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(回答先: 私たちの住むこの国はいったい何を目指しているのか[斎藤貴男氏]ラブラブパン食い競争 投稿者 なるほど 日時 2004 年 12 月 17 日 14:26:17)
斎藤貴男さんのポケットから
大阪支部 城 塚 健 之
朝日新聞の日曜日の読書欄に「斎藤貴男さん(ジャーナリスト)のポケットから」というコーナーがある(このコーナーは「○○さん」が週替わりで登場する)。斎藤貴男氏といえば、「機会不平等」(文春文庫、二〇〇四年)や、「安心のファシズムー支配されたがる人びと」(岩波新書、二〇〇四年)などといった著作を通じて、たとえば優性主義を臆面もなく口にする江崎玲於奈(教育改革国民会議座長)に象徴される新自由主義の不正義と不道徳を告発し、あるいは人びとが、「安心」や「癒し」を求めて弱者をいたぶり(たとえばイラク人質の三人がバッシングの対象となったのは、あの三人が「女子ども」で与しやすしとみられたからではないのか、など)、監視・治安強化社会を求めるという病理現象を徹底的に追及している。彼こそは「民衆のジャーナリスト」と呼ぶにふさわしい。
彼の著作を通じて学ぶべきものは多く(私も全部を読んでいるわけではないけれど)、団員のみなさんにお勧めしたいのであるが、そんな斎藤氏の推薦する本もまた、同様に、刺激的である。ここではこの夏に読んだ以下の二冊が面白かったので、ご紹介したい。
一冊目は、関岡英之「拒否できない日本ーアメリカの日本改造が進んでいる」(文春新書、二〇〇四年)。これは、構造改革路線が、すべてアメリカ通商代表部の「年次改革要望書」に示されていたものであり、それが「日米構造協議」という「イニシアチブ」(アメリカの主導)により進行していることを、明らかにしたものである。今さらながらであるが、「司法改革」もまたその主要な柱である。
関岡氏は、バブル時代に東京銀行に入行して、証券投資担当や北京駐在員などを努めた後、大学院で建築を学んだという、なかなか個性的な人物のようである。豊富な読書量をもとに、英語、英米法、フリードマンを中心とするシカゴ学派(新自由主義)経済学などと、いろんなジャンルから突っ込んでいて、その論旨のすべてに賛同できるわけではないけれど、本書を読んで初めて知り、考えさせられたことも多かった。それにしても独力で勉強してこうした論述ができるのには驚かされる。
二冊目は、香山リカ「〈私〉の愛国心」(ちくま新書、二〇〇四年)。香山氏は、「リカちゃんコンプレックス」(ハヤカワ文庫、一九九四年)などで一躍名を馳せ、現在もマスコミでも活躍中の精神科医である(たしか、彼女はこのデビュー作でリカちゃん人形の名前をペンネームにしてしまったと記憶している)。本書は、イラク戦争、憲法改正、少年法犯罪、医療観察法などを題材に、日本とアメリカの社会の精神病理を解明しようと試みたものである。
彼女の診断によれば、「テロにつくかアメリカにつくか」という究極の二元論を打ち出したブッシュに代表されるアメリカ社会は、自分以外のものを「大好き」か「大嫌い」かという両極端でしかとらえることができない、「境界例(ボーダーライン・パーソナリティ」(「人格障害」の一つ)に該当する。この患者は、何らかの刺激を与えられると「行動化(アクティング・アウト)」と呼ばれる、原因とはまったく無関係な破滅的行動を突然起こすという特徴があるという。
これに対して、日本社会には、「身近な事柄だけにしか関心を持たず、そうでない事象に対しては「他人事感覚」で済ませる(たとえば、自衛隊がイラクへ行こうと、自分までが徴兵されることはないだろう)、自分が間違ってるかもしれないという可能性は考えもせず、ひたすら被害者意識で相手を攻撃する、「自分以外はみんなバカ」と決めつけることで、「自分はバカではない=『負け組』ではない」と自己確認する(だから養老孟司「バカの壁」(新潮新書、二〇〇三年)なんかがバカ売れしたりするのか)、などといった特徴があり、こうした一貫性や脈絡の喪失、「人格の断片化」は「解離」であるとする。
彼女の診断は、私たちが憲法運動などを進めるなかで直面する「国民意識」をよく表現していると思われる。しかし、彼女は、病人(日本)が同じく病人(アメリカ)を治してあげようと思っても、それはまず成功するはずがないとして、せいぜい自分の意見が主観的であることを自覚せよ、というところで終わっていて、これではなかなか展望が見えてこない。
ではどうすればよいのか。これは私だけでなく、おそらく多くの団員のみなさんが苦しんでいるところであろう。でも、斎藤氏の「安心のファシズム」で紹介されているフロムの言葉(『自由からの逃走』からの引用)はかみしめる必要があると思う。
「一部のひとびとはなんら強力な抵抗をなすこともなく、しかしまたナチのイデオロギーや政治的実践の賛美者になることもなく、ナチ政権に屈服した。」
「(これら労働者階級や自由主義的およびカトリック的なブルジョアジーの)ナチ政権にたいするこのような簡単な服従は、心理的には主として内的な疲労とあきらめの状態によるように思われる。」
「われわれはどのような外的権威にも従属していないことや、われわれの思想や感情を自由に表現できることを誇りとしている。・・・しかし思想を表現する権利は、われわれが自分の思想をもつことができる場合においてだけ意味がある。」
私たちは、みずからの「思想」をもっともっと豊かなものにしなければならない。それはきっと、出来合いのものの借用ではだめで、それぞれの深い「思索」に基づくものでなければならないだろう。そして、決して疲れ果てたり、あきらめたりしないことだ。
http://www.jlaf.jp/tsushin/2004/1144.html#1144-06