えなんでしょうか」ということを聞いたわけです。すると三浦さんはこう言いました。「今まで日本の学力が高かったのは落ちこぼれの尻をたたいた結果だ。全体の底上げは図れたけれど、エリートは育たなかった。だから今、わが国はこのような体たらくなんだ。これからは限りなくできない、非才、無才は勉強などしなくていい。できんままで結構だ。ただ実直な精神だけを養っておいてもらいたい。つまりそうすれば、今まであまりできない子のためにかけていた先生の手間やひまや予算が浮くからそれをエリートに振り向ける。そうすればそのエリートが将来のわが国を背負っていってくれる。つまりゆとり教育といっているが、これはあくまでも目的ではなくて、手段だ、ただ本当の目的がエリート教育だなんて言うと皆が怒るから、まわりくどく言っただけの話だ」こういう風に三浦朱門氏は語ってくれたわけです。それは、しかし、ゆとり教育と文部科学省が言っていたことと全然違うわけですね。文部省は従来、これまでは詰め込み教育にすぎたので落ちこぼれがたくさん出た。全体のハードルを下げることによって一人の落ちこぼれも出さないようにするのが目的だと言っていたのですが、そうではなくて、あまり勉強のできない子、というか普通の子、をただ切り捨ててしまう。普通の子はあまり学ばなくていい、実直な精神だけを養えばよい。上の言うことにただ黙って従う人間、これを育てたい、ということをはっきり言ってくれたわけです。時間がないので三浦さん以外の話をご紹介できませんが、彼の一言だけをもってこういっているわけではない。関係者様々な人に会って取材を重ねた上で言っています。三浦さんが一番端的な話し方をしていたというだけなんですね。ですから三浦さんの構想によれば、普通の学校はすべてゆとり教育にする。私立だけがゆとり教育でない学校になるので、お金持ちの優秀な子だけが残ればいいという位のニュアンスですが、現実に教育行政をやる人はそこまで極端なことはしませんで、法律の中で敢えて差を付ける、とこういうことになっています。
 早期選別という考え方を最も端的に言ってくれたのが教育改革国民会議という首相の諮問機関の座長をしていた江崎玲於奈さんでした。この人は元ノーベル物理学賞の受賞者なので、私は会うまでは非常に期待をしていたんですね。教育改革にはいろいろ問題があるわけですが、仮にもノーベル賞を取った人だったら問題点を質してくれるのではないか位の、今思えば非常に浅はかでしたが、そういう期待をもって取材に臨みました。そうしましたら、この人は過去私があった何千、何万という取材対象者の中で最も馬鹿な発言をしてくれたんですね。どういう馬鹿かというと、こういうことです。この教育改革国民会議は当時からしきりに能力別の教育ということを主張していました。しかし私は、現実にどうやるのかというのが疑問なんですが、「それ、どうやるんですか?そもそも先生方に一人一人の能力なんて把握できるわけがないでしょう。」と聞いたわけです。そうしたら江崎さん、こう答えました。「今は遺伝子工学の発達によって一人一人の能力が予めわかる時代だ。したがって、これからは子ども達が小学校に入る時の入学時健診で血をとる。そして遺伝子を検査する。そうしたら将来その子供が勉強できるようになるか、ならないか、がわかるからそれに見合った教育をする。できる子には教え、できない子にはそれなりに。」ということを言ってくれたのです。こういうのは優生学という思想なんですけれども、この人は正に信奉者でしたね。恐ろしいのは、そういう人が世の中には何人もいると思います。しかし、よりによって、その人が首相の指名を受けて、教育改革国民会議の座長になり、そして現実にこの人が書いた答申をもとに、教育改革が進められているという現実です。流石にこの遺伝子検査までが教育改革に盛り込まれているわけではありません。それをやっている、進めている人たちの中にはこの思想が通底していることは間違いないんですね。というのは江崎さんに私が取材したのは2000年のことでしたけれど、今年6月愛媛県松山市で行われた教育改革タウンミーティング、これは河村文部大臣をはじめ、教育改革に携わる人たちが松山市民に向かって教育改革を説いたわけです。説いたといってもタウンミーティングですからあくまでも国民の声を聞くという建前でやっているわけですが、この時に、やはり教育改革に今その推進者側の立場にいる宇宙飛行士の毛利衛さん、この人が江崎発言と殆ど同じ発言をこの場で繰り返していたということです。ただし、この発言も地元愛媛新聞以外にはほとんど報じられなかったので、愛媛県以外の人には全く伝わっていません。ただ、この国の教育というのははっきりできる子だけを大事にして後は教えない、勉強はできないで、ただ上のことを言いなりに聞く子が欲しい、こうなってしまっていることは間違いない事実だと思います。教育によってもこうやって格差は広げられていくわけですね。確かに高校生くらいになれば、ある程度できる子できない子が分かれてきてしまいます。しかし、それをできるだけ是正しようというのではなく、元々ある差をかえって行政が拡大しようという流れだと言うことです。100メートル競走にたとえればこういうことだと思います。本来のスタートラインがあります。だけど世の中にはいろいろな子供がいます。例えば物心ついてみたら両親がいなかった。で、片方には物心ついてみたらおじいさんが総理大臣だった。お父さんは外務大臣だった。おじさんも総理大臣だったという子もいます。片方は孤児院で育ちまして、中学も十分に通うことが出来ない。義務教育を終えたら働くしかない。だけどなかなか仕事もない。生きるのが精一杯だ。片方は、親のコネで私立の立派な小学校にいれてもらい、親のコネで大学に行き、親のコネで留学をし、親のコネで就職をし、親の七光りで政治家になり、親は死んでいるのに何故かサラブレッドが好きな国民性により、何故か幹事長になってしまったと、こういう人がいるわけです。本来のスタートラインからすれば更に100メートル以上後ろからスタートさせられている。こちらはゴールの一歩手前からスタートさせられている。で、よーい、どん。勝ち組、負け組、負けたおまえの自己責任、負けたおまえが悪い。