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(回答先: Re: 訂正・・ぷち熟女さんへ 投稿者 M 日時 2004 年 4 月 15 日 16:24:59)
訂正までクリックされている方もいるが、そな面白いか?
ぷち熟女さん、すいませんね。元々が鬼の生まれてまして、時々記憶がないのです。
問答?A
>この程度では掟を破っていることにはならないんですか。
掟ではありません。いみじくも本来のこの私メならばおいしい法は独り占めしたい処です。しかしながらかつて弘法大師さまがおっしゃたことは、「それは仏に仇なし、私に遇って遇わぬもの」などとおっしゃられていまあす。それでもお密なるはお約束ごとなのです。ましてや私ごときがおしゃべりしていい事ではありません。
>法によって国の平和が護られ、その光が世界の隅々にまでいきわたるようにということと、それぞれの思想が共に侵さず共存していく原理を見出し伝え、共々に力を合わせ実現されていくようにとの大師の願いが込められています。
東寺の伽藍は南大門を入って金堂・講堂、少し隔てて食堂が一直線に置かれ、左右に五重塔と灌頂院が配されています。塀で区画された境内はそのままマンダラであり浄土であります。我々はそこから様々のメッセージを汲み取ることができます。
前半部は根本であって私も忘れたわけではありません。後半部は・・・(つたない記憶ですが)伽藍が整備復興された時、雅でたおやかな(笑)社会が現出してくる、なる記述に目を通したことがあります・・・。
ここで言われている法というのは、理念理屈上で作りあげた近代法、世上の都合上合成された、理念的整合性を問う法律ではないと思います。仏法による法という意味ではないのでしょうか。
いいのがありました。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/00_01_04.html
Re: アショーカ王の功罪(保存用関連投稿資料)
http://www.asyura2.com/0403/lunchbreak3/msg/162.html
投稿者 M 日時 2004 年 4 月 15 日
引用します
> アショーカ王が、マウリア王朝第三代の王位に就いたのは、西暦前268年のことと言われておりますが、即位8年目にインド史上最大の統一帝国を建設する野望を果たします。しかし、その最後の仕上げであるカリンガ(当時非常に裕福だった)を征服する戦争は悲惨をきわめ、10万人の戦死者を出し、15万人が捕虜となってインド各地に送られ、その数倍の人々が戦禍を被ったとされています。
悲惨な現状を目の当たりにし、アショーカ王は、武力による征服から、法による征服へと政策を転換します。また、統治の理念や事業を法勅として岸壁や石柱に刻み、謎の多いインドの歴史に、ようやく光の当たる事跡を残したわけです
M:武力による征服から、法による征服へ・・・一見、一種の洗脳支配のようにみえ、”彼ら”のよく使う手口ですが・・
>それによりますと、まず、人間や動物に対する不殺生、不障害を述べ、武力行使の中止を宣言します。また、バラモンたちの行う動物を犠牲にする儀式への疑問と、楽しみのための狩猟も差し控えるように述べられます。
次に、両親や長上への尊敬と従順、友人親族への尊敬と正しいとり扱い、宗教者に対する敬意と布施、貧者や身寄りの無い者など弱者の保護、使用人の正しいとり扱いなど、人間関係の倫理の強調します。
M:と、”彼ら”の手口とはまるで正反対であり、なにか教育勅語を思い出したりします。
>そうした他人に対する慈悲の心は、アショーカ王自らも実践し、並木道、休息所、井戸、薬草や施療院の設置、囚人の特赦等を行います。
また、自らは仏教に帰依し、熱心な仏教徒であることを明言し、師と仰ぐ仏教僧がいたことが知られています。
王は仏教の聖地を巡礼し、比丘・比丘尼の理想、実践の道在家者の守る七種の法門も示しています。特に教団の本拠地には、教団の和合を乱す者は還俗して教団を追放するよう警告までしています。
M:国王みずから帰依し、実践されていた、と。泰国の憲法を思い出します。
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続く・・・今日はこれからお仕事ですのでまた明日。