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リアルとしての神話〜祈りの脈動【Naaga's Voice】「川上村のダムは多くの家屋・畑・1万年の聖地を水底に沈める」
http://www.asyura2.com/0403/ishihara8/msg/301.html
投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 6 月 26 日 20:16:03:SoCnfA7pPD5s2
 

(回答先: 聖地の終焉〜我等の時代に:丹生川上神社旧上社の水没【Naaga's Voice】「私達は一つの終わりにさしかかっている」 投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 6 月 26 日 19:47:14)

[引用: リアルとしての神話〜祈りの脈動 2002年年5月13日


三川合流の地。左から三尾川、右から木津川、
向かいに見える橋の奥から日裏川。
天の川に行きて雨を祈ること:陰陽師

 前回のNaaga`s Voice『聖地の終焉〜われらの時代に』を書いた後、ずいぶん悩んでから下記のようなメールを幾人かの友人たち宛てに送信した。

長屋和哉です。いつもお世話になっています。
さて、お知らせしたいことがあり、メールを書いています。
先月、吉野の天河大弁財天社で『地球交響曲第四番』の奉納上映が行なわれた際、半年ぶりに僕は吉野を訪れました。吉野には僕の音楽活動の拠点である川上村があり、奉納上映にはそこから出かけたのですが、そこで、久しぶりに地元の方たちとお話しをする機会を多く持ちました。そうして改めて気がついたのですが、いよいよこの秋から、川上村のダムに水を溜め始めるのです。

川上村のダムは、多くの家屋と畑と、そして、旧丹生川上神社の社地を水底に沈めます。


ありし日の川上神社
吉野へようこそ

その神社は数年前に移転しており、その後、跡地の発掘調査が行なわれました。調査の結果 、神社があったその地からは大規模なストーンサークルも発見されており、その地が1万年もの太古からの聖地であったことが判明しました。縄文時代早期からの、人々の精神と魂の拠り処であったのです。
その1万年の聖地が、水没します。
おそらく、もう僕たちが生きている時代には二度と、その地に立つことはできないでしょう。それは、あと数カ月で水底に消えてしまいます。

そのことを、少しでも多くの人たちに知ってもらいたくて、こうしてメールを書いています。

旧社地の拝殿
奥に本殿が繋がっていた
丹生川上神社

一体、僕たちはいま、何を失いつつあるのでしょうか? そしてこれから先、どれほど多くの大切なものを失ってゆくのでしょうか? 1万年の聖地をわずか40年足らずのダム建設で失ってしまう僕たちの世界は、まるで自身の記憶を自らの手で葬ろうとでもしているかのようです。
そして、昨年は同時多発テロがありました。その後、米英によるアフガン空爆がありました。これらの出来事と、僕たちの聖地の水没とは一見何の関わりもない事象のようですが、しかしそこにある問題は同じ根を持っています。
その問題とは、世界の富が一極集中する経済システムです。そして、それによって不平等に虐殺され、収奪される人々や、環境や、文化が存在するということです。まるでこの経済システムは、神話時代さながら「荒らぶる邪ましいモノ」のように、生命を育むすべてのものに対立しているようです。

一万年の聖地が失われること。
もし、皆さんの知人・友人たちの中に、このことについて御興味のある方がいらっしゃったら、ぜひお伝え願いたいと思うのです。そして、一人でも多くの方と、その意味を一緒に考えていきたいと思うのです。一人でも多くの方に、このことを知っていただきたいと思うのです。
そして、もし、その聖地に自らの足で立ってみたいと思う方がいらっしゃるようでしたら、おそらく夏頃までならば大丈夫でしょう。吉野のほうへ行かれる機会があるようでしたら、ぜひ足を運んでみてください。
なお、失われる聖地について、僕は自分のホームページに短いエッセイを掲載しました。読んでいただけると幸いです。
タイトルは、『聖地の終焉〜われらの時代に』 2002年年5月2日 といいます。
長々と書いてしまいました。すみません。
再会を楽しみにしています。
それでは!        (2002/5/3 wrote by Naaga)

