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(回答先: 連続性と不連続性 投稿者 ODA ウォッチャーズ 日時 2004 年 9 月 24 日 04:03:22)
「現象化においては、差異が既に無い」ことについて
連続と不連続の関係について、本源的な空間は不連続、差異点(便宜的に点と表現する)の集合と考えられる。本来、これら、自身も存在するか、どうか、不明であるが、差異と差異の遭遇、インターフェイス、接触、コンタクトによって、「現象」(現象学的な意味の現象)が生じる。人間の認知は、この現象によってのみ可能であるが、現象を認識しているときは、個別の「差異(点)」の存在は、実証できない。
これは、フッサールの「これはパイプではない」で問いかけた命題と同じ事柄を意味している。
パイプの絵は、パイプを指し示している(方向性、指向性)が、パイプではない。では、これは、パイプではない、という言葉の指し示しに、どのような意味(指向性)を求めるのか。
人間の認知形式において、連続性、指向性、擬制を認知している時、つまり、「現象という擬制」に眼を奪われている時には、「本源的な空間に存在する差異(点)」を認識できない。それは、「残像」であり、「過去のもの」(ポストモダン哲学が頻繁に使用するターム)である。
換言すると、差異が存在する間は、連続性が認識できず、「現象化」することで、人間の認識に達した時点では、差異と差異が連結されて、連続的に擬制され、差異は、認知形式としては、存在しない。色即是空という言い方も同じ事を言っているのか?
不連続な空間、不連続な層と「共存」
共存、共生の考え方、存在形式は、不連続空間の存在形式、考え方を前提にしている。存在形式の多様性、差異性を非常に重視することが、共存、共生の前提である。 グローバリズムとは、この差異を、経済や武力で一方的に破壊し、一元化し、連続化する行為だ。
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