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(回答先: 論議版を遡ろうとして… 投稿者 NWX 日時 2004 年 8 月 01 日 23:01:55)
NWXさん、レスありがとうございます。
>で、私は、演劇教育で得られるものっていうのは、日本でよくいう「自己表現」とか
>ではなく、いろんな立場に身を置いてみたり、役として意図的に「バイアス」や
>「フィルター」をつけたり外したりする事で、「自分が今こう感じるのは何に影響を
>受けているのか?」と問い直したり、新しい視野とか、独自の視点を得る事ができ
>るってことじゃないか、とも思っているのです。…自分で自分をつくってく作業って
>いうか。
ひとは、他者との関係で何らかの演技をしていると思っています。(相手に応じた自分の見せ方を考えているという意味です。躾られた演技もあれば、自発的な演技もあります)
そのような演技が効を奏することもあれば、逆に、ドツボにはまったり抜き差しならない状況に追い詰められることもあるでしょう。
そのような経験を通じて、より“洗練された”演技を身に付けるひともいれば、他者関係性を遮断したいと思う人も出てきます。
シナリオがありディレクターもいる演劇教育ではなく、即応性を求められ自分でフリを決めなければならない現実でこそ演技に意味があると思っています。
>一方、日本でも授業の工夫として、国語だけでなく、いろんな教科にドラマの手法を
>取り入れようと試みている先生がでてきているようなんですが、その英国人の講師の
>お話を聞きながら、「もし日本で演劇が義務教育に取り入れられたら…」と想像して
>「あんまりぞっとしないなあ」と思ったんです。
>今の日本だったら「こういう時はこう感じるべきです」なんて、本末転倒の方に進む
>可能性が大なんじゃないか。
ボランティアを学校教育で義務化するという摩訶不思議なアイデアが平気で出てくる国ですから、「こういう時はこう感じるべきです」という話になる危険性は大ですね。
企業研修で行われているロールプレイングは、既にその境地に入っています。
>よく国語の問題で「この時の主人公の気持ちに丸をつけなさい」という選択問題で、
>作者が「間違えた」なんていう笑い話もありますが。「事実として読み取れる事」と
>「事実から推測できうる事」「発見したこと(つまりその先自分の感性で発展させら
>れるドラマの可能性)」っていうのは、ドラマを読み取る上で重要な違いだと思うん
>ですが、なんかそういう国語のテストとかみるとぐちゃぐちゃになってるなという印
>象を受けます。
作者が間違えるのも当然で、ある価値観や世界観を持っている出題者(たち)が読み取った主人公の気持ちを当てなさいという試験問題です。
主人公の気持ちを当てることではなく、どのように読み取って主人公の気持ちを察したかか問題だと思っています。
>ついでに、アタックナンバーハーフというタイのオカマたちの映画のサイトで、ド
>ラッグクイーンのなんとかさんが「ジェンダーなんて気ぐるみみたいなもんだから。
>いくつ衣装を持ってるかって事なんだからさ。」みたいにおっしゃってたのが印象に
>残っています。(ごらんになりました?私的にはかなりキュートな映画でした。)
アタックナンバーハーフは、大まかな筋書きを知っているだけで映画は見ていません。
隠さないオカマは達観しているひとが多いので、素直な表現になりますよね。
オカマの知り合いはけっこういますが、わざわざジェンダーを背負い込もうとする人たちだから面白いと思っています。