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高句麗の僧侶画家、曇徴が「金堂壁画」を描いたと伝わる日本の法隆寺で創建当時の物と推定される焼けた壁画片約60点が公開された。
2日、日本の報道によれば、奈良県斑鳩町の教育委員会が最近、法隆寺南大門で発掘した壁画片は、最大のもので縦4センチ、横5センチあり、赤の顔料が比較的鮮かに残っていると伝えた。
専門家らはこれらの壁画片が607年に法隆寺を建立した聖徳太子が考えた仏教の理想世界を描いた壁画の一部で、百済など韓半島から渡った画工集団によって製作された可能性が高いと推定している。
専門家らは「壁画片には女性の上着と蓮華、雲の一部と見られる絵が残っている」とし、「日本の仏教を築いた聖徳太子が考えた仏教の理想世界を描いた絵である可能性が高い」と分析した。
教育委側は 壁画片が金堂や五重塔を中心とする西院の壁画の一部であると推定した。教育委側は今回の 壁画片の発見が670年に法隆寺が焼失したとある日本書紀の記録を裏付ける内容だと説明した。日本書紀には当時の火災で「1棟の建物ものも残らずにすべて燃えた」と記されている。
今回の発掘によって1949年に内部保守工事の際に消失した法隆寺の金堂壁画を高句麗の僧侶画家、曇徴が描いたという根拠はさらに希薄になった。
韓国内では法隆寺の金堂壁画は高句麗の画僧、曇徴の作品だと伝えられてきたが、実際に曇徴が百済を経て日本に向かったのは610年で、火災の後に壁画が製作された7世紀末とは相当な年代差がある。
日本の学界ではこれを 曇徴の作品とは認めておらず、7世紀もしくは8世紀初めに描かれたというのが定説となっている。
日本書紀に記録されている高句麗の僧侶、曇徴は日本に渡って顔料やその他の画具の作り方を教えたという記録からしても、日本の仏教絵画の発展に大きな貢献をしたのは明らかだが、 曇徴が活動した年代として見たり、今回670年に起こった火災に関する物的証拠まで発掘された状況なだけに、これ以上は金堂壁画を製作した画家として考えることは厳しいということだ。
京都教育大学の和田萃教授(古代史専攻) は「今回発掘された壁画片は伽藍壁画の破片で、当時伽藍を建てるのに20〜30年かかったという点を考えた場合、これより後の610年頃には金堂が建てられ、そこに曇徴を含む高句麗の画工集団が描いたという壁画が存在した可能性はある」と話した。
東京=鄭権鉉(チョン・クォンヒョン)特派員 khjung@chosun.com
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/12/02/20041202000054.html