 このメールの送信をためらったのは、いくら相手が友人たちとはいえ、多数に向けて僕のオピニオンを一括送信することに対するある種の後ろめたさがあったからだった。そして、自分があまりにも独善的であるような気がし、しかも声高に意見を言うことに僕自身が慣れていないせいもあって、このメールを書きあげてからしばらくの間、じっとその字面 を眺めてばかりいた。
 だが結局、送信ボタンを押したのは、それでもやはり、多くの人たちにこのことを知ってもらいたかったからである。一体いま、僕たちのまわりで何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか、それを糾弾するしないに関わらず、少なくとも「知」だけは明瞭であってほしい。そして、多くの人たちの意見や思いを聞いてみたい。そう思ったのである。
 僕たちのまわりで、いま何が起こっているのか。それを知ることはそんなに簡単なことではないだろう。あまりにも多くのことが、僕の知覚をすり抜けている。そう、すり抜けているのだ。情報はなかば公然と公開されているにも関わらず、僕の知覚はそれを的確に捕らえることができないでいるのだ。
 これは蛇足だが、例えば現在、議論が進められている有事法制にしても、僕の頭から離れないのは、1997年9月に制定された「新ガイドライン(日米防衛協定のための指針)」である。この軍事マニュアルが実効性を持つためにどうしても必要なのが今回の有事法制なのだが、1997年9月といえば、サッカーワールドカップのアジア最終予選で日本じゅうが大騒ぎをしていた時だった。メディアはろくに新ガイドラインについての報道をしないまま、サッカーの話題ばかりに集中していた。そして今回、有事法制が制定されようとしているこの時、まさに再びサッカーワールドカップで日本じゅうが色めき立っているのだ。これは果 たして偶然なのだろうか。
 ともあれ、僕の送信したメールに、幾人かの友人たちが意見を述べてくれたり、感想を書いてくれた。近いうちに、彼らの思いをこのホームページに載せたいと思う。どうもありがとう。そしてもし、これを読んでくださった方々のうちで、ご意見やご感想のある方はぜひメールをくださいませ。お待ちしています。



 さて、前回にも書いたように、旧丹生川上神社上社の跡地からは江戸時代の遺構からはじまって、縄文早期の遺跡や、中期の大規模なストーンサークルまでが発掘されたのだが、ほかにも一つ、とても大切なものが発見されている。
 だが、それが見つかったのは、土の中からではない。
 それは、御神木の中から見つかったのである。
 神社の遷座に先立つこと数年前、社地には数本の巨木が天を突くようにそびえていた。根元の直径はおそらく3メートルくらいだろうか。現在の跡地にもまだその根だけは残っていて、その大きさを実感することができるのだが、かつてはそれらの巨木の緑が本殿の屋根を覆いつくしていた。
 それらの巨木は、遷座のため、早々に切り倒された。
 巨木の材が一体その後どうなったのかは知らないが、業者がその巨木を運搬のために細かく裁断していた時、チェンソーの先が何か固い塊にぶつかったのだった。
 その固い塊は、一個の石だった。
 人頭大の石。御神木は、その石を内部に抱いたまま成長をし、天を突くまで巨大になったのだった。そして、神社がなくなろうとする時にいたって、ずっと抱いたままでいたその石を僕たちの目に晒したのである。
「この石は、神さまみたいなもんです」
 そんな意味のことを僕に語ってくれたのは、現在の丹生川上神社上社の宮司である平田さんであった。平田さんは、巨木から出てきたその石が社地に放り出されているのを見ていたたまれず、現在の拝殿の中にお祀りするようになった。『この石は御神木の中から出てきた尊いものです』といった意味の説明を付け、誰もが手に触れ、持ち上げることができるようにした。
 ところが、この石にはじつは謎がある。
 それは、この石の来歴である。これは、川上村あたりで採れる石ではないのだ。つまり、どこかよその土地から、わざわざ丹生川上神社まで運ばれてきたものなのだ。一体誰が、何の目的で運んできたものなのかはわからないが、ともかく御神木がまだ成長する以前、はるか昔に誰かがよそから持ってきたことだけは確かなのである。
 御神木の年令は、およそ数百年ということだった。おそらく鎌倉時代から室町時代に植えられたものだという。だから、その石がもし御神木に添えられて置かれたものならば、鎌倉時代以降に持ってこられたものだし、逆にその石に添えるように御神木が植えられたならば、それ以前に運ばれたものなのだろう。どちらが正しいのかはわからない。だが、ひとつだけ言えるのは、御神木が石を内部に抱いてしまうという長い時間の過程において、誰もその石を動かそうとしなかったことだ。それは百年くらいの時間のかかるプロセスだろうか、あるいは数十年のプロセスだろうか、いずれにしても、石はその間、ずっと御神木に寄り添い、内部に抱きとられるがままになっていたのである。
 だが、もし仮にこの石がただの何でもない石であったなら、こんな長きにわたって一箇所にとどまっているだろうか。僕が思うのは、むしろこの逆の背景である。つまり、この石には強烈な禁忌が働いていて、誰にも触れることが許されていなかったのではないか、ということだ。
 聖性が、与えられていた、ということである。
 そしてそれは、よその土地からもたらされた、ということからも想像することができる。
 旧丹生川上神社では、神武天皇が倭を征服するための祭祀を行なったという記述が『記紀』には載っているし、持統天皇が頻繁に訪れていたという記録もある。それらは、つまり古代から政治の中心人物がこの地を祭祀していたことの証明だし、もっと遡れば、ストーンサークルの存在からもわかるように、シャーマンがこの地で祭祀を行なっていたはずであるから、彼ら為政者なりシャーマンなりが、この石をよそから運んできて、ここに祀った可能性は大きいと思う。
 そして、その時点で石は神のものとされ、聖別された。
 もし本当にそうであれば、長い時間にわたって誰にも触れられず、御神木に抱かれるがままになっていたことがうまく説明できるように思う。
 さて、真相は一体どうだったのだろうか。

