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作家 辺見庸さん講演会
進む「自明性の崩壊」と「記憶の破壊」
平和を求め、一人ひとりが責任を
http://www.kyuchiren.com/etc/030920.htm
(主催 新聞労連 九州地方連合 http://www.kyuchiren.com/)
ルポ「もの食う人びと」などで知られる作家辺見庸さんの講演会が9月20日、佐賀市で開かれた。佐賀県教職員組合や佐賀大学教職員組合、市民団体、佐賀新聞労組、佐賀マスコミ共闘会議など12団体が主催し、約550人が聴講した。
演題「どこまでも戦争の理論を拒むために」
辺見庸さん講演会要旨
最近、東京近郊で見た「風景」から話をしたい。私は、埼玉県に住んでいるが、ある駅で興味深い風景を見た。とっても柔和な顔をしたお父さん、お母さんたちが駅頭に集まっていた。駅頭に集まっている人たちと言えば、大抵は右翼の街宣車であったり、労働組合の人たちである。そういう人たちは、ひと目見れば分かるが、そこにいた人たちは声を荒げるわけでもなく、静かに道行く人に語りかけていた。何かを一生懸命、訴えていた。何を訴えていたのかと言うと、教育基本法改定である。学級崩壊が進み、子どもの凶悪事件が起きている―これらの諸悪の根源は、教育基本法と教職員組合にあると。恐らく、動員をかけられたわけでもなく、みんなで話し合って駅に繰り出したのではないかと思われるが、私はちょっとしたショックを受けた。
もう一つの風景は、新宿駅の構内である。これも先ほど話したようなお父さん、お母さん数十人が署名を呼び掛けていた。道行く人たちは、次から次へと列をつくって署名に協力していた。署名を訴えるポスターには「ふざけるな北朝鮮」「北朝鮮に経済制裁を」「拉致被害者を救え」と書かれていた。これも毎度、おなじみの人たちがやっていれば何の不思議もない風景であり、私も意に介さなかったかもしれない。
この二つ風景から、この国の地層部から何かがじわじわと変わりつつあると感じた。決して上から動員をかけられたわけでもない。明確な組織があるわけでもない。自発的な意思で全くの善意から、あるいは一つの憂慮から行動に移している。この風景を見て、一つの言葉を思い出した。それは「成熟した資本主義における支配は、民衆の同意に依存するものだ」と。1930年代のファシズムは、ある意味では「彼らのファシズム」「他者のファシズム」であったと思う。国と意見や考えが違えば、強権が発動されるような、いわば分かりやすいファシズムであった。しかし、二つの風景から感じたのものは「彼らのファシズム」ではなくて、「私たちのファシズム」のようなものである。
もう一つ考えたのは「自明性」ということ。自明性とは、あえて説明の必要がないことであるが、この国では戦後民主主義の枠内で、私たちが論議もせずに通り過ごしてきた自明性が音を立てて崩れつつあるのではないのか。東京都の石原知事は、北朝鮮との交渉の窓口になっている外務審議官の家に爆弾のような物が仕掛けられたことをとらえて「仕掛けられて当ったり前だ」と発言した。一般的には、テロ容認発言と批判されているが、そんな話ではない。これは国家テロ容認と言える。もっと言えば暗殺を容認している、あるいはそれを煽っていると言っても過言ではない。これだけの暴言に驚くとともに、政治家とは到底思えないような発言をしながら、いまだに要職に就いていられることである。実際許されている状況がある。また、これを許していることは一体、どういうことを意味しているのかと考えざるを得ない。
今回の暴言に対して、マスコミの世論調査でもほぼ半数は、彼の発言を支持している。これだけの発言をしながら、マスコミは執拗にその責任を追及しようとしない。だから石原知事は、その職に居座ることができるという仕組みになっていることにあらためて驚かざるを得ない。先ほど言った自明性。政治家がこんな発言をしたら、その職から降りるべきだという常識、自明性がここでも崩れている。
