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(回答先: CIAのエージェントがベスランの人質事件で犯行声明(仏レゾーヴォルテール) 投稿者 さすれば 日時 2004 年 9 月 18 日 11:32:12)
http://chechennews.org/basic/biograph.htm#Basayev
シャミーリ・バサーエフ(バサエフ)
Basayev, Shamil
(1965−) チェチェンの野戦司令官。南部の町ヴェデノ生まれ。チェチェンの19世紀の抵抗指導者、シャミーリの名にちなむ。80年代にモスクワで学び、コンピュータの売買を営む。青年時代を過ごしたモスクワのアパートには、チェ・ゲバラのポスターが貼られていた。1991年のクーデターの際には、民主勢力だったエリツィン側のバリケードにいた。その後チェチェンに戻る。1991年11月、トルコで飛行機のハイジャック。1992年−1993年にかけてのアブハジア紛争(グルジア西部で分離独立を求めている地域)で、チェチェン人の武装勢力を率い、義勇兵となってアブハジア側に立ってグルジアと戦う。バサーエフは中東で軍事訓練を受け、「国際テロネットワーク」の一部だとの報道がよくされるが、アブハジア紛争において、ロシア軍事情報部(GRU)の直接の訓練を受けていたことは常に省略される。GRUのスタニスラフ・ルネフ大佐によれば、「バサーエフの部隊は、訓練を受けただけではない。アブハジアの戦火に突入したこと自体が、GRUの専門家の指示によるものだ」(John. B. Dunlop "Russia Confronts Chechnya - Root of a Separatist Conflict" 1998, p145)という。
1994年−1995年にかけてグロズヌイ守備部隊の指揮官。1995年6月、ブジョンノフスクの病院占拠事件を主導。それまで和平を拒否していたロシアを交渉のテーブルに引きずり出した。この事件で民族の英雄となる。なお、ロシア軍の爆撃により、ヴェデノに住んでいた彼の家族のうち、11人が死亡している。
第一次戦争の終わった後の1997年、チェチェン共和国大統領選挙に立候補するも次点にて落選。その後マスハドフ新大統領に招かれて入閣するが離反し、マスハドフと対立しはじめる。この時期にロシアの政商ベレゾフスキーと手を結び、資金援助を受ける。99年、ハッターブ司令官とともに隣国ダゲスタンに侵攻。2002年夏にはこれまでのいきさつを不問としたマスハドフ大統領との共闘を宣言するが、10月23日のモスクワ劇場占拠事件後、事件の責任を取るとしてふたたび陣営を離れた。その後の12月27日にグロズヌイで発生した親ロシア政権の政府庁舎爆破事件を自ら組織したと声明し、事件への不関与を声明したマスハドフ政権中央との路線の違いを明らかにした。マスハドフとの不一致はこの後同様のパターンが繰り返されている。
一定の軍事的資質を持ち、チェチェンの戦局を左右する人物と推察されるが、バサーエフの行動はチェチェンにとって裏目に出ることが多い。常にロシアを利用しようとし、結果としてロシアに利用されているのがバサーエフではないだろうか。
「われわれは自由である権利のために闘っている」
シャミーリ・バサーエフ野戦司令官インタビュー
Shamil Basayev: Chechen warlord
BBCの人物情報。Tom de Waalによる