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(回答先: 興味を持ったわけなどを簡単に 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 29 日 15:05:35)
…途中で挫折しました…
私はへ〜って思ったのは、今時はこういうのが「試験」に出るんだ!…つまりその、一見柔らかいのかなと見せかけて恐いなーというか?
「○○はかくあるべき」の不自由さから枷を一つ外すというののひとつがジェンダーフリーだと思っていたので、QとAのあいだに押し込まれちゃうとなんか新たな枷をはめられたみたいな…
最近英国の演劇教育のワークを受けたのですが、イギリスは演劇が義務教育の中に入ってるんですね。
そこで幼い頃から「他人の目線でいろいろ想像する」とか「人間や人間の行動…ドラマについて考える」とかやるのですが、講師のかたいわく「イギリスではサービス業等、人と関わる分野の業種で、演劇教育を受けたという事は評価されます」つまりコミニュケーション能力や協調性があるとみなされるということでした。
で、私は、演劇教育で得られるものっていうのは、日本でよくいう「自己表現」とかではなく、いろんな立場に身を置いてみたり、役として意図的に「バイアス」や「フィルター」をつけたり外したりする事で、「自分が今こう感じるのは何に影響を受けているのか?」と問い直したり、新しい視野とか、独自の視点を得る事ができるってことじゃないか、とも思っているのです。…自分で自分をつくってく作業っていうか。
一方、日本でも授業の工夫として、国語だけでなく、いろんな教科にドラマの手法を取り入れようと試みている先生がでてきているようなんですが、その英国人の講師のお話を聞きながら、「もし日本で演劇が義務教育に取り入れられたら…」と想像して「あんまりぞっとしないなあ」と思ったんです。
今の日本だったら「こういう時はこう感じるべきです」なんて、本末転倒の方に進む可能性が大なんじゃないか。よく国語の問題で「この時の主人公の気持ちに丸をつけなさい」という選択問題で、作者が「間違えた」なんていう笑い話もありますが。「事実として読み取れる事」と「事実から推測できうる事」「発見したこと(つまりその先自分の感性で発展させられるドラマの可能性)」っていうのは、ドラマを読み取る上で重要な違いだと思うんですが、なんかそういう国語のテストとかみるとぐちゃぐちゃになってるなという印象を受けます。
「設問がおかしかったら自分が納得のいく答えなんて出せないじゃない?」ってカンジでしょうか。例のジェンダーについての質問もなんか似たようなものを感じて。で、どういう答えが書かれたんだろうなーと興味を持ったんですが。今時の子供はどう思ってるんだろう…(生徒会長云々も設問の文章自体バイアスかかってんじゃないのというニュアンスを私は感じましたが)(女子校ってところがまたオモシロイです。出題者の潜在的な真意が知りたい)
どうもアート畑なもんで、理路整然とした物言いができなくて申し訳ないのですが、あっしらさんや他の方達の書かれたものを興味深く拝見いたしました。(…ま途中で挫折したんですが…すみません)
ついでに、アタックナンバーハーフというタイのオカマたちの映画のサイトで、ドラッグクイーンのなんとかさんが「ジェンダーなんて気ぐるみみたいなもんだから。いくつ衣装を持ってるかって事なんだからさ。」みたいにおっしゃってたのが印象に残っています。(ごらんになりました?私的にはかなりキュートな映画でした。)
ではでは。(話がずれていたらごめんなさい)