しかし自明性は崩壊しつつあるけど、いまの社会で表面的に大きな乱れはない。「乱調」の反対語は「諧調(かいちょう)」。諧調とはバランス、整った調子。いまの社会には不気味なほどの諧調がある。国家と民衆とマスコミの三者の不気味な諧調がある。戦後59年になろうとしている中、反動政治が完成、あるいは円熟の域に達しつつある。身の回りや教育現場などで不可思議な出来事に起きている。このことは、私たちが、とうの昔に断ち切ったと思っていた悪しき過去が、いまも存続しているということである。そのことに気づかざるを得ない。あえて言わなくて良かったことがなくなってきている。自明性の崩壊、喪失が進んでいる。
マスコミは権力から独立し、監視するウオッチドック(番犬)でなければいけないといわれてきた。少数意見も尊重しなければならない。しかし、マスコミは、権力側が飼っている番犬になってしまった。権力に楯突く人をチェックする番犬に成り下がってしまった。マスコミ自体が権力化している。特に小泉政権では、見事なほどにマスコミを操作し、操作するだけでなく、権力自らがメディアの機能、つまり発信能力を持ちつつある。「権力化するマスコミ」と「メディア化する権力」。この2つが渾然一体となった大きな権力構造をつくりつつある。これも自明性の崩壊である。
この自明性の崩壊した後に何が来つつあるのか、きちんと正視する必要がある。これら自明性の崩壊を仔細に見ていくと、はっきりしてくるものがある。ある意味では、男性父権主義の台頭である。あるいは家長制度が復権しつつある。もう一つが愛国心。この3つはファシズム時代や戦争の時代に特有の現象であり、注意した方がいい。福岡の小学校で通知表に国を愛する心を評価するというとんでもない話があったが、いつの間にか全国200校以上に広がっている。これもじわじわと風景が変わりつつある自明性の崩壊の証拠ではないか。これらを注意深く見ていくと、いま何かが進んでいる。それは、私たちの精神、心、内面が動員され、統制されつつあるということである。
日朝首脳会談から1年。この1年間の変化は、戦後58年の中でも、自明性の崩壊が最も進んだ1年でもあった。それは内面の動員・統率であり、心の要因がかなり入っている。一つの方向を見出すなら戦争へ、戦争へと向かっている。愛国心の高揚とも関連するが、9・17の日朝首脳会談で日本人拉致事件の一端が明らかになった以降、北朝鮮に対する国民的な憤りが高まった。高まったと言うより組織されたと言ってもいいと思う。それは政府だけでなく、マスコミを挙げて高まった。在日コリアンに対する途方もない仕打ち、迫害も行われた。チマチョゴリを着ているだけで石を投げつけられる。ほとんど戦時下と言ってもいいような状況である。なぜ、それがいけないことなのか、民族の如何にかかわらず共に助け合って暮らすことがいかに大切なことなのか、だれでも分かるはずである。それが自明であり、真理であるのに、覆されている。
日本がかつて朝鮮半島を植民地化していた時、7つを奪ったと言われている。国家元首、国家主権、領土、資源、言語、人命、姓名。この「日帝の7奪」は、南北を問わず朝鮮半島では常識になっている。歴史的事実であるにもかかわらず、いまや覆されつつある。朝鮮総督府は、朝鮮半島のインフラを整備したなど功績論が台頭している。人命を奪っただけでなく、民族の誇り、民族である自体を完全に消去された屈辱、痛みを、この国は一度として考えたことがあるのか。
いま進んでいるのは「記憶の破壊」である。私たちが覚え、それを子どもたちに継承していくという非常に大事な記憶が破壊され、ねつ造が次から次へと進んでいる。東大教授の姜尚中さんはこう言っている。記憶の破壊、ねつ造が進む中、「私たちは永遠の現代に閉じ込められている」と。例えば、日本人拉致事件が、どういう歴史的な経緯の中で起きたのか、全く継承されていない。過去の歴史を教えないで、現代しか語らないと指摘している。全く、その通りである。記憶の破壊と同時に、心の動員・統制が進み、それがどうやら一点に向かっている。それはたぶん戦争だろう。
