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「琉球弧北端から」第1回
琉球新報 2004年1月3日掲載
■水惑星の血脈に触れて■
書斎の窓から見える黒潮本流のかなたに沖縄があることを、いつもどこかで意識している。二〇年以上、琉球弧最北端に近い島で暮らすうちに、視野は出身地の東京やヤマト中心から、南の島々へ、黒潮ぞいに環太平洋の先住民文化へ、あるいは東シナ海を囲む朝鮮半島や中国へと広がっていった。若いときと違い、心の足どりに体がすぐついていくわけではないが、すでに今生で一番長く住み続ける場所にふさわしく「琉球弧北端人」として世界を眺め、ものを考える自分がいる。
冷戦のピークに多感な小中学生時代を送り、頭上をジェット機の轟音が通り過ぎるたびに、首都への核ミサイル攻撃と思い込んで、次の刹那、溶けて死ぬことを覚悟した。そんな“瞬間戦”体験の反動か、戦争や環境破壊で墓穴を掘らない新しい文化・文明の可能性に賭けて生きることを、二〇歳前に決意していた。いまの言葉でいえば、持続可能な社会の実現を人生の目的に定めたのだ。
学園紛争や精神世界や対抗文化などの波間に国内外を巡り歩いた二〇代の終わり、水との出会いがあった。半砂漠性気候の北カリフォルニア山中で、冬だけの雨や雪から生まれる透明な源流の洗礼を受け、水惑星の血脈に触れた。そして、次の冬には屋久島へ移り住む。千古の森で名高い山岳島が、むしろ水の島であることを了解したのは、住み着いたあとだった。いまも、上流に猿と鹿しかいない山麓の沢水を飲んで暮らしている。
変わらないものと来たるべき変化との境目を探り、人間界と自然界の波打ち際を歩いて、五〇の坂を越えた。みずからの拠って立つ場所が“立場”の源なら、琉球弧北端は私にとって絶妙の境界だったかもしれない。多くの動植物が奄美・屋久島間の渡瀬線で区切られるように、南方島嶼文化と列島本土文化圏、都会的なるものと原初的なるもの、現代と古代、過去と未来、そして洋の東西ばかりか南北(途上国・先住民文化と先進諸国)の世界が交差する。
琉球弧との縁(えにし)は浅くない。二〇代なかばで死別した最初の妻は、奄美出身の祖父母をもつ鹿児島の女(ひと)だった。亡父は海軍の教官つき秘書として、鹿児島の特攻隊基地で終戦を迎えた。寡黙な父の口から聞いた鹿屋、鴨池といった地名は、子ども心に残る。同じ菊水特攻作戦で沖縄への片道航海中、壮絶な最期をとげた戦艦大和は、いまも屋久島の西二〇〇kmあまりの海底に沈んでいる。その前年、沖縄から鹿児島へ向かう学童疎開船対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃で沈められたのも、ここから遠くないトカラ列島悪石島沖だ。だからこそ私は、特攻記念館で涙しながら、憲法の禁ずる海外派兵に踏み出す小泉首相を許せない。
戦後の日本は、「過ちは繰返[原文ママ]しませぬから」と刻まれた広島の誓いを守ってこなかった。繰り返さないためには、過ちの原因と生起を深く分析して、その再発を防ぐ手立てを講じる必要があるのに、広島の誓いも日本国憲法という約束も、たんなる祈りにしてしまった。が、いまからでも遅くはない。私は過ちを繰り返さない道、つまり憲法前文で決意した「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにする」道を選ぶ。それが、特攻隊員や大和の乗組員たちを含め、あの戦争で亡くなったすべての人びとの遺志を継ぐ道だろう。
もうひとつ私の心に刻まれている言葉がある。沖縄戦末期に自決した大田少将の大本営宛て電文結語、「沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」――軍人の表現ではあるけれど、これは生き残る日本人、未来のヤマトンチュへの伝言だ。にもかかわらず、戦後日本は天皇制温存と戦争放棄と引き換えに、沖縄を巨大な米軍基地としてアメリカに差し出した。私たち本土日本人は、沖縄の人びとに二重の恩義を受けている。このことはけっして忘れたくない。
とはいえ、引き続く基地問題にも、右傾化・再軍国化を強める世相にも、自分で打てる確かな手があるわけではなく、やはり窓から望む黒潮本流のかなたに沖縄を想いつつ、忘れてならないことを忘れまいと心新たにするばかり。ただ、心に沖縄があり、広島・長崎があり、パレスチナやアフガニスタンやイラクがあることで、言いにくい言葉を声に出し、隠れていたい自分を人目にさらし、すくむ足を一歩前に出す力が湧いてくる。平和で持続可能な世界を想像/創造しようという、思春期の夢が何度でも蘇る。それはきっと、人類共通の根源的な願いであり、生命そのものの意志なのだ。
[筆者プロフィール]