          *

 ともあれ、石の来歴をめぐる想像は、ここで止まらざるを得ない。これ以上は僕にはわからないし、あるいはどうでも良いことなのかも知れない。
 むしろ大切なのは、誰かがかつて、おそらく祈りを込めて、この石をわざわざよそから持ってきたというシンプルな事実だ。そして僕たちが、それから数百年も後になって、改めてその石に触れている、というその事実なのだ。
 その石の手触りは、かつての人の、祈りの手触りかも知れない。
 その石の重みは、かつての人の、祈りの重みそのものかも知れない。
 そうして僕たちは、思いを馳せるのである。かつて生きた者に。かつて祈られた祈りに。かつて祈りながら運んできたその道のりに。そして、かつて生きた者の感じた石の重みに。

          *


 そして僕は、今まさにひとつの聖地が終わろうとしているこの時になって、数百年もの眠りから覚めたように姿を現わしたこの石を、まるで奇蹟のように思うのだ。
 まるで、聖地の代役を果たそうとしているようだと思うのだ。
 とても偶然とは思えない。神のような存在の意図か、あるいはこの地を祀ってきたシャーマンたちの意図のようなものを感じるのである。
 そして、僕はこの石を通して、大きな時間の流れを感じるのだ。
 石は、僕とかつて生きた者を媒介している。その間にはおそらく目眩がするほど長い時間が流れているが、石に手を触れるだけで、その長い時間は飛び越えられる。かつて生きた者は、僕が石に触れるその手触りの中にふたたび生き始め、そして僕は彼の脈動をてのひらに感じることができる。
 それは、祈りの脈動だ。
 確かに、くっきりとした、力強い脈動だ。
 そしてすべては、新しい神話の誕生のようだと思う。聖地の大切さと尊さを担うものが、こうして今、ひとつの石に受け継がれたのである。そして、その新しい神話の語り手が、まさに僕たちなのだ。
 「現実的」に考えれば、一本の木から石ころが顔を出したに過ぎない事態だが、僕はこの事態からもっと大きな意味を汲み取ろうと思う。「現実的」であるより、いっそう「リアル」であるために、僕は神話的思考を辿ろうと思う。
 そう、いっそう「リアル」であるために。
 数万年もの間、人類がそうしてきたように。

追伸
 ここに書いた石は、新しい丹生川上神社上社に祀られていて、誰でも手にすることができます。また巨木の根もいまだ残っていて、誰もが座ることができます。
 この石が打ち捨てられていたところを拾いあげ、拝殿に祀ることにした心優しい丹生川上神社上社の宮司・平田貴教さんに、このエッセイ『リアルとしての神話〜祈りの脈動』を捧げます。

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