これが今の世の中になってしまっているわけです。仮に自己責任だとか自由競争だとかいうのを強調するのであれば、せめてスタートラインを揃えなければ競争の条件がかなわないわけだけれどもそうではないんですね。競争の条件を更に拡げておいて、負けた方の自己責任にする。社会としてかそれを補完してあげることもしない。それが当たり前だというような時代になりつつある。これが差別の国になる大きな理由だと思います。これはこの人が悪いというのではなく、いかにも扱い方が理不尽だ。仮に自分がその立場だったら、どれだけ暴れても俺は全然悪くないというふうに考えるのではないかと思えるわけです。要するに先ほどの職場の場合もそうですが、派遣の話だけにしましたが、つまり、努力するチャンスも得られないような立場の人がどんどん増えて、世の中は不満だらけになっているわけです。その不満を、不満の元凶であるところの小泉政権なり自民党政治にぶつけるのならこれはこれである程度健全なメカニズムなんでしょうけれども、なかなかそうはいかない。そうさせているところに不満をぶつければ、単に首にさせられるだけとかね、そういうことになりかねないのでそれは言えない。そこで、自分の中だけで不満が鬱積していく。だけど、それを鬱積させたままでは人間は生きていけないので、自分よりより弱い者にそれをぶつけてバランスをとる。非常に情けない心理メカニズムになっているのではないかということです。先ほどの派遣の人の例で言うと、私は派遣会社の営業さんにも取材しましたが、彼はこう言っていました。派遣先のセクハラ体質というのは絶えがたくあるようで、多くの企業の人事部長さんは、派遣会社の人が営業に行くとこう言うそうです。「俺は藤原紀香がタイプだからな」とか「俺は松嶋菜々子がいい」とか、つまりそういうタイプの女性をまわせというわけです。仕事の能力ではなく、可愛い子をよこせと。従来から企業の人事にはそういうところがありますけれど、これがよりひどい形になっている。という話をしながら、その営業マンはこうも言っていました。「こういう差別的なことを言っている人事部長さんが、次の時にはリストラされたりするんだよね。」と。いつもあらゆるサラリーマンが差別しながら、自分がいつリストラされるか怯えている。その怯えを隠すために更に差別をするという世の中だということです。問題はしかしここまでさせてしまった我々自身にも責任があるのではないか。この無関心ということをタイトルにあげてもらったのですが、やはりこれは「そうだ」というしかないんですね。戦後数十年それなりに日本人は努力をし、経済大国になったわけですが、その過程で、自分より弱い立場の者に対する思いやりをすっかり無くしてしまったような気がします。
 後で私は監視社会の話もするのですが、以前、住民基本台帳ネットワークが国会で成立していく過程で、私は従来取材して書いたら書きっぱなしで、後は読者に委ねるというのが私のモットーだったのですが、この問題だけはどうしてもやらせてしまってはいけないと思ったものですから、ストやなにかのたぐいにも積極的に参加をしました。ある時渋谷でデモがあったんです。その時に、国民総背番号制反対とか、そういうことをみんなでシュプレキコールを上げていました。日曜日だったので、沿道を親子連れが歩いていました。子供さんが、私たちのことを指さして何か聞いています。お父さんは何か答えています。なんて言っているのか気になって、後でその近くにいた参加者に聞いてみました。「あの人達何言ってたの?」って聞いたら、たちまち後悔するんですね。どう後悔したかというと、こういう会話だったそうです。子供が「お父さんあの人達何やってるの?」ときくと、お父さんは「あれはね、便利になることに反対している変な人たちなんだよ」と。こういう会話があったんだそうです。この人達が例えば国民奏せ番号制をやろうとしている政府の人間であったり、それによって利益があるIT産業の人であればまだ話はわかるんですが、もしそうでなかった場合はとても悲しいことだと思いました。つまり、さまざまな、色んな問題がある。考えた上でそれに反対だとか、賛成だとかはあると思いますが、何も考えてくれようとしない、どこに問題があるのかを理解しようともしない人があまりにも増えすぎてしまっているのではないか。そのことは冒頭に戦争の話をしましたが、そのことにも通じるんだろうと思います。戦後の平和教育だとか、平和運動の大きな欠陥であったと思いますが、私たちは戦争といったときに、被害者としての戦争しか想像することができなくなっているのではないか、ということです。つまり、僕自身もそうでしたが、戦争といってまず思い浮かべるのは、広島、長崎の原爆であり、東京大空襲であり、沖縄戦であり、硫黄島の玉砕であるわけですね。大方はそうだと思います。しかしそんなのは戦争の最後の年に集中して起こった話ばかりですね。それまでむしろ勝ち戦だった頃は、加害者としての戦争だったわけです。平和教育というのはなかなかそっちには話が行かなかった。でも、とはいえ、戦後50年を迎えた90年代以降は従軍慰安婦の問題だとか、虐殺の問題がようやく少しずつクローズアップされるようになりました。クローズアップされた途端、猛烈な反発をうけるわけです。そしてたちまちなくなってしまった。迂闊なことを言っては身があぶないということにもなってしまいました。ですから、今でもって多くの人は被害者にならない戦争というものを戦争として認識できないのではないかと私は思います。イラクで自衛隊は駐在しているわけでが、そこから入ってくる話は何処まで本当かわかりませんが、とりあえず自衛隊員は死んでいない、とすれば被害者ではない。でも地元にしてみればアメリカ軍と一緒になって占領している軍隊に他ならないのではないか。というようなことですね。
生活保守主義
