現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ37 > 224.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: Re: ぷち熟女のダメ押しコピペ第五弾 投稿者 ぷち熟女 日時 2004 年 9 月 28 日 19:27:08)
http://d.hatena.ne.jp/i-miya/13000
『i-miyaの日記』より
=======================================
■ 勉強になってるかは知らんが。 10:21
Q
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20030809#p1
東浩紀『不可視なものの世界』朝日新聞社、2000年
なんかオタク議論ばっかしてるきがする最近。基本的にオタク論とか興味はあんま無いのだが、本の類はいっぱいある。どうもサブカル論の大半がオタク論に傾いてる気もする。それは一時のイギリスのサブカル研究がモッズとかパンクに傾き過ぎてたようなもんか?
どの対談でも、基本的には東がオタク文化の新たな可能性とその政治的連帯を訴えてるような気がした。山形浩生が言ってるように、僕も『それは最終的には、ある種の権威付けが欲しいということ?』なんども思った。この本のような、東の呼びかけとかって、実際にオタクの人たちはどう思ってるだろうか?また、村上隆のような人をオタクの人はどう思ってるのだろうか?って考えてみたが、そもそも『実際にオタクの人たち』って誰だ?ってかんじある。そこらへんオタクって言葉を使わず、説明つけんとイカンのです、ハイ。
Unq
■ 東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』読了。 07:37
Q
http://d.hatena.ne.jp/genesis/20040503
本書は、三部構成となっている。第1章は、「オタク系文化」を、ヘーゲル的近代の後にくる「ポストモダン」の存在であるとして解き明かしたもの。オタク文化の源流は、アメリカ的なるものの換骨奪胎にあるとする。
中心となるのは、第2章。近代からポストモダンへの世界像の移行を、ツリー・モデルからデータベース・モデルへと取って代わられたのだとして論証を試みている。すなわち、ポストモダンにおいて消費されるものは、作品(小さな物語)でも世界観(大きな物語)でもなく、文化全体のデータベースを消費することにある(77-78頁)とする。その実証例として、「萌え要素の匿名的集合体」として『デ・ジ・キャラット』、「ウェルメイドな物語=萌え要素の組み合わせの妙」の例としてKey“Air”を挙げている。
思うに、この箇所が本書の難点であろう。でじこや神尾観鈴については的確な分析がなされている。それは、特定の作品論からデータベース・モデルが構築されているということではなかろうか。ブロッコリーやVisualArt’s/Keyの手法をポストモダン的に分析するものとして適切であっても、それがポストモダン社会すべてに通底するものであるとは言えないだろう。東の説くモデルは指向性が強すぎるため、同様な性格を有する『シスター・プリンセス』あたりには応用が効くだろうが、その外に対しては何らかの修正が必要となりそうである。それがデータベース・モデルがそもそも持つ欠陥のせいなのか、現在現れている事象が完全にポストモダン化していないせいなのかは不明だが……
第3章では、データベース消費の観点から多重構造を説明しようとしているが、どうにも精細さを欠く。中心の不存在ということがWWW(ウェブ空間)の最大の特徴であり、それがポストモダンに通じるものであることは間違いない。しかし東的なデータベース・モデルとは、その名前から明らかなように、インターネットの構造から組み立てたモデルではなかったのか。必要十分の関係に成り切れていないように思う。
そして、『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』の作品論へと向かう。しかし、ここでまた先述した本書の問題点が生じている。たしかに“YU-NO”が持つ「システムとして組み込まれた二重構造」を指摘した作品論としては秀逸だが、それを文化全体(汎用的なギャルゲー構造論)に広げようとするところには無理があるのではないか。前章との関係では、剣乃ゆきひろの手法は「萌え要素」の効率的な消費を旨とするデータベース・モデルから遠いところにあるように感じられる。
本書は、随所で実に興味深い指摘を行っており、私が抱えていた積年の疑問にも答えてくれている。例えば、TYPE-MOON『歌月十夜』において原作者(奈須きのこ)のシナリオと公募作品(二次創作)が同列に扱われていたときに覚えた「不安感」は、私の視座にシミュラークル*1 という概念が無く、ポストモダンに到達していなかったためだとすれば理解が可能になる。また、現代芸術家・村上隆に対して持っていた「反感」は、
村上のその実験は、萌え要素のデータベースを理解することなしに、デザインというシミュラークルだけ(まさに表層だけ)を抽出して模倣した、不完全な試みでしかない(94頁)
との説明により氷解した。さらに、先日『マリア様がみてる』を読んでいて「違和感」を感じたのも、多層構造という指摘から自己分析ができる。作者の役割を、深層(設定)と表層(個々の作品)にわけてみれば良い。充実したデータベース(深層)への評価と、目の前にある文章の質(表層)への評価に落差があったにも関わらず、それを同一の作者(今野緒雪)で括ろうとしたから生じたのだろう。
総じて言えば、東浩紀の提起する主張そのものを疑っているわけではない。ただ、東モデルでは1990年代後半における「綾波レイからでじこへ」という表層的な流れの一部しか捉えきれていないように感じられる。そもそも、ポストモダンを表現するモデルが、単一のものであるとは限らないのだし。
正直なところ、東理論の当否を判断するのは私の能力に余る。そこで、極めて主観的な感情を述べておくことにする。ポストモダンな将来がでじこで出来ているのだとしたら、もうしばらく近代が続いていてほしい。
cf.: http://media.excite.co.jp/book/special/bk1/ (ベストセラー本ゲーム化会議)
cf.: http://homepage3.nifty.com/kuroyagisantara/thesis/ (現代日本におけるアニメーションとエンターテイメント小説)
cf.: id:genesis:20031231#c