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19.現在の社会主義的利権民主主義から摂理に依る数理民主主義への転換
前に述べたように摂理は全ての生物に共通のものであり、人間社会に対しては人間の価値観と富の概念をその系として組み込まれている、と説明した。また、この摂理に整合する社会制度として国民幸福指数と国民与点制度の導入が必要であると述べた。しかし、長い歴史をかけ試行錯誤で到達した現在の社会に何も問題が無いのならば、これから大変な努力を費やして摂理にそった社会に変革していく動機は無い。現在の日本社会は、皆不服を言いながら暮らしているとは言え、世界の後進国に比べれば天国みたいな物である。日本の人達は外国に憧れ理想化しているので日本の悪いところばかり気にするが、言葉の障壁を克服して外国に住んで見れば外国の悪いところが目に付くようになり、日本の方が未だましだった事に気がつく。それでは何故日本を根本的に変革する必要があるのだろうか。
19−1.国民全員への説得運動
現在の日米欧諸国の知識人の間で、何もかも行き詰まって来た、という漠然とした恐怖感が漂っている。これを社会制度の疲労と表現されているが、こういった社会の将来に対する不安感は、経済成長の停滞、局地戦争の頻発、テロの横行、といった観察できる症状の悪化もさる事ながら、民主主義と自由主義を掲げて世界にお説教を繰り返していたアメリカ自身がキリスト教原理主義に傾き、なし崩しに独裁制に向ってファッショ化してしまった事が大きな原因であろう。即ち、世界の人々は希望の星を見失ってしまったのである。
それでは問題は単純に精神的、心理的な物かと言えばそうでは無い。人類は天然資源の枯渇が近未来に生じる事を知っているし、環境破壊は既にかなり進捗してしまった。地球の大きさが限られているのだから、人口は或る水準で増加をゼロにせざるを得ない。そういった平衡状態にある社会に適合した制度を今から考えておかないと、現在の様な成長第一主義が破綻するのは自明の理である事を人類が気づき始めたのである。
従って、知識人が為すべき事は国民全員に対し、我々は成長社会から平衡社会に移行しつつある事を説明し、それに適した社会制度に向けて今から変革を開始する必然性を説いた大規模な説得運動を開始せねばならない。平衡社会への移行は何も国民に落ち度がある訳では無くて、大自然が要求しているのであり、不可抗力なのである。そして知識人は来るべき平衡社会とはどういう物かを説明する義務がある。
国民全員に対する説得運動に摂理の様な理論を持ち出す必要は全くない。しかし、平衡社会は人間に都合の良い理想ばかりの桃源郷ではなく、出来る事と出来ない事があり、その理由を明確に説明する必要がある。その説明の根拠として摂理の理論が必要なのである。
摂理から出た最も重大な結論は、利権は略奪や詐欺と同等であって富を不当に奪う犯罪である、という事だ。富とは国民が汗水垂らして蓄積したものであり、富の生産より消費の方が大きければ破綻するのは当たり前である。国民は政治家や官僚の利権を取り上げるのには大賛成だろうが、実は国民自身が最大の利権保持者であって、それが国の財政破綻の主な原因である事を説明し、政治家や官僚は全ての利権放棄に応じるから国民も同様に利権放棄に応じなくてはならない事、又社会の全員が利権を放棄しない限り、現在のゆがんだ富の配分を正すことは不可能である事を簡潔明瞭に説明せねばならない。そして、この変革は直ちに始めないと、今まで蓄積した富が、利権争奪競争の結果、急速に消滅し、その後には何も無く、借金しようにも貸してくれる相手が居ない状態になる事を明らかにする。
そして、新たな富の配分は、社会主義的な悪平等とか野蛮な弱肉強食に依るのではなく、摂理に従った国民与点制度とし、その制度下に国民がどの様に日常生活を満足して送っているかを国民幸福指数で常に測定し、政治家はその指数の係数を彼らの社会理念に応じて決定する。そして、その指数を最大化すると思われる政策を打ち出す。すなわち数理民主主義に移行する。この政策には最早新しい利権の創出は許されない。今まで利権の創出の大部分は国民福祉政策で出されたが、前に述べたように、将来の福祉は完全にNPOに任されるので政治家は福祉の実施に関与できず、国民に利権を約束する事は不可能になる。
官僚組織である政府は国民の生存競争を促進するための公平な世話役と審判の役に徹する事を国民に公約する。平衡社会では国民の価値観は国民幸福指数に反映され、官僚達の価値観を国民に押しつける事は出来ない。その理由は官僚の利権は全て取り上げられたからである。戦後新憲法が布告され、官僚は国民の公僕であると宣言されたにも拘わらず日本の社会構造が律令制度と言われて来たのは、官僚が昔からの利権を保持し、国民が生産した富の一部を不当に搾取していたからである。官僚はこの利権を維持するために奔走し、本来国民の公僕である筈の者が、国民を自分達の都合に合わせて支配して来た。