 それから先ほど言ったように、衛生プチ帝国としてアメリカと一緒に世界中に進出していこうという風に自衛隊が考えているのであれば、これもまた、侵略者としての立場になってしまうのではないか。このことを法政大学の杉田敦先生は生活保守主義と呼んで憂いておられます。自分達の仲間が、自分達が攻め込まれない戦争は戦争ではない。勿論自衛隊員は危険に曝されるけれども、自分達の周りに自衛隊員はいない。うちの息子や娘は戦争で死なないんだからそれは戦争であるような、ないような、と。自分達が撃ち込まれないうちはいいんじゃないのと。こういう発想ではないかというんですね。これは現実だと思いますが、しかしこの認識というのは甘すぎると思います。冒頭で申し上げましたように、テロといえども、世界中どこにでも起こり得るわけです。昔のような国対国の戦争とは違って、海外にでている日本人もいつ危険に曝されるかもわからない。日本で普通に飛行機や新幹線に乗っていてもいつ爆破騒動があるかわからない。そういう状況だろう考えます。ですからまず無関心を決め込んでいるとそれだけで恥ずかしいことですが、よその貧しい国の人たちを殺す立場に身をおくことはもっと恥ずかしい。無関心でいれば自分達も必ず報復を受ける、復讐をされるそのことを考えておくべきだろうなと思います。
監視社会
 ざっと戦争と差別のメカニズムをお話ししましたが、しかしそれだけでは社会秩序というのを保てないわけです。そこで為政者は何を考えるかというと、これが監視なわけです。今申し上げましたように、住民基本台帳、国民総背番号制、もう私たちは誰もが行政から11桁の番号を与えられて、それによって整理されています。私にしても親からもらった齊藤貴男という名前はいわばこういうときにだけ通用するニックネームのようなものであって、行政から見れば私はただの番号なわけですね。申し訳ないですけれど、皆さんもまた同じです。番号として国や地方自治体は認識しているわけです。そして、近い将来、もう一部の地域では配布が始まっていますが、ICカードが持たされ始めました。これは、今は、希望者だけですけれどもいずれはキャッシュカードですとか、クレジットカート、社員証、鉄道の定期、病院の診察券、パスポート、運転免許証、ありとあらゆるものが一体化されていくことになります。ICカードというのはプラスチックのカードの中にチップが埋め込まれて、そこにありとあらゆる情報を詰め込むことが出来る多機能・多目的カードなんですね。ですから、便利か、便利でないかといえば間違いなく便利です。今財布の中に溢れているカード類が一枚のカードになればこれは便利なんですけれども、そのかわり、これを使って行われる行動はすべて記録されていくわけですね。朝何時のバスに乗って、何処に行き、そこから何時の列車に乗ってどこの駅まで行き、降りたところで何時に会社に入り、何時に昼休みで、外に出てきて何を食べ、というようなことを全部コンピューターに記録され、蓄積されていく。日常的にはそれ以上なことにはならないんでしょうが、何かその人が気にくわない、当局にとって気にくわないことを行った場合、いつでもそちらが弱みを握ることができるということです。こんなことを言うとそれは斎藤さんがろくなことをしていないから、後ろめたいことをしているから、と言われてしまうかも知れません。事実後ろ暗いことはたくさんありますが、問題はそういうことではないんですね。何がよくて、何がよくないかは時代によって変わってくるんです。一昔前は皇室の悪口を言えば不敬罪で捕まった訳です。また、こんな人を集めて戦争反対などといえば特効警察がきて連れて行かれて拷問されたわけですね。たまたま戦後50年あまりそういうことはなかったらしい。だけど今は、また始まったわけです。有事法制のことばかりを言っているのではありません。たとえば、昨年4月には西荻窪の公園で、公衆便所に落書きをした青年が捕まって44日間拘留され、ついに懲役1年2カ月の判決を受けました。勿論この判決がすごく差別的落書きでもあればこれは悪い。しかし1年2カ月は異例ですが、罪状は建造物損壊、建物を壊したという扱いで、非常に重い罪で捕まったのですが、何故この人がそういう扱いになったかというと、差別落書きではないのですが、書いた内容が問題にされました。彼は戦争反対と書いたんですね。戦争反対と書いたら懲役刑になるのが今の時代だということです。これもまた新聞には殆ど報道されませんでした。自衛隊がイラクに行き始めた時、立川の自衛隊の官舎で反戦ビラを配った運動グループがいます。その人達がまた捕まったんです。これは住居侵入罪です。住居侵入といっても家の中に入ったのではなくて、郵便受けにビラを配っていっただけです。ですから、おそば屋さんやピザ屋さんがビラを配っているのと同じなのですが、もし戦争反対と書いて配ると逮捕されてしまうんです。同じように反戦デモをしたワールドピースナウの人たちも逮捕されました。何をやっても今は逮捕されるんですね。気にくわないと逮捕。それで、それらの警察が先走ったのならまだしもです。実は有事法制の国会の審議中に福田官房長官はこういっていました。「思想信条の自由は内心においてはこれを最大限に尊重する。ただし、それらがひとたび外に表現された場合は公共の福祉に鑑み一定の制限を受ける」頭の中で何を考えてもいいんだけれど、それを外に表現したら捕まえるよ。と。これはしかし思想信条の自由などないのと一緒ですね。頭の中で何を考えても良いというのはどんな時代だって、戦前の日本だろうが、スターリン時代のソ連だろうが、ポルポト時代のカンボジアであろうが、これは自由なわけです。ただ、これらの国が独裁だとか、ひどいんだと言われていたのは、表現したら捕まえていたからで、今の日本も同じ事をしようとしているわけです。ですから、僕は何も悪いことをしていないから、監視されてても平気ですということはあたらない。何が悪いかというのは警察やお上が決めるわけですから、あらゆる自由が奪われ尽くす。何もかもがお上の言うとおりに、奴隷のようになるというのでしたら、確かに監視されても平気だということになりますが、それでは何のための人間か、ということです。こういう監視システムが住基ネットにおいても盗聴法においても監視カメラ網、最近防犯対策が全面に出されて、そこら中に監視カメラがついていますが、あれで犯罪が減れば苦労はないわけで、ここにつければここは減るが無いところに行ってやるだけですね。新宿歌舞伎町に50台の監視カメラがつけられまして、警察の統計では凶悪犯が半分になったと喜んでいるんですが、同じ時期の池袋では凶悪犯が倍に増えたんですね。