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(回答先: 【参照川柳添付】色あせぬ『反戦川柳』鶴彬の業績たたえるかほくで集い【北陸中日新聞石川版】 投稿者 傍観者A 日時 2004 年 9 月 23 日 04:08:35)
http://ch.kitaguni.tv/u/5028/%bb֤%a2%a4aeb%a4ee2%a4%ce/0000126647.html
治安維持法と闘った反戦川柳作家、鶴彬(つるあきら)って誰?
【 1930年鶴彬が収監された衛戌刑務所跡 】
http://homepage2.nifty.com/mi-show/peaceright/osakajou.htm
石川県高松が生んだ川柳作家 鶴彬 、
http://www.machikado.npo-jp.net/tsuruakira.htm
彼の短い人生は権力との戦いに費やされた。憲兵により拷問されようが、戦時中に反戦川柳を貫きとおした、そのどれもが鮮烈で強烈な作品ばかりである。そのため、権力は彼を転向させようとやっきになったが、その信念はついに暴力に屈しなかった。
1926年(17歳)
・半球の闇を地球は持ち続け
・さやのなき刃いつしか人を切る
1928年(19歳)初めて「鶴彬」の名前で柳詩『氷原』で作品発表。関東軍による張作霖暗殺事件。金融恐慌。
・腕を組む 仲間に鎖 ぶち切れる
・兵隊を つれて坊主が 牢へ来る
・軍神の 像の真下の 失業者
・稼ぎ手を 殺し勲章で だますなり
1930年(21歳)陸軍2等兵として『金沢第7連隊赤化事件』に連座し 陸軍大阪衛戌刑務所
http://ha4.seikyou.ne.jp/home/jouhoku/heiwa/oj-eiju.html
に収監される。
1935年(26歳)東北飢饉身売り続出 共産党事実上壊滅 美濃部達吉「天皇機関説」弾圧
・涸れた乳房から飢饉を吸うてゐる
・凶作の村から村へ娘買ひ
・みな肺で死ぬる女工の募集札
1936年(27歳)2・26事件、阿部定事件
・修身にない孝行で淫売婦
・待合で徹夜議会で眠るなり
・半島の生まれでつぶし値の生き埋めとなる
1937年(28歳)南京大虐殺、大日本帝国に国号統一
・蟻食ひの糞殺された蟻ばかり
・骨壷と売れない貞操を抱へ淫売どりのくるふ歌
・手と足をもいだ丸太にしてかへし
1938年(29歳)鶴彬死去
赤旗 より
問い〉 先日の学問文化面のコラム「朝の風」に、勾留されたまま死んだ反戦川柳作家・鶴彬のことが書かれていました。どんな人だったのですか?
〈答え〉 「暁を抱いて闇にゐる蕾(つぼみ)」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」など数多くの鋭い反戦川柳を詠んだ鶴彬(つる・あきら、1909〜38年)は、石川県高松町生まれで、本名・喜多(きた)一二(かつじ)といいます。
「暴風と海との恋を見ましたか」というロマンチックな句をつくっていた少年が、社会運動のたかまりのなかで成長し、19歳でナップ(全日本無産者芸術連盟)高松支部を結成。反戦句をつくって戦争反対を貫くとともに、21歳で金沢歩兵第七連隊に入営すると、日本共産青年同盟の機関紙『無産青年』をもちこむなど反戦活動をし、治安維持法違反で懲役2年の刑に。
日本が中国に全面的な侵略戦争を始めた37年には、「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「高粱(こうりゃん)の実りへ戦車と靴の鋲(びょう)」「屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい」(同年11月発行の川柳誌)などの作品を発表します。その直後にふたたび治安維持法違反で、東京の野方署に留置され、翌年、赤痢に感染、勾留を解かれないまま病院で亡くなります。特高に虐殺された小林多喜二と同じ年の享年29歳でした。
出身地の高松町には「枯れ芝よ!団結をして春を待つ」の句碑が建っており、「鶴彬を顕彰する会」もつくられています。
6年前、『鶴彬全集』を復刻した澤地久枝さんは本紙インタビューに、こう語っています。
「一番最後の句が『胎内の動き知るころ骨がつき』というのもすごいことです。身ごもった赤ちゃんの胎動がわかって生まれてくる日を予告しているというのに、父親は戦死しその遺骨が届く。子は父を失い母は夫を失う。戦争をみごとに突いた句です。…警察は謝れば出すのに、鶴彬は、結局志を曲げなかった。日中戦争が激しくなった38年9月14日に息を引き取った青年は、最後まで反戦の筋を通し死んでいった。ずいぶん痛ましい、しかしみごとな人生だと思います」(喜)