一九五二年、東京生まれ、屋久島在住の作家・翻訳家。「屋久島水讃歌」、「環太平洋インナーネット紀行」、「非戦」「一万年の旅路」など著訳書多数。
■次の一歩は前へ■
憲法は国の最高法規と呼ばれる。一番レベルが高くて影響力の強い法律という意味だ。その憲法で「陸海空軍その他の戦力」不保持を明記しながら、自衛隊という世界第三位の装備をもつ軍隊があるのでは、国の根っこのところで大ウソをついていることになる。それでも、「自衛」隊だから自国領土の防衛しかしないはずだったのに、とうとう中東の砂漠にまで武器をもって出兵してしまった。そこで引き金を引けば、憲法が「永久にこれを放棄」した「武力の行使」にあたる。何重のウソになるのか――とにかく、これでは憲法より下級の法(つまり憲法以外のすべての法律)を守る意味も義務も失せるだろう。庶民の交通違反は厳しく罰せられるのに、憲法で「憲法を尊重し擁護する義務を負う」(九九条)と定められた総理大臣や政府の役人たちが、憲法そのものを破っても罪に問われないとしたら、だれもが平等にルールを守り合うことで成り立つ法治社会の土台が崩れてしまう。
このように、国の一番高いレベルないし一番根幹で大きな不誠実があると、国民はどんどん不道徳に流される。子どもたちすら、心の底で「なんでもあり」だと見抜いているから、精神的な歯止めがきかないのだ。戦後民主主義の自由放任が日本人をダメにしたのではない。憲法という根本ルールさえねじ曲げる虚偽の日常化が、人間を腐らせるのである。
間違いは、戦後憲法制定まもない一九五〇年にはじまった。朝鮮戦争勃発で日本駐留米軍が手薄になるため、その穴埋めをする国内治安部隊としてマッカーサーが「警察予備隊」(七万五〇〇〇人)の創設を命じた。名目は文字どおり警察のお手伝いだったのに、五二年には「保安隊」になり、五四年にはもう陸海空そろった「自衛隊」(一六万人)へと変身した。この節目ごとに、大多数の国民は憲法違反に反対し、必死の抵抗を試みた。アメリカの押しつけを言うなら、国民が圧倒的に支持した平和憲法ではなく、この再軍備こそ指弾しなければおかしい。しかし、アメリカに逆らえない歴代政府は、「軍隊ではない」「戦力ではない」「戦車ではなく特車だ」と、言い逃れに言い逃れを重ねてきた。「自衛隊は軍隊」と開き直り、ブッシュ大統領のご機嫌とりにイラクへ陸海空部隊を送り込む小泉首相は、こうした歪曲のなれの果てにほかならない。
しかも、イラクに対する米英の武力行使自体が、国連憲章で唯一許される自衛戦争ではない「先制(予防)攻撃」で、根拠にした大量破壊兵器もなかった。イスラム圏を含む世界の多くの人びとから見れば、石油と親イスラエル政権樹立とを目的とした侵略戦争に限りなく近い。侵略戦争は、アメリカ自身がナチスドイツを裁いたニュルンベルク裁判で、「究極の国際犯罪」と糾弾したものだ。これまでは曲がりなりにも世界の法治を支える役割だったアメリカが、9・11の本土攻撃で道理も法律も投げ捨てて無理・無法に走る。そのうしろから武力衝突の続く戦場へついていくのは、憲法上の無理に国際法上の無理まで重ねることになる。これは日本と日本人の進むべき道ではない。
9・11事件直後、アメリカのアフガニスタン攻撃と日本の支援を考え直す材料に、友人たちと『非戦』(幻冬舎)を出版して以来、柄にもなく政治的な言葉をたくさん語ってきた。憲法や国際情勢も畑違いだ。しかし、アメリカ先住民文化を学んだ経験から、戦後日本国憲法にもっとも大きな影響を与えた合州国憲法が、いやアメリカの独立と建国そのものが、先住民の手を借りて成立したことを知り、憲法や民主主義への新しい目が開けていた。すべての人(先住民文化では全生命)は生まれながらにして平等であり、内面の自由に従って生きる権利をもつ。人が社会や国をつくるのであって、逆ではない。人は社会に参加し、その成員としての責任を果たすが、自分の内なる真実はつねに集団より優先され、それに反して服従を強制されることはけっしてない。そして、この原則には老若男女の差別もない。これが、北米の大地におけるリベラル・デモクラシー(自由民主主義)の淵源だった。おそらく、縄文以前の先史社会においても普遍的な「法[のり]」であり「理[ことわり]」であったろう。
このような土着の法・理は、王制や封建制より深い人間精神の自然性に根ざすため、ほとんど自明でわかりやすい。合州国憲法も日本国憲法も、この直系を引く。ここから見たとき、二一世紀に暴走をはじめたスーパーパワーの無理・無法は、アメリカ本来の国是とも、戦後日本の国是ともかけ離れている。というより現在の惨めな逸脱退行ぶりは、アメリカが大英帝国からの独立革命でやり残した万民・全生命平等の民主社会を地球全体で実現するために(もちろん一つの制度に塗り潰すのではなく多様に)、世界市民が第二次独立革命へ向かう助走の一歩後退なのかもしれない。次の一歩はしっかり前へ踏み出そう。