ただそれだけのことです。これをやっていけば、監視カメラによって犯罪がなくなると仮定しても、これを徹底させるには日本国中、1pの隙間もなく監視カメラを張り巡らさなければいけないことになってしまいます。そうなるとプライバシーが云々という問題ではなくて、世の中が見張る側と見張られる側に分かれてしまうことになるだろうと思います。私はこういう事に拘るのですが、私の父は、シベリア抑留者なんですね。小学校しか出ていないのですが、戦時中、関東軍特務機関に配属されたそうです。そして、トラックの運転手をしていたそうです。特務機関なので、ソ連がやってきたときに捕まってソビエトに11年間抑留されて、31年に帰ってきました。帰って翌々年に私は生まれるのですが、父が亡くなった後母に聞きましたら、私の家は父が亡くなるまで公安警察の監視下に置かれていたそうです。元特務機関員がシベリアから帰ってきた、これはスパイだという捉え方をする訳です。家族にしてみれば、小学校しか出ていない、しかも鉄屑屋なんですね。従業員のいない零細な鉄屑屋、そんなやつにスパイ出来る国は1つもないと思いますが、しかし一度こいつはスパイだと見なして、予算と人がつけば、こいつはそんなことは関係ないやと思っても、止めないのが組織の論理ですね。一旦ついた人や予算は削らない。で、私の家はずっと見張られていたわけです。何が起こったかというと、大学卒業後一度は就職が内定した会社から土壇場になって蹴られました。こういうことがあるわけです。決して被害妄想ではなくて。現実は現実としてありました。ですから、国家が国民を監視する、どういう方法であれ、監視するということは、その監視された側にとっては一生が台無しになりかねないという大問題です。それだけで済めばよいけれど、未来永劫末代までたたる可能性もあるということなんですね。ですから監視に非常に反対しているんですが、戦争が当たり前、差別が当たり前の社会になれば世の中荒れます。それはそれで困るので監視をする、という順番なんですね。もしも世の中が荒れるのがいやであれば、おおもとを改める。差別などしないで、多くの人が不満を抱え込まなくてよいような社会にすることが大前提であって、それでもとりあえず納まらないから監視を強めるよ。ということであっても時限立法なりにして、大元を改めるようにしてこれを止めるということにしなければいけない。ところが、大元はよりひどくする。荒れ果てさせてより抑圧するという方向になってしまっているわけです。障害者の人権の会にふさわしい話だったかどうかわかりませんが、世の中のありとあらゆるところで、差別や格差が広げられる政策が企てられていること、それに対して、抗しようという動きが抑圧されているということを申し上げました。
 特に象徴的な事で申し上げると、今全国的にあちこちで自警団ができあがっているんですね。つまり地域住民がグループを作って、場合によっては武装して犯罪にあたる。犯罪対策という点では自警団は好ましいと警察は推進しようとしているんですが、自警団で連想させられるのが、関東大震災です。関東大震災の時、めちゃめちゃになってしまうのですが、そんなとき、どこかから、朝鮮人が井戸に毒を入れた、というデマが流れて6000人前後の在日朝鮮人が各地に作られた自警団によって虐殺されました。こういったことを私たち日本人は知ってこなかったんですが、70年代位になってやっと大きく取り上げられようになりました。ですが、このことがなかなかきちんと顧みられることがないままに、大震災後81年が経ってしまったのですが、今在日の人たちなどに話を聞くと、全く同じ恐怖を今も感じることがあるそうです。特に拉致事件以後の朝鮮人達に対する風当たりの強さ、チマチョゴリを着て歩いている朝鮮人学校の女の子たちが石を投げられたり、最近では電車の隣にいたおじさんに突然、いきなり顔を殴られて血だるまにされたという報告もあります。そういうぎすぎすしたせち辛いではすまないひどい社会になりつつある。それでは私たちは何をしていけばよいか。よくこういうことを話していると、絶望だけを教えて、実は政府の回し者ではないか、と言われるのですが、そんなことはありません。何よりも事実をわかっていただきたいということでお話をしているのですが、それだけではあまりにも救いがないというのも確かなので、最近知ったちょっとした例をお話しして終わりたいと思います。
無防備地域宣言
 無防備地域宣言という概念があるんですね。無防備、non defenced 自警団とは正反対の考え方でしょうが、ジュネーブ条約という国際条約に今年日本は批准しました。このジュネーブ条約というのは戦争のルールを定めた条約です。それに批准したということはいつでも戦争していいんだぞということの一種の宣言で、このこと自体は悪い話なんですが、ジュネーブ宣言の中にこの無防備地域宣言というのが盛り込まれています。そこには戦争する場合に、相手方の地域に戦闘員や移動兵器がない場合、固定した軍用施設などがない場合、そして軍事行動を支援しないという前提がある場合は軍隊はその地域を攻撃してはならないという取り決めなんですね。東京都荒川区がこれを住民投票によって実現しようとしています。今年の11月25日から12月24日までの1ヶ月間、これは地方自治法によって住民の直接請求というのは1カ月というふうに決められているので、こうなるのですが、この間区民に働きかけて、住民の50分の1以上の署名を集められると、議会はそれを審議しなければいけないという決まりがあるんですね。大阪市の住民が昨年これを市議会で取り上げさせたのですが、市議会であっさり否決されてしましました。憲法9条の理念を草の根から実現する方法としては例えばこういう方法もあるというふうにとらえています。仮に日本中の町でこういう取り組みが行われるようになれば国としても無視できないのではないか、と思います。希望的観測にすぎませんが、何か出来ることから始める、ということしか残されていないのではないか、という危機感を込めてご紹介しておきたいと思います。
 私からの話はざっと以上です。何かありましたらお答えします。ありがとうございました。

