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(回答先: Re: あたくしの無知 投稿者 M 日時 2004 年 4 月 14 日 19:40:32)
Mさま、
こんなの見つけましたが。
いきなりアショカ王が出て来ます。
この程度では掟を破っていることにはならないんですか。
さあさあさあ。何で弘法大師がアショカ王以来の伝統にこだわったわけなんですか。
しかし・・・:
『アショーカ王以来の伝統に従って、法によって国の平和が護られ、その光が世界の隅々にまでいきわたるように』
『法によって国の平和が護られ』、だもんね。
今の世界でまだ出来ていないことを、アショカ王はちゃんとやっていたわけなんですか。
本当?
これ、ちょっと勉強しなきゃいけませんね。
ではまた、ごきげんよう。
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http://www.geocities.jp/kosaimitsuji/toji.htm
延暦13年(794)桓武天皇は、動乱の中に奈良から長岡京を経て平安京へ都を遷され、羅城門の東西にそれぞれ大寺を置かれました。現在の京都は御所をはじめとして大部分が東方へずれてしまっていますが東寺はもとの場所にそのまま残っていて史蹟(ユネスコ世界遺産にも)に指定されています。東寺は左寺とも申しますが、本格的に活動を始めたのは弘法大師の造営以後であります。このお寺にはアショーカ王以来の伝統に従って、法によって国の平和が護られ、その光が世界の隅々にまでいきわたるようにということと、それぞれの思想が共に侵さず共存していく原理を見出し伝え、共々に力を合わせ実現されていくようにとの大師の願いが込められています。東寺の伽藍は南大門を入って金堂・講堂、少し隔てて食堂が一直線に置かれ、左右に五重塔と灌頂院が配されています。塀で区画された境内はそのままマンダラであり浄土であります。我々はそこから様々のメッセージを汲み取ることができます。大師はまた高野山を自らの修禅の場として開かれ、そこで得られた智慧を利他行として東寺で実践されました。生死病死に代表される衆生の苦悩の解決法とその生活への表現が大師の一生でした。
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