■海を渡る記憶■
琉球弧をリアルに意識するきっかけはアラスカだった。屋久島へ移り住んで十年目にはじめて訪れた極北の地は、私にひとつの物語を囁いた。北米とアジア/ユーラシアとのつながり――一万年以上の時間深度をもつ古い物語だ。
氷河期の最大一〇〇メートルを越える海面低下により、ベーリング海峡は南北一〇〇〇キロもの幅の広大な陸地で結ばれていた。考古学では「ベーリンジア」(ベーリング陸橋)と呼ぶ。寒冷地適応を果たした先史モンゴロイド狩猟民が、そこを歩いて渡り、「最初のアメリカ人」となる。この定説と、自分なりにアラスカの大地から得たインスピレーションをもとに取材を重ね、思春期の少女を主人公とする小説『ベーリンジアの記憶』(幻冬舎文庫)を発表したのが一九九五年。
ところが、書いた本人がその世界から抜け出せなくなり、現実の北米先住民たちのあいだにそのような言い伝えが残っているかどうか確かめたくて、一年がかりで聞き歩きの旅をした。もちろん、一万年のオーダーの記憶など、おいそれと出会えるはずがない。しかし、かすかな痕跡か手がかりでもつかめればと、とにかく体が先に動いてしまった。
おかげで、一生の宝になるほど豊かな経験に恵まれた。訪ねた場所も、北米から中米、ポリネシア、ミクロネシア、オーストラリアにまでおよぶ。驚いたことに、探していた伝承に近いものもいくつか見つかった。が、同じくらい驚いたのは、南北アメリカに現存する先住民族の多くが、ベーリンジア経由の“移住”をきっぱりと否定し、「自分たちはもともとここにいる」と主張したことだ。確かに、ほとんどの創世伝説がそう語る。また十六世紀以降、ヨーロッパ系住民との軋轢のなかで、「おまえたちだってアジアからの移民だとしたら先住民面するな」という強弁に悩まされ、自分たちの出自を現住地にしておきたい政治的配慮が働いている節もないではない。
もうひとつ、聞き歩きでわかってきたのは、ベーリンジア横断のような陸路ではなく、海路による民族移動の伝承が少なからず存在することだった。いまなお独特の海洋文化を守るハイダ族ほか北西部の沿岸インディアン(「インディアン」はコロンブスの誤解にもとづく蔑称で「アメリカ先住民」と呼ぶべきだとの正論があるが、北米先住民自身は堂々と「インディアン」を自称する場合が多く、本稿ではこだわらない)はもとより、南西部の砂漠に住むホピ族や、東部山岳地帯を本拠としていたチェロキー族なども、来歴の最古層に大渡海の物語をもつ。従来の考古学では、一万年以上も前に外洋を渡るような航海技術があったことを想定しないけれど(例外は、四〜五万年前に当時の狭い海峡を越えてオーストラリアへ渡ったアボリジニの祖先)、先住民たち自身が言い伝えてきたなら耳を傾けるべきだろう。当初、ベーリンジア・ルートしか頭になかった私も、だんだん古代の潮路に心を惹かれはじめた。
決定的だったのは、一年間の旅の終わりに立ち寄ったハワイで、古来の大型双胴帆走カヌーを復元し、近代計器をいっさい使わない伝統航海術によって、ポリネシア人の来歴を跡づけた実験考古学の積み重ねに出会ったことだった。一九七〇年代から行なわれた一連の復元航海は、ハワイ先住民を含むポリネシア人の起源が、「コンチキ号」の冒険航海で一躍名を馳せた人類学者ヘイエルダールの説く南米ではなく、ポリネシア人自身の伝承どおりアジアにあることを、ほぼ実証した。おそらく中国南部を原郷とする海洋民が、台湾、フィリピン、インドネシアなどを経由して、メラネシアで本格的な外洋航海の技術を磨き上げたのち、南太平洋の大海原へ旅立った。古代の宇宙旅行に匹敵する。
ちょうど同じころ、北米北西部の沿岸インディアンたちのあいだでも伝統カヌー復活熱が起こり、九〇年代に入って四年に一度、バンクーバー島に漕ぎ集まる祭典へと発展した。ポリネシアの双胴帆走カヌーも、北西部沿岸インディアンの大型単胴カヌーも、基本的には丸太を手斧で削る刳り舟だが、その洗練度は「丸木舟」という先入観を吹き飛ばす。
こうして古来の渡海術に魅了された私は、屋久島へ帰るや、同じく古来の潮路としての琉球弧に目を開かずにはいられなかった。なかでも、種子島でつい最近まで使われ続けた美しい丸木舟と、沖縄のウミンンチュたちが駆使するサバニは、日本人の来歴に深くかかわるばかりか、環太平洋の海洋文化全体と直結する鍵だろう。琉球弧から南九州にかけて先行発達した縄文草創期の担い手は、刳り舟を乗りこなす海洋民だった。この海の道をだれが渡ってきたのか、これからだれが渡っていくのか――過去は未来の記憶でもある。
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