〔2004・9・9(木)〕
東京の片隅で、鶴彬の葬儀は、肉親だけでひっそりと行われた。 5年前に小林多喜二が虐殺されたとき、通夜や葬儀に集まった人が片端から全員、特高警察に拘引されて取調べを受けたことは、鶴彬の関係者たちも知っている。 そのときよりも軍国主義と強権はいっそう強くなっている。 特高に逮捕されて家族の結婚や就職まで困難となる非国民になる覚悟がないかぎり、鶴彬の葬儀に参列できるものではなかった。 鶴彬のナマ原稿や書簡類は特高によって処分され、それを持っている彼の関係者の多くは特高を恐れて自分で遺棄や焼却をした。 わずかに、渡辺尺蠖《しゃっかく》が、鶴彬からの葉書や封書を大事に隠し持った。短冊や他の書簡も少しは残るが、長く他の物に紛れこんだ。 追悼文を書く人なく、抗議の声を発する人なく、ナマ原稿なし。 それで、消えた。 といえども、鶴彬の一般知名度が多喜二ほどではない理由の、その第1は、鶴彬自身とその作品、評論の過激さにある。 人々が簡単についていけないのである。 それで特高に逮捕されたころには孤塁の人となっていた。 その状況で、鶴彬は骨になった。 故郷、石川県の高松町に、家の墓はない。 鶴彬の遺骨は兄に抱かれ、兄の職場と住居がある岩手県、盛岡へ向かう汽車に乗った。 特高警察がずっとつきまとっていた。 やがて兄は、盛岡の光照寺に墓を建てた。 少年のときに死別した父親の遺骨と、同じころに早世した姉の遺骨と、そして、弟、鶴彬の遺骨をそこに納めた。 親戚を転々として成人した兄が、長男として切なる思いで建てた墓だった。 51歳のときに、この兄もそこへ入った。 そのあとに、再婚していた母親もそこへ入った。 墓所が、父親の死によってバラバラになった家族の静かなる集合地となっていった。 鶴彬の約1000句の作品や、多くの評論は、それが必要とされるときがくるまで眠り、存在「鶴彬」は虚空に霧散した。 作品は求める人のところへ現れ、「鶴彬」は必要とする人のところへ降りてくる。( ストレート蟻食いを噛み殺したまま死んだ蟻・鶴彬
http://www.ebookbank.jp/murauchi/ep/item/1-17435/
より)
『TB』
戦時下の川柳
http://blog.livedoor.jp/honamikp61/archives/5794101.html
投稿者:死ぬのはやつらだ at 04:21
こちらはどうでしょう
泉鏡花『海城発電』
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/seb%20kyouka.htm
耽美主義者ゆえに、鏡花の視点には鋭いものがあります。
真っ当な愛国者なら、蛮行を働く輩こそ国の恥・国賊ではないのだろうか。
投稿者: 黒撫子 at 2004 年 09 月 23 日 09:54:03
↑ショックでした
余は目撃せり
日本軍の中には赤十字の義務を完うして、敵より感謝状を贈られたる国賊あり。然れどもまた敵愾心のために清国の病婦を捉へて、犯し辱めたる愛国の軍夫あり。
この事件は知らなかった。日本軍による旅順虐殺事件があったと思えば、このように軍に刃向かった気骨ある日本人もいたんですね。
投稿者: 死ぬのはやつらだ at 2004 年 09 月 23 日 09:56:37
海城発電は
小説なので全て創作かもしれません。
しかし元ネタはあったかもしれませんので、今度調べてみますね。
左翼でもない鏡花がこうした作品を書いたのには、それだけの背景があったのでしょう。
投稿者: 黒撫子 at 2004 年 09 月 23 日 14:22:17
帆波
川柳ブログの帆波と申します。トラックバックありがとうございました。鶴彬についてはいずれまた取り上げる機会があると思います。特高に逮捕されたきっかけが、他の川柳社人からの通報だった事が悲しいと同時に、人間の愚かさを感じてしまいます。戦争の責任は全ての国民にもあったのではないかと忸怩たる思いにも駆られます。
投稿者: ゲスト at 2004 年 09 月 23 日 16:25:38
写真:
http://ch.kitaguni.tv/u/5028/%bb֤%a2%a4aeb%a4ee2%a4%ce/0000126647_img.jpeg