司会 どうもありがとうございました。私たちが平和だと思って住んでいるこの国が、実は実はいろいろなところで規制をされ、差別を強制されるようになる。もしかしたら私の子供の世代など、実直な精神だけを身につけさせられて、もしかしたらどこかの国に戦争に行くようなことになってはいけないと、改めて、世の中の動き、為政者のなす事にもっと関心をもたなければいけないとつくづく感じました。
 それでは、ここからは、質疑の時間にさせていただきます。どなたかご質問のある方、いらっしゃいますか?どなたかご意見のある方、どうぞ。

人権ネットHOさん
 先ほどのお話のなかで今年に入ってからのイラク派兵について、いろいろ話があったという発言がありましたし、無関心が育てた生きにくい国家、というこの無関心というのは、日本の国民性なんでしょうか。さきほどのお話のなかでマスコミが、ということとからめて、とても怖いなと思いますが、そのことについてお話ください。

斎藤貴男さん
 これはきっと国民性というよりは、それがないとも言えませんが、むしろ50何年かつづいた戦争のない状態の報い、というか、それと裏腹の問題だと思います。本来戦争のない状態が50何年続いたこと自体本来素晴らしいことですが、多くの人が戦争を知らない状態になった。本来それはいいことなんですが、それが当たり前になったために本当に戦争になったらどうなってしまうのかを考える想像力が抜け落ちてしまったのではないかなと思います。その辺のことを右翼の人たちは平和ぼけというわけですが、それとは全く正反対の意味で僕はそれを問題にしたい。つまり、まったく不十分なかりそめの平和だったわけですから。でも、そうやって時間稼ぎができている間に、加害者としての責任の問題とかを議論し、考え、実際には経験はしていないんだけれどもそういうことへの想像力をみんなで培っていく必要があったのではないかなと思います。やはり特に経済大国になって以降は消費大国ですから、なんでもかんでも物があふれ、その物を消費することが一番正しい生き方、というか、行動規範になってしまった結果、想像力が著しく欠如したなと思います。ただ、国民性ということで言えば、他の国のことを知っているわけではないので比較のしようがないのですが、これも経済成長と裏腹の関係だったと思います。先ほどの安定の見返りに会社人間になったと言いましたが、それはそれぞれの人の生き方ですから一概に否定はできないのですが、安定があるからと言って、何もかも身を捧げてしまう。長いものに巻かれてしまうという生活習慣が根付きすぎたのが問題ではないかと思います。そこにはサラリーマン税制だとか、社宅だとか、色んな背景はあるのですが、何か、強いものに逆らうということが、それだけで悪いことであるかのような、考えが確かにこの日本社会にあったのではないかと思います。ただそれでも安定という見返りがあれば、好き嫌いは別としてわからんでもないですが、今のように安定の見返りもないのに長いものにまかれろという習慣だけが残っていたり、また、これだけ格差が広げられているのに、人のメンタリティーだけは一億総中流のままそんなに自分はひどい目にあってはいないんではないかと、何となく思いこんでしまうような空気は確かにあると思うんですね。ですから、私は別に政府の回し者ではありませんが、現実には兎に角事実を知っておいてその上で自分にとって何が問題なのかを考え直すことから始める必要があるだろうなと思います。

