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(回答先: もし、ご説明頂けないのであるのなら。 投稿者 haru 日時 2004 年 11 月 02 日 18:58:51)
haruさん どうもです。
>意味のない言葉は、使わないで頂きたく思います。
私は日本語を使っている、しかし日本語の文法を理解して一つ一つの単語の意味や概念を厳密に定義して話しているわけではありません。つまり何が正しい物言い(日本語として)を説明することはできません。いわばなぜ自転車に乗れるのかを言語化することは困難なことと同じです。何が正しいかを言語的に説明は出来ないが、子どもや外国人が「変な日本語」を話すと笑うわけです。それは普通こうだろうとか。しかし(しつこいですが)その普通というのを概念として説明することは困難でしょう。「いやー普通は普通だよ」という循環論法になるのがオチです。
対話する前に「概念規定をきちんとしないと不毛だ」とおっしゃる方もおられます。大変結構です。でもホントにできますか?概念を説明するには概念の助けが必要です。その概念を定義するためにはまたちがう概念を....と悪無限になりませんか。第一私達は日常そんなことはしていませんね。
「いや、そんなことはない、目の前のモノを指差して『これをコーヒーカップと呼ぼう』と合意すればいいんだ」というのはかなり有効ですね。しかしコーヒーカップのとなりにドーナッツを置いたとする、するとAさんは「これもコーヒーカップだ」と言うかもしれない。なぜなら「丸くて穴があいているから」(笑)つまり事象がどのように概念化(シンボル化)されるのかというのは、その過程だけでは決定不能なわけです。だから「対話」が必要なのではないかと思っています。
もちろん対話が漸進的で非可逆的なものだとオメデたく考えているわけではありません。詰めの土壇場で「えーっこんな基本的な事も合意していなかったのか」と同床異夢に水をぶっ掛けられるのもありがちな話ではありますが。
ジジイの説教モードはこの辺にして本題ですが、私はここ4〜500年の「近代」というものをどう考えるかに関わってくる問題であると思っています。特に日本的文脈だと天皇制の問題をはずすことはできないので間口が広すぎて途方にくれます。
今読みかけの本ですが『脱商品化の時代 アメリカン・パワーの衰退と来るべき世界』I.ウォーラーステイン からネタ振り(笑)で若干引用します。
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(スペイン)皇帝は当初、ラス・カサスの議論に傾いて、彼をインディオ保護官とした。しかしその後になっ て皇帝は考え直し、一五五〇年、ヴァリャドリードに特別会議を召集して、ラス・カサスと皇帝のもうひとりの助言者であったフアン・ジナス・デ・セプルヴェーダとを論争させ、以下の点について、意見を求めた。セプルヴェーダは、ラス・カサスに頑強に反対して、ラス・カサスが異議を唱えたようなインディオの扱いは正当なものであるとする四つの議論を呈示した。〔第一色彼らは野蛮であり、したがってその本性にかなった状態は、より文明化された者に服従している状態である。〔第二に〕彼らは偶像崇拝の徒であり、人身供儀を行っている。このような自然法に、反する罪をやめさせるための干渉は必要である。[第三に]無垢の生命をすくうための干渉は正当である。[第四に]干渉は、キリスト教の伝道の円滑化し資する。このような議論は信じがたいほど現代的なものであるように思われる。
キリスト教という語のかわりに民主主義という語を入れるだけで、そっくり今日聞かれる議論そのままである。
上の議論に反対して、ラス・カサスは次のように主張した。すなわち、いかなる人びとも、彼らが文化的に劣等であるとの予断を根拠に、他の人びとに強制的に従属させられるということはあってはならない。人は、当人がそれを罪であると気がついていないような罪を犯していることを理由に、その人を罰することはできない。人が無垢の人びとを救うことが許されるというのは、その救いの過程で、さらに多くの危害が他の人びとに加えられることがない場合にしか、道徳的に正当化できない。キリスト教が剣によって広められることは、あってはならない。この議論もまた、信じがたいほど現代的な響きがする。
右のようなことを根拠として、ラス・カサスを、最後のコムネーロスであると考えるべきだという者もいる。コムネーロスについての研究は乏しいが、十六世紀の最初の三分の一の時期に、スペインで起こった最初の大規模な社会的抗議運動である。その運動は、民主的であると同時に共同体主義的であった。ラス・カサスが論じていることの含意は、まさにスペイン帝国の基礎を疑問に付すものであり、実際、恐らくだからこそ、カール五世は、当初ラス・カサスに与えていた支持を撤回したのだと思われる。けだし、ラス・カサスは、野蛮とはなにかについての考え方を論ずる際に、「支配すべき野蛮人がどこにいるのかを示せるものは、誰もいない」と強く主張し、スペイン人に対して、彼らがローマ人にどのような扱いを受けたかを想起せよと促している。しかし、ラス・カサスは、実際には、単に、「良い」植民地化を理論化しただけであり、「エンコミエンダ制の上に築かれた植民地主義システムの問題にかわる解決案を、その生の最後まで飽くことなく提起しつづけた」改革者であるという議論もある。
ヴァリャドリード会議のこの大論争の何がとんでもないといって、この会議で結局何が決まったのかが、だれにも確とわからないということである。これは、ある意味では、近代世界システムを象徴することである。いったい、われわれはなにかを決めたことなどあったろうか。そもそもわれ われになにかを決めることなど可能なのだろうか。ラス・カサスは、反人種主義者であり、虐げられた人びとの擁護者であったが、同時に、「良い」植民地の制度化を目指していたのであろうか。いったい、剣による伝道などあったのだろうか、いや、ありえるのだろうか。論理的に一貫しており、全ての議論を終わらせてしまうほど、強力な政治的説得力をもつ、このような問いかけに対する解答が、我々に与えられたことは一度としてない。恐らく、そのような解答など存在しないのである。
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