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(回答先: Re: ペルシア人の可能性は? 投稿者 Sirent Tears 日時 2004 年 12 月 03 日 20:08:34)
若草伽藍の建物に描かれていたとみられる壁画の破片(1日、斑鳩町役場)
日本最古の彩色壁画片-焼失裏付け【法隆寺】
http://www.nara-shimbun.com/n_arc/041202/arc041202a.shtml
7世紀初期の建立とされる斑鳩町の法隆寺・若草伽藍(がらん)跡の西方地域の溝跡から、同伽藍の建物に描かれた壁画の一部とみられる破片が多数見つかり1日、調査を担当した同町教委が発表した。この壁画は、同寺の西院伽藍の金堂壁画など既知のものを50―100年近くさかのぼる、飛鳥時代に描かれた国内最古の彩色寺院壁画とみられ、美術史研究の上での画期的な資料として注目される。
広場整備に伴う調査(約110平方メートル)が行われたのは、若草伽藍の中軸線から西へ約105メートル離れた南北に伸びる谷筋。粘土層の上に堆積(たいせき)した砂の層から、上流で遺棄されて流れてきたとみられる百点を超える壁材の破片が、飛鳥様式の瓦片などとともに出土した。
これらの壁材片を精査した結果、西院伽藍金堂の壁画のように下書きのための線刻が認められたことや、彩色部分に同質の顔料が使用されていたことから壁画片と断定された。
壁画片は、上流から流れてきたことを示すように全体的に角が取れた形で、およそ1センチ×1センチから4センチ×5センチまでの大きさ。このうち、図柄らしいものが描かれているものが約20点、彩色が見られるものが約30点確認された。
またエックス線解析で1000から1200度の高熱にさらされたことが判明。ほどんどの壁画片が表面の色が変わるなど変質しているが、その中で白や黄色、暗褐色、青緑などの色彩が認められている。
壁画は、建物内に荘厳さを加える目的で描かれたとみられるが、今のところ伽藍の金堂、塔いずれの建物のものかは不明。何が描かれていたのかもはっきりしていない。ただ、現在確認できる破片の図柄の大きさなどから、画面に描かれた一つひとつの絵柄は大きなものではなかったと推定。小さな絵柄をいくつも描き集めた、仏教説話的要素を持った仏教絵画の可能性が指摘されている。
壁画を描いた人物についても特定できないが、若草伽藍再建当時の7世紀初期には存在したとされる壁画を描く渡来系の技術集団がかかわったのではないかと考えられている。
焼けた壁画片や瓦の出土から現伽藍の先行伽藍の火災焼失がはっきりしたことで、法隆寺再建非再建論争にも一石を投じることに。若草伽藍の寺域の西限に関する議論も活発になるとみられ、美術史のみならず建築学、文献史学の研究進展も注目される。
現地説明会は4、5日の両日午前10時から午後3時まで。現場近くの法隆寺iセンターで出土遺物が展示される。
【法隆寺・大野玄妙管長の話】今回の発掘成果を踏まえ、今後法隆寺の歴史の研究がさらに進み、諸問題の解決につながることを期待しております。
【百橋明穂神戸大教授(美術史)の話】(描かれた絵は)西院伽藍金堂の壁画のように全体が一つのストーリーを表しているものではないだろう。個々のモチーフが小さいもののようなので、中宮寺の天寿国繍帳のように小さい図柄を集めて描いた仏教絵画ではないか。
(2004.12.2 奈良新聞)
太子も見た仏教画?-天寿国繍帳と類似性【法隆寺の彩色壁画片】
http://www.nara-shimbun.com/n_arc/041202/arc041202b.shtml
若草伽藍(斑鳩寺)に壁画があったことが分かり、研究者の間に大きな波紋が広がっている。出土した壁画片が小さく、何が描かれていたかは判明しないが、さまざまな推論が出ている。
日本書紀の中に、寺造り技術集団として「画工白加(はっか)」の名や「黄書画師(きみのえし)・山背画師(やましろのえし)を定む」の記事があり、飛鳥時代の寺院造りに画を描く技術者がいたことは推測されていた。