司会
 他にどなたかいらっしゃいませんか。

港区AMさん
 今はプロ野球の選手がストをやる時代ですが、民間の労働組合はほとんどストをやらなくなりましたよね。というのは、みんな裕福というか、みな中産階級になってしまったのではないかと思います。こういう時期が政府もいろいろやりやすい時期だと思います。斎藤さんの考えでいいますと、こういう時期は我々が政治に関心を持つしかないなと思いますが、どうしても今の状態ですと、個人の意見を集約するようなものがないですよね。ですから、どういう方向にジャーナリストという立場もあるでしょうが、どういう形でマイノリティーの意見をもっていったらよいかなと。斎藤さんのご意見をお聞かせ下さい。

齊藤貴男さん
 ジャーナリストとしてはというか何か調べて発表する様な立場にいる者としては集まってくるそういう話をどんどんどんどん汲み上げてやっていきたい。最近はこういう集まりに来ますと必ず話をきいて欲しいという人がでてきて、外で会って資料をもらったりして何か書かなければならないことが増えてきて、対応しきれなくなっているんですが、やはり1つにはマスメディアに訴えていく。それは何も私に限らず、あらゆるところで問題があればどんどん訴えていくべきだと思います。あと、ストライキのことなんですが、今は全くやりませんよね。ですから今プロ野球の人があれだけの支持を得ている、よくよく考えると彼らは個人事業主ですから、経営側の言う理屈がまるでデタラメだということではないんですよね。選手の中には年俸何億円の者もいれば何百万円の者もいる。全部が大金持ちだといえないということと、今回は金の問題ではなくて、正に雇用の場の問題なので、スト自体は妥当なものだと思いますけれども、多くの人があのストを支持していると思われるのは、自分達の企業社会でなかなかできないことをあの人達はやってくれている。こういう受け止め方なんだろうと思います。特にナベツネオーナーの「たかが選手」発言ですね。あれは選手にだけ向けられたものではなくて、正に私が言ったような話の中で、殆どの人に向けられた言葉だと私は思いますし、殆どの人もそう思ったのではないでしょうか。彼らは体育会系で上に従順な人が多いですから、それでも彼らは止むに止まれずにやった。それは野球という能力があるからでしょうが、例えばアメリカや台湾や韓国に渡ったとしても食えるからではあるけれど、相当なリスクを負ってやったんでしょうね。一般のサラリーマンや労働者も現実にストをやるかどうかは別として、あれに近い立ち上がり方が出来るのであるならば、非常に意味のあることだろうと思います。ただ、そうではなくて、別世界の選手たちにただ夢を乗せただけで、単なるガス抜きになってしまうとそれはそれで悲しいことなのですが、ああいうストがこれだけ支持をされる程煮詰まってはきているわけですよね。ですから、それぞれの人ができる場で、例えばメディアに言うのもよし、何か具体的なことがあれば裁判に訴えるのもよし、市民運動に訴えるのもよし、さっきの荒川区の人たちのように行動に移すもよし。まだやれることはたくさんあると思います。具体的に何、というのは立場によってそれぞれ違うと思いますので、いちいち細かく上げることはできませんが、今までほとんどの人が何もやってきていないわけですから、0からだったらやれることはたくさんあると思うんですよね。9割方やってあと残りなにかないか、といわれても大変なんですけれども、まず自分の身の回りから、何か集まりがあったら自分の身の回りの人を一人つれてくるということをやればかなり違ってくるようなきがします。あまり実践的ではないかも知れませんが。

司会
 他にどなたかいらっしゃいますか。

神奈川AHさん
 9条の会で井上ひさしさんや大江健三郎さんたちがいろいろなさっているようですが、そういうことに関する情報がほとんど毎日の新聞、我が家は毎日をとったり、他の新聞をとっていますが、見あたらないのですが、斎藤貴男さんのご意見が新聞に載ると私は感心をもって拝見させていただいていたのですが、マスコミのなかでそういう規制が強まっているという情報がありましたら、お教え下さい。私は斎藤さんや辺見庸さんなどが好きで、よく見ているのですが、新聞にのせていただけたらいいなと思っているのですが、その辺のお話も何かありましたら。

