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(回答先: アレックス・ジョーンズ インタビュー スタンリー・ヒルトン 【ジェラス・ゲイ】 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 9 月 09 日 07:11:08)
「目撃者ジェイムズ・ウッズ」?
http://ayano14.hp.infoseek.co.jp/james_woods1.jpg
主な出演作品
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」
「殺しのベストセラー」
「カジノ」
「コンタクト」
「ジョンQ最後の決断」
「ヴァンパイア 最後の聖戦」
「ホロコースト −戦争と家族−」(TV)
最近は
http://www.usanetwork.com/movies/rudy/synopsis.html
みたいなゲロゲロな映画に出ているらしい。
ジェイムズ・ウッズ
http://anarchy.k2.tku.ac.jp/japanese/books/cinemapolitica/c-121.html
ジェイムズ・ウッズを評したいくつかの言葉のなかで、なるほどと思ったのは、批評家のデイヴィッド・デンビー
が、「彼はパンクのようにしゃべる」と言った言葉だった。デンビーは、ハリウッドの映画システムを口汚くこき
おろすウッズの口振りを評してこう言ったのであって、それほど深い意味ではなかったのだが、ジェイムズ・ウッズ
をパンク・カルチャーのなかに位置づけてみるのもおもしろいだろう。
年齢からすると、ウッズはパンクの世代ではない。彼はけっこう歳をくっていて、今年で四十歳になる。わたしは
、彼はまだ三十代だと思っていた。ジョニー・ロットンよりも少し年上ぐらいだとしても決して不自然ではない。
ウッズには、どこかに年齢不詳のところがある。
もっとも、パンク・カルチャーには、年齢を越えたところがあり、それは、従来のユース・カルチャーとは違っている。
セックス・ピストルズと一緒に歌った大列車強盗のロニー・ビッグスは、年齢的にはふけていたが、彼は本物のパンク
だった。アラン・タネールの『光年のかなた』でトレヴァー・ハワードが演じた偏屈な老人も、その文化的アドレスを
指定するとすれば、パンクである。また、『マックス・ヘッドルーム』には、この二人をもっとしたたかにしたような
パンク老人が登場して海賊テレビ放送をやっている。
パンク・カルチャーは、七〇年代の後半にそのピークを迎えるが、この時代に何か新しいことを経験した者にとって、
その経験はどこかでパンクと結び付いている。ジェイムズ・ウッズが映画的キャリアを築いたのも、七〇年代だった。
彼が演劇に首を突っ込むのは六〇年代の終わりごろだったが、今日見られるような彼の方向が明確になるのは、七〇年代
になってからである。
パンクの源流はヨーロッパであって、それはアメリカらしいアメリカとはどこか異質なものを持っている。それは社会
の底辺と結びついているが、単なる物質的貧しさではない。経済的な貧しさに触発されて生まれるのはビートルズの
ような音楽であって、パンクではない。パンクは、「ノー・フューチャー」へのいらだちから生まれたのであり、働く
ことそのもの、愛そのものへの懐疑によって支えられている。それは、どちらへ転んでも楽天性から脱出できないアメリカ
では生まれにくいものだ。
ウッズから漂ってくるものが、「ヨーロッパ的」であるとは言えないとしても、彼のキャリアはいわゆる「アメリカ的
成功物語」の主人公のそれとは大分異なっている。一応、経済的な貧しさの点ではそうした主人公の資格は十分であった。
「両親を除けば、おれほど貧乏に育ったやつはいないだろう」と彼は回想している。
父親は職業軍人だった。自分ではほとんど仕事のことを口にせず、ときどき、行き先も告げずに数カ月家をあけた。諜報
の仕事をしていたのではないかとウッズは推測する。が、彼が十二歳のとき、父親は病死し、母親は、彼と二歳の弟を
女手一つで育てなければならなくなった。「配管もない家」で社会福祉にすがって生活していたのは、そのころのこと
だろう。とはいえ、学校の先生をしていた母親は、やがて無一文から保育園を起こす。だから、ウッズの生い立ちを
極貧生活から自力ではい上がったアメリカ的成功者のパターンにあてはめることは無理なのである。
貧しくても家にはつねに本があり、父親は軍人でもどこかで自分の仕事に距離を置いている。ユダヤ人やクエーカー教徒
の多い東部のカソリック家庭。父親も母親も子供達を愛したが、父の死で単親家庭となる。さまざまな点でゆらぎのある
環境。ここには、パンクが純粋培養される土壌があると言えなくもない。
ジェイムズ・ウッズの学業成績は優秀で最終的にMITに入り、学費免除(フル・スカラシップ)になる。MITに入る
まえはUCLAにいた。その寮で彼は、友達と走り競争をしてガラスのドアーに突っ込み、腕の動脈を切る大怪我をして、
九時間半の手術を受けた。
そのころには彼はすでに演劇にコミットしており、ギブスをはめたまま舞台に立ち、その演技が認められて賞を受けている。
そのころは、彼はまだMITに入るつもりはなく、故郷ロード・アイランドの議員から空軍士官学校への入学を推薦された
ときには、大いに心が動いたという。しかし、父が死の床で言い残したことは、「軍人には絶対になるな」ということだった。
これは、実に印象的な話である。軍人の父親は、非常に醒めた目で自分の仕事とアメリカの現実を見ていたのである。アメリカは、
以後、冷戦から「熱い戦争」に転じていく。
MITでウッズは政治学を学ぶ。しかし彼は、MITを最後の学期にやめてしまう。ウッズによれば、「MITは、ヴェトナム
戦争を完全に弁護していた。だからおれは、人々の殺し方についての学位なんかもらうのはやめようと決めた」
のだという。
こうした彼の半生のなかから浮かんでくるのは、貧しさからはいあがった苦学生ではむろんないし、エリート校で出世
コースを歩む秀才でもなく、といってまた、六〇年代には一つの流行ですらあった「ニューレフト」でもない。
いかなる場合にも、ウッズには醒めた批判的意識がつきまとっている。
−略−