朝鮮戦争で400万人が死亡したといわれている。しかも連日、日本から爆撃機が飛んでいった。しかし当時、朝鮮戦争への反戦運動はほとんどなかった。この事実に驚かざるを得ない。隣の国で戦争が起きているのに、気が付かなかった。あるいは気にも止めなかったという精神の構造は一体何なのか。自分の国で戦争がなければそれでいいんだという「自分勝手な精神構造」。遠い他者の痛みを考えようとしない。今日でも、その自分勝手な精神構造が私たちにあるのではないのか。
イラク戦争前に、全世界で1000万人を超える反戦運動が起こった。日本でもここ数年にはない盛り上がりをみせた。初めて経験したという若い人たちもいた。しかしイラク戦争には反対するけど、有事法制反対までにはいかなった。また日本より人口が少ないイギリスやスペインなどに比べると、反戦運動に参加する人数が少なかった。遠い他者の痛みを感じる心の少なさは、大きな問題である。
聞き慣れない言葉かもしれないが、米韓合同軍の作戦計画がある。「作戦計画5027」と呼ばれ、1994年の核危機の時に作られた具体的な戦争計画である。これが昨年、大きく改定されたという。北朝鮮に対して先制攻撃までもできるように改定したといわれている。米の統合参謀本部の予測によると、開戦から90日で米国の死傷者は52000 人、韓国側は49万人。朝鮮半島全体に拡大すると米国の犠牲者は8〜10万人、韓国側は軍民合わせて100万人に達すると予測している。この作戦計画5027は九州と密接な関係がある。佐世保での艦船配備などが細部まで決められている。今度の有事法制も、この作戦計画に相応しているといわれている。
6月に有事3法が成立した。メディア規制の個人情報保護法も通った。あのときのショック、絶望感を忘れてはいけない。もっと恐ろしいものが、いま現れようとしている。このままでは恐らく“言い値”で通っていくだろう。自民党憲法調査会の憲法改正素案。改正素案には、国民は国家を防衛する義務があると書いてある。翻訳すると、徴兵制である。陸海空3軍その他の戦力を保有するともある。つまり国防軍をつくろうとしている。集団的自衛権の行使を憲法上認めるように変えようとしている。これまで話したように“来たるべき朝鮮半島での戦争”では、日本はかつての朝鮮戦争に比べてもっと主体的に関わっていくことになるだろう。そのために、国民保護法制、有事法制が作られた。憲法改正の話に戻すと、いまのままでは間違いなく通るだろう。石原都知事の発言を許し、マスメディアも事実上容認している世の中で、私たちは憲法改悪に対して、どう反対していけるのか。そして、この無関心はなんだろうか。何も反対運動が起こっていない。
言論の自由が保障されていると言われているが、実はあまり保障されていないのではないかと思う。新聞記者が書いた記事に対して、警察が来て具体的に規制はしていない。強権が発動されたこともない。しかし言論の自由を規制するものがある。一体、誰なのか。実は私たち自身である。自分が自分を規制している。これはマスコミだけでなく、教育分野でも、大学でも、作家たちにも言えることだ。
冒頭に話したように、日常の中に潜む「私たちのファシズム」に対して、私たちはどう抗していけばいいのか。私は、先ほどから「風景」という言葉を使って話してきた。風景は私たち一人ひとりの「総和」である。それなら、せめて自分がつくる風景に関しては責任を持とうと思う。戦争と名のつくもの、あるいは戦争に関連するものを立ち入らせない。少しでもいい風景にするために、色合いを変えるために、これまで言わなかったこと、あきらめていたことを敢えて言う。なぜ平和が大事なのか。疲れるかもしれないけど、言い続ける。自分の中で再構築することが必要な時代にきているのではないか。そして大事なのは、ギブアップしないことである。