そもそも、この様に日本の官僚が憲法で許される以上に裁量権力を獲得したのは、政治家の知能があまりにもお粗末で、何をするにも官僚の知識を借りなければ政策一つ作れず、演説の草稿すらも書けなかったからである。政治家の仕事とは、企業の為の利権獲得と選挙民への利権提供である、と割り切り、政治理念などは選挙民への利権提供の口実に使われたに過ぎない。もともと、国家と国民は如何にあるべきかという哲学を論理体系を使って組み立てるだけの思考能力が無かった、これが現在の日本政治家が共有する最大の問題点である。そして、国民はその事実を政治家に指摘するだけの知能に欠けていた。
勿論、一部の知識人は各々の政治理念に基づいて政治家を批判して来たが、日本の知識人の政治理念そのものが外国から輸入したものを受け売りしたに過ぎず、自分の哲学を構築し論理的に考え抜いた末に到達した悟りの境地とも言える結論では無いのだ。第1章に既に言及したが、日本の文科系知識人は外国から学んだ知識をただ蓄積したに過ぎず、その知識を使って独自のものを編みだそうとはしなかった。それに反し、理科系知識人は先ず論理体系を理解し、外国から学んだ自然科学を応用して高品質かつ独自の産業品を作れる様になった。この文科系と理科系知識人の成果の差が何に依る物かは自明であろう。論理体系を理解したかしなかったかで結果が大きく違ったのである。
19−2.先ず論理教育から
およそ思考することの出来る人間全ては主観という哲学の卵をもっている。その卵には生まれてからの経験と知識が詰まっているのだが、その卵を暖め孵化させて立派な哲学という成鳥に育てるには論理体系という骨格が必要なのだ。その論理体系は科学者が使う論理体系とは違った形態だが、矛盾のない論理を一段ずつ積み重ねて行くという点では同じである。西欧の知識人はこの論理体系を会得している人が多いから彼らの議論には論理の飛躍が少ない。それに反し、日本の知識人は知識はすばらしく豊富だが、議論に論理の飛躍が非常に多く、本人はそれに気づいていない。
そこで、日本で先ず何よりも先に手を着けねばならないのは、第一章にも述べたように、日本の小学校からの論理教育である。目的は、当然、将来の日本哲学者を養成し、一般人でも飛躍の無い論理的な思考が出来るように訓練することだ。そして、知識は使う為にあるのであって、物知りである事を仲間に自慢する為に頭に詰め込むのでは無い事を徹底的に教える。
論理教育をするには専門の教師が必要である。日本社会の特徴は、何かが流行するとなれば一斉に駆け出す。この特徴を使わない手は無い。これから日本の学校には小学校から高校まで論理教育の専門家を雇います、と広報すればものの2−3年で要員は調達出来るだろう。勿論、最初から熟練した良い先生が出来るわけは無い。しかし、日本人は非常に競争力があるから、ものの10年で欧米を追い越す事が出来るであろう。感情第一主義だった日本人が論理第一主義に変わった時、日本は大変換を成し遂げたと考えて良い。社会を良くするのは感情ではなく論理だからである。
第4章に述べた様に、日本哲学賞を直ちに創設し、毎年1億円の賞金を出して、哲学が日常生活に浸透し、哲学で生活できるようにする。それと同時に日本詭弁賞も創設し、悪い議論の例を公開する。詭弁賞には勿論賞金はつかないが、立派なトロフィーを進呈する。これは有能な弁論家が如何に読者を惑わす事が出来るかを示す為のもので、一般人が議論の判断力を付けるようにする目的である。論題は毎年審査委員会が賞金授与式の後で翌年に使う物を発表する。論文の字数も適宜に制限する必要があるだろう。
19−3.成長社会から平衡社会へ転換の手順を国民に説明する
国民に福祉利権を放棄せよという前に、官僚と政治家は利権を放棄する事を宣言し、先ず目録を作り、目に付く物から順次廃止していくが、この過程を最大限国民に公開しなくてはならない。その間、福祉NPO団体を全国の市町村で組織し、企業から引退した有能な経営者を招聘して、どの様な福祉がその地方で求められているかに応じて事業計画書と予算を作り政府に提出する。これには既に介護事業として全国に展開している物を廃統合しサービスを拡大する事になるだろう。
この際、一切の政治家の介入は禁止されるが公務員は過去の経験を提供するために任意で参加出来る。勿論、公務員が職を辞してNPOに移る事は問題ない。ここで断って置くが、前に引退した経営者にNPOで無給で働いて貰う事を述べたが、無給なのは幹部だけであって、毎日の事務と作業をする人達は勿論有給である。