町田章・奈良文化財研究所は「当時、朝鮮半島から仏師や絵師など仏教技術者がワンセットで渡ってきたはず。若草伽藍にも壁画があったことは想像できたが、実際にあったのがわかったことは古代寺院研究上意義深い」と強調。早稲田大学の大橋一章教授(東洋美術史)は、「壁画は信仰の対象ではなく、堂内の荘厳さを高めるために飾り立てたものだろう」とする。
滋賀県立大学の菅谷文則教授(考古学)は「西暦600年に創建された百済(現在韓国南西部)の弥勒寺や、その隣にあった帝釈寺から出土した壁画片と非常に良く似ている。時代もほぼ同じで、強い影響を受けていたことが想像できる」との見方を示す。
図柄の判断し難いが、仏教的なものであることで研究者の見方は一致している。
神戸大学の百橋明穂教授(美術史)は「個々の絵柄は小さいもので、法隆寺金堂壁画に描かれた浄土図のような大きな構図ではなかったのでは」と推測。「中国の南北・隋時代には細かな絵柄で、説話的な画が多った」として、壁画とほぼ同時代の比較対象に中宮寺の「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を挙げる。百橋教授は「推測の域を超えないが壁画片の中には、繍帳にも描かれたレンゲ模様や女性のスカートに見える物もある」とする。
これに対し、帝塚山大学の森郁夫・考古学研究所長(歴史考古学)は「若草伽藍は聖徳太子が在世中に描かれたもので、太子の菩提を弔うために作られた天寿国繍帳とは違うはず」とし、「飛鳥から白鳳に様式が変わっても、モチーフは同じではないか」と現在の金堂壁画と同様な浄土図を推測している。
【天寿国繍帳】聖徳太子の死後、妃の発願で推古30(622)年に完成した浄土世界を描いた飛鳥時代の刺しゅう仏画。人物や亀甲文、菩薩、鳳凰(ほうおう)、建物等が黄や赤、緑の糸で刺しゅうされ、もとは2メートル×4メートルほどの帳(とばり)が二帳あったとされる。後に中宮寺の尼僧が13世紀後半に発見し、復元。現存するのは約89センチ×約83センチの大きさで、元来の刺しゅうと鎌倉期の刺しゅうがつづり合わされている。
(2004.12.2 奈良新聞)
「再建論争」再燃へ-寺域広がる可能性も
http://www.nara-shimbun.com/n_arc/041202/arc041202c.shtml
高温で焼かれた壁画片や瓦などが多数出土した斑鳩町の法隆寺。日本最古の壁画片の発見とともに、日本書紀に記された法隆寺(斑鳩寺)の焼失が裏づけられたことは重要な成果だといえる。若草伽藍の寺域が従来の説よりも大きくなる可能性もあり、明治時代以来約100年間続く「法隆寺再建・非再建論争」に大きな影響を与えそうだ。
現在の建物は焼失後に再建されたとする「再建説」と、飛鳥時代の建築様式などから創建当時の建物とする「非再建説」とで論争が繰り広げられてきた。
昭和14年の故・石田茂作氏らによる発掘調査で、現在の西院伽藍の南東に「若草伽藍」の遺構を確認。再建されたことがほぼ確定的になったが、昭和43、44年の文化庁による調査でも明確に焼失を示す出土遺物はなかった。
今回、出土した焼けた瓦や壁画片は、天智9(670)年に火災に遭い、一屋も残さず焼失したとする日本書紀の記述を明確に裏付ける。網干善教・関西大学名誉教授も「焼失したことが明確になり、再建説が強まったのでは」との見方を示す。
だが、今年7月に奈良文化財研究所が発表した年輪年代法による測定結果で、現在の西院伽藍の金堂に使われている木材が、焼失以前の668―669年ごろに伐採されたものであることが判明。若草伽藍の焼失以前に、現在の西院伽藍の建設が始まったとする「新再建説(二寺併立説)を裏付けるものとして話題を呼んだ。
今回の発掘調査では、従来考えられていたよりも約60メートル西側に寺域西限の溝がくる可能性もある。森郁夫・帝塚山大学考古学研究所長は「若草伽藍の規模を確定する貴重な発見。西側に寺域が広くなることで、現在の西院と重複することになる」とし、「焼け残った部材も使って、現在の金堂を建てたのでは」と二寺併立を否定する。
焼失年代も諸説あり、「法隆寺論争」は今後も議論が続きそうだ。
(2004.12.2 奈良新聞)