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(回答先: 真の愛国主義者・民族主義者とファシスト、ユダヤとポパー 投稿者 ジャック・どんどん 日時 2004 年 6 月 08 日 21:29:30)
グールドについては、題名に惹かれて『人間の測りまちがい』を10数年前に読んだだけで内容の記憶もほとんどないので言及できません。
生物の多様性に関する見方は、自然淘汰的進化論にも、超越神的創造説にも与していません。
種の識別そのものが人の識別力に拠るものであって根源的存在としてはまったく違わないという冗談もアリです。(生物という存在のコップのなかの嵐であり、その一部である人がそれを眺めてあれこれ言っているだけというオチになります)
自然淘汰説は、惑星はなぜ恒星の周りを回っているのかや尻尾は何のために付いていると同種の解説(物語)でしかないものだと思っています。(「人間という自然による淘汰説」や「棲み分けを侵害する存在する人間説」はけっこう有効だとは思っていますが(笑))
ことさら“進化”という考え方を持ち込まなくなくとも、“分離”や“変容”が種の多様性を人に認識させているという見方もできます。
創造説を進化させれば(笑)、進化論にも対応できるはずです。なぜなら、単細胞の原生物まで戻っても、それはどうやって発生したのか(化学的な発生論をもってしても同じ問いを投げ掛けられます)?という問いを発しつつ、神はその創造において以降の生物的多様性につながる仕掛けも創造したという説明ができるからです。
進化論にユダヤ的な要素があるとしたら、人は神に似せて作られたという「人的存在の至高性」をあげることができます。
ヘーゲルとマルクスの転倒関係と同じように、神が自分に似せて創造したすばらしい存在という観念が、自然唯物論的に人間はもっとも進化した存在という観念にひっくり返っただけだとも言えます。
(体系的論を組み上げて真理だと言うのもユダヤ的と言えるかもしれません)
カール・ポパーも、我々が今日的日本の考えから自由でいられなかったように、出自であるユダヤ的考えから自由ではいられなかったと思っています。