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(回答先: 一神教世界と日常の本 投稿者 愚民党 日時 2004 年 6 月 13 日 23:45:44)
愚民党さん、こんにちは、レスをありがとうございます。
最近、纏まったものが書けず申し訳なく思っています。しかし、またしても細切れなものになりご容赦の段、よろしくお願いします。
>「選民」は、日本の情報が現在的に集約されているのは市民社会ではなく、アンダーグランド(地下)であると、感知しているのかもしれません。
“奴ら”でさえもこちらの腕の内に抱いてしまえ、と語っていたのが嘗てのアルファンド氏でした。このフレーズは私にとって“奴ら”や「選民」について考えるときの新たな視点になったことは確かです。しかし、それを天皇制や日本的ethosで受けとめることは不可能であろうと異論を唱えました。最終的に彼らを抱くことができるのはやはり地球というMatrixをおいて他にはないのでないかと考えています。
それにしても、「選民」は何故日本に関心があるのか、どう考えても対等なパートナーとは見てはいないでしょうし、私には判然としてきません。愚民党さん、どうしてなのでしょうか。
>「共同幻想論」「天皇制論集」「南島論」「言語にとって美とは何か」など日本とは何か?などを探求してきた吉本隆明における「日本大衆とは世界最強である」言説を、おれはふと考えております。
吉本隆明が何故「日本大衆とは世界最強である」と語るのか、その真意を私は量りかねています。ただし、確か彼は旧制の米沢高専入学の頃まで、幼少期から東京の下町の私塾に通っていたことからも、師事した塾長や周辺の人々の強かな営みに映じていた日本の根に潜む活力に信頼感を覚えたのかも知れません。また、 塾の存在が若くして彼が博覧強記となっていく豊かな土壌を提供したことは想像に難しくはありません。
>おれにとって、これからたいへんなのは「マルクスという神を信仰し、世界革命・日本革命に美を見出したおのれの17歳から37歳までの時期を、いかに総括するか」です。
私が詩人である吉本隆明の一面を知るのは「言語にとって美とは何か」を手にしてからずっと後のことでした。特に初期の詩集に描かれている心象風景は「二十歳の原点」や「連合赤軍事件」の当事者が投掛けているものを受けとめようとした愚民党さんのそれと発地のところで重なる部分が多いと感じました。
さて、愚民党さんが満足のゆく総括ができるか否かは推し量りようがありません。しかし、感じ、考え、苦悶し、歓喜し、舞踏する、最後の最後まで自身で句読点を打とうする当為、それは実存の真相であると思います。きっとそんな愚民党さんを17歳から37歳に連なる物静かな群像が安らかな面持ちで囲んでいると想われるのです。
>日本とは集合的理性ではなくて、集合的感覚かもしれません。 そのバランス感覚こそが、一神教としての戦前・戦後マルクス主義革命を頓挫させたのかもしれません。
これまでにも社会の形成過程論(歴史)でマルクス主義革命を論じようとする試みは多種多様に為されて来ましたし、またマルクス理論をどう受けとめるかも国々がおかれている内外事情やそのときの国民性を抜きにしては捉えられないでしょう。
その中で、生産過程における協働は比較的成立し易いと言われ、とりわけ日本人の集団作業での協調性は特筆すべきものと云われます。その原因を探っていく過程では、日本人は労働成果の分配に関して何故事前の主張を明確にしないのかといった疑問が湧出してきます。こうした心性は日本国憲法が民定憲法であることの意義を未だに掴みきれず、法の精神を血肉化できていないことにも関係しているかも知れません。
集合的感覚は協働関係の円滑化に十分資するものであると想うのですが、分配をきっぱりと(合理的に)弁別することは難しいのではないでしょうか。協働には然るべき分配が想定できるからこそ連帯するといった側面もあり、分配状況こそ人間の本性(欲望)が表出してくるものはないはずです。元々円満な協働関係を成立させる資質を有する日本人が一神教を背景とするマルクス主義を完全に受け容れることができなかった背後には、分配に拘っては本性の開示を迫り、調整よりは裁断に傾くキリスト教的世界観にたいする抵抗感があったと思っています。
しかしながら、経済活動を中心に据える共同体経営では協働と分配は蔑ろにできない、構成員全員で整合性を図っていかなければならない問題であり、特に分配に関する吟味を捨象してしまいがちな日本人の心性の改善は主要な課題であるでしょう。それには、必然的に自らの「所有」観に対峙しなければならない事態になると思量しています。つまり、人間は何故所有しょうとするか、また一部には所有しようとしない人間も存在するのは何故か、そのような問いに繋がっていきます。
また、会いましょう。