斎藤貴男さん
 なかなか新聞はこちらが売り込んでも載せてくれるものではないんですけども、そうですね、9条の会は僕らが考えても不思議です。あれだけの日本の知性が集まってあれだけのことを言う。彼らにとっても非常な覚悟をもってやっていることなんですけれども、何故か載るのは赤旗だけなんですよね。そうして赤旗だけに載るものですから、なおさら共産党の催しかということになって、一般の人がますます引いていくという、残念な結果なんですが。勿論政治的には共産党の人も関わっているようですが、社民党の人もかかわっていたり、ほとんど政治色はないんですよね。あれは。特に朝日以外の大手マスコミは無視しています。朝日にしてもごく小さくしか扱わない。これは規制があるというよりは、むしろ自主規制なんだろうと思いますね。さっきの玉澤発言だとか、西村をほとんど載せなかったといいましたが、何もそういう発言があるたびに国が圧力をかけるという風には、そういうところまでにはなっていないと思います。なっていないのですが、その分摩擦がないままに、その新聞社のデスクなり局長なりが「それは今やめておけよ」という空気が非常に強い。そういう空気を新聞社の方でも知っているので、そもそも取材をしない。書いても載らないな、と思うから書かないそれは何故かというのは一概に言えませんけれども、一番大きな理由は、特に朝日新聞などで顕著なのは、今のようなグローバリゼーションの中の階層間格差だとか、そういって起こった差別感情が戦争に結びつくようなメカニズムとかが、ああいう大手のマスコミエリートには弱いんですよね。もっと上からの、直接的な圧力には抗する可能性はあっても、エリート主義というか、新聞記者は自分のことをエリートだと思っていますから、厭じゃないんですよね。今のような状況が必ずしも悪くないという意識のマスメディアの人が多い。だからかってに自主規制もしてしまうということです。とはいえ、僕があちこちでまだ発表できている位ですから、まだまだ自由が利く部分はあるので、それはテレビはほとんどだめだと思いますが、雑誌や新聞はそういうのを上手に判断して見ていただければと思います。

川崎市SSさん
 わたくしは批判力旺盛な斎藤さんとは雲泥の差だなと思いますが、NHKの課外授業というのがありますよね。斎藤さんに課外授業に出ていただき、母校の臨時教授になっていただいて、ジャーナリストと無為関心と批判力、今の小学生70%位はごく普通の人間であるということですよね。そのごく普通の生徒に向かって6年5組の教師として生徒に2日間でいいです。この3つだけ是非、ジャーナリストの斎藤貴男先生としてご教授いただきたい、ということで宿題。

斎藤貴男さん
 あれ、大変なんですよね。この間ボクシングの赤井が小学校で呼ばれて、スクラットやらせたや骨折してしまったという。生徒が。そういうこともあるので、迂闊なこともできないと思いますが、僕の考えるジャーナリスト像が何も普遍的なものではないと思うんです。でも、何もジャーナリストにかかわらず、自分が立派な若者だったかというとそんなこともないので、非常に言いにくいのですが、ただ、これだけはわかってもらいたいなと思うのは、絶対弱いものいじめはするな、ジャーナリストとしても、これは余り考えると恣意的になると思うのですが、弱いものは守れと。強いものはたたけ、という風に思っています。以前こういうことがあったんですね。プロ野球選手が脱税をしたことがありました。95,6年だったと思います。その中には今巨人にいる小久保という一億円プレーヤもいれば、年俸何百万という二軍選手もいたんですね。彼らのうち年俸何百万のやつは球界永久追放されてしまったんですね。一方で大蔵省で中村よしおという人が信用組合から巨額なお金を受け取って、脱税していたんですね。だけどこちらは捕まらずに修正申告で済んでしまった。何とそいつは京セラが重役待遇で天下りで受け入れたんです。年俸何百万の二軍選手は捕まり、大蔵省のエリート官僚は捕まりもしない。そのことを当時大臣になる前の竹中平蔵と話をしたとき、私は、「二軍選手は捕まえず、エリート官僚を捕まえろ」と言ったんですね。そうすると竹中は「悪いんだから両方捕まえろ」と言った。両方捕まえるべきなんだろうけれども、現実には強いやつは捕まらずに、弱いやつが捕まる現実があるわけですから、せめてジャーナリズムは強いやつをたたいて、弱いやつを見逃す位で丁度バランスがとれると思っているわけです。それを例えばNHKや朝日新聞が社をあげてやったら問題かもしれないけれども、一人一人のジャーナリストの意識としてはその位のつもりでやれと言いたい。それから、自分のこととして引き寄せて取材して見ろと。自分のこととして想像することができたら、しないよりはまともな記事が書ける、これは当然のことだと思っていたのですが、どうもこれはマスメディア、先ほどから批判もありましたが、新聞やテレビをみていると、むしろ強い側に身をおいて書かれている記事が多い様な気がします。朝日ばかり例に出して恐縮ですが、イラクへの侵攻を決めたときの朝日新聞の天声人語は非常に無惨なものでした。去年の3月に侵攻したわけですが、「ブッシュ大統領の眉間にしわが増えた。これは権力者の苦悩の表れである」と。おい、おい、どっちにシンパシー感じているんだ。それはブッシュなりに苦労しているんだろうけれども、やられたやつは皺が寄るどころでは済まされない、ただ殺されているわけですから。それは、ジャーナリストがどちらにシンパシーを感じるべきかと言ったら、それはやられた側であるべきですよ。いちいち行って、弾に身を曝すといわれても困りますが、所詮は想像で補う部分が多いのですが、このあたりは教えたいと思いますね。3つと言われましたが、とりあえず思いつくのはそれだけなんですが。すみません。