組織の仕事が非営利であり、予算が国から支給されるから、一種の国営とみなせるが、事業内容については政府や政治家からの干渉は一切受けない。福祉事業が中央からの指令で仕事をする訳でないので、全てが経営幹部達の裁量で決定され、煩雑な報告義務などは一切なくなる。勿論、諸種の安全対策などの規制や会計監査及び施設の抜き打ち検査などは私企業と同様に受ける。
中央集権の官僚制度は権力維持のため地方の出来事の情報を全て中央に集め監督する必要がある。この為、地方公務員は報告書作成に忙殺され、国民へのサービス提供と言う本分がおろそかになる。これを防ぐには現在しきりに議論されている様に国内政治は地方分権化し地方の課税権を強化するのが良いが、中央から指図を受けないからと言って、福祉財源まで地方課税に頼るのは無理があるだろう。
誤解してはいけないのは、この福祉施設は福祉階級の人達が無料で利用できるのであるが、競争階級の人が利用出来ないのでは無く、競争階級の人達は料金を払わねばならないだけである。従って、施設の利用者が無くて遊んでいるという事はあり得ない。勿論、福祉施設が贅沢な設備で豪華な食事や介護サービスを提供する訳では無いが、収容人員に余裕が出た時には競争階級の人達に適正価格で提供して良いという意味である。
福祉施設にはお年寄りだけでなく、色々な事情で若くても競争に疲れて落ちこぼれた人達も居るわけであるから、こういう人達には施設の仕事の一部を分担して貰えばよい。これがホームレス対策にもなる。前にも述べた様に、福祉施設は人の情けを体感させる為に設置された物である事を忘れてはならない。施設の経費を払っている競争階級の人達への感謝の念を常に認識させる努力が必要である。
競争階級の人達は出来得るならば福祉施設の厄介にならずに済むように養老貯蓄をする訳だが、これは個人貯蓄口座であって国が絶対安全の保証をする事、インフレ率+1%の利子がつく事、貯蓄には課税されない事、貯蓄額に上限は無いが全部使い切る前に死亡すれば国が残額を収納する事、失業中は引き出し出来る事、そして今までに払い込んだ年金は妥当な利子をつけて全て新しい養老貯蓄に移せる事を明確に国民に知らせる。
国民から預かった個人養老貯蓄の運用は民間企業に委託するが、委託先は金融企業には限らない。民間の企業と組んで新しい事業や研究開発に出資する事は認めるべきであるが、政府単独での出資は官僚利権の構築に繋がるし、政府の監督責任と背反するので禁止すべきである。投資先の民間企業が出した損失を補填するのは勿論政府の責任で、民間企業と同様に政府担当者の責任を追求される。個人養老貯蓄が民間の貯蓄と異なるのは上に述べたように、貯蓄の使途が制限され、絶対安全を保証される事にある。
19−4.摂理に基づく法制改革
現在の法制度に摂理から得た結論を組み込むのが目的であるが、法制度として最も大きな認識の変化は、如何なる利権も略奪や詐欺と同等であって他人の富を奪う犯罪である、と認める事にある。今までの罪の意識は社会的慣習と特定個人(例えば宗教の教祖)の価値観に頼っていた。これを最も客観的な摂理の述べる真理に根拠を求める。
摂理の章で説明した様に、他人の富を奪う動機は本人の富の生産能力が自分の欲望よりも劣っているからである。従って、富の生産能力以内の欲には法的根拠を与えるが、生産能力以上の欲は認めない。例えば、損失を出している企業の経営者にはボーナスを認めない。不正会計操作により不当な報酬を得た経営者は解雇だけで無く、個人的に弁償義務を負わせる。この様に、当人の富の生産能力以上の欲を認めない、という法的根拠により、様々な社会規範が規定できる。
政治家自身は富の生産者で無いのが普通で、自身が莫大な富の継承者でなければ選挙資金は他からの献金に頼る他無い。献金をする人達は当然その見返りとして利権を要求する。即ち、献金者は政治家に犯罪を強要する事になる。この問題を根本的に解決するには選挙資金は完全に中央又は地方政府の支出でなければならない。
公的選挙資金であれば、当然、立候補者の数を制限する必要が生じる。この為、立候補者の資格試験が必要になる。これには学歴を完全に資格条件から外し、論文の提出と審査員の前での演説試験を課す。課題は立候補者の政治理念の他に、試験当日に与えられた課題についての即席演説を求める。審査基準は候補者の哲学的信念と思想表現力、論理的展開の厳密さと解りやすさで採点する。
審査員は7〜9人の知識人で特定の政党に属さない人達を選び、もし審査員が或る候補者と過去に面識があれば当候補者の審査から退席せねばならない。この目的で、審査委員長は候補者の試験開始前に審査員が候補者と面識が無い旨の宣誓書を取る。もし後日違反が発覚すれば、候補者は失格となる。もし候補者が著名政治家で多数の審査員と面識があり、彼らが退席すれば最低限7名の審査員が確保できない場合も候補者は失格となる。
(続く)