司会
 ほかにどなたかいらっしゃいますか。

世田谷Mさん
 人権ネットの会員です。今お話を伺ってますます住み難い国になっているな、と思いますが、一サラリーマンとして思うことなんですが、会社では一生懸命利益を挙げる努力をする。だけど世の中のいろんなことを見ると、会社から一歩外に出て一市民としてみると頭に来ることばかりで、どうにかしたいと思う人が多いと思いますが、お父さんたちは酒を飲んで憂さ晴らししてしまうというのが多いんだけれども、でも、そうも言っていられない状況だと思います。そのあたりで何かお考えがありましたらお願いします。

斎藤貴男さん
 そうですね。例えば会社員の方であったら、何によらず、思っていることをいつもいつも言っているわけにはいかないというのが現実だろうと思います。私などはそれができなくて、辞めてしまったというのが現実です。誰でもがみんな会社員なんてものが言えないから辞めてしまえ、という必要は無いのであって、会社のときと外とダブルスタンダードでやって全然構わないと思います。大雑把ないい方ですが、特に昔のように、高度成長期に、会社の利益とそこにいる社員の利益が一致していた場合、会社が儲かったら給料が上がるとか、生活がよくなる場合はある程度会社の価値観と同じように私的な自分も従っておいても良かったと思いますが、今ははっきり違うと思うんですよね。会社はグローバリゼーションの中で大儲けする。しかし、そこにいる人間は決してそれに見合った給料が来るわけではない。むしろいつリストラされるかわからない訳です。リストラが会社の利益の源泉になってしまったりしている。だったら何もかも会社のいいなりではなく、私生活では政治運動だって何だってやったっていいじゃないか、と思います。先ほど言ったことと矛盾するようですけれども、確かに何をやっても下手すれば捕まりかねない状況ですが、けれども、今まで散々いろんなことをやってきてこういう状況になっているわけではない。今までほとんど多くの人が何もしないで、たまに跳ね返りがいると捕まっているわけですから、会社の仕事を疎外しないところで自由な言動をするということはやはりあるべきだと思うんですよね。市民運動をする、こういう講演会などに来るだけでもすごいことだと思いますが。市民運動に参加したり、活動するのでもいいんじゃないかなと思います。
 飲んでうさをはらしてしまうということなんですが、これも先を考えるとやりにくい状況なんですよ。禁煙というのは世界的な潮流なんですけれども、本当に煙草が好きな人にとっては非常に辛いと思いますが、ああやって個人の肉体の使い方にまで国家が介入してくるという流れがあちこちであります。すでにイギリスでは実行されているのですが、夜に酔っぱらいが外を歩く、これも取り締まりの対象になりつつあるんですね。今まででも暴れればトラ箱に入れられていたわけですが、そんなんじゃなくて、ちょっと酔っぱらって騒いでいるだけでも警察官が捕まえるというのがイギリスでは現実になって、日本でも今、立正大学の小宮信夫という犯罪学の先生が提唱しておられます。大きな犯罪に結びつきうる可能性はわずかなものでも許さない。小宮教授によると犯罪機会論というのですが、犯罪を犯す機会をすべて奪ってしまえば犯罪は起こらないという、こういう思想が日本の警察にもかなり浸透しつつあります。だから今は飲んでうさを晴らしているだけですが、いずれ本当に飲んでうさを晴らすことすらも許されなくなりかねないような状況があるので、ここは一つちょっと無理をしてもですね、特に男性、こういう市民運動にしろ活動をしていらっしゃるのは女性ばかりで、男の方があまり上に逆らわないと言う人が多くなってきているような気がして、私としてはやはり自分は男なので、淋しい思いをしています。会社を首になるほどまでとはいいませんが、できたらそれに近い感じで緊張感を持った人生を送るというのも、これも楽しいのではないでしょうか。

司会
 どうもありがとうございました。もっとお話をお伺いしたいところですが、時間がまいりましたので、残念ながら終わりにさせていただきます。人権ネットの方でも今後斎藤さんの講演の情報がいただけましたら、皆さまにお知らせしていきたいと思います。今日は斎藤さんが私たちの眠っていた危機意識にだいぶ火を付けてくださったのですから、皆様おうちにお帰りになって、どなたかお知りあいにお話いただくとか、後ろに斎藤さんのご本もご用意させていただいておりますので、お求めになって、是非勉強していきましょう。どうもありがとうございました。

http://homepage3.nifty.com/jinkennet/kaihou/36_17.html

 次へ  前へ

Ψ空耳の丘Ψ38掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。