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愚民党さん、こんばんわ。
最近、小生が学生時代に愛読していた雑誌(休刊直前の朝日ジャーナルです!懐かしいです)の対談集が、本になりましたので読んでおります。
鶴見俊輔と網野善彦「歴史のはなし」朝日選書です。
小生、むかしむかし、鶴見俊輔の「アメリカ哲学」を読んで、なんてわかりやすい言葉で「哲学」を語るんや!と感激したもんです。
哲学とは、難解な用語に守られた難攻不落の要塞のように思ってましたんで。
小生のような、軟弱な頭でもついていけるので個人的に好きな哲学者のひとりです。
(阿修羅の方からは、そんなええもんやないでー、と論破されるかもしれませんが)
網野さんは、小生に歴史の見方を大きく広げてくれた方です。解説は不要でしょう。中沢新一さんのおじさんにあたり、現在、雑誌「すばる」で『ぼくのおじさん』という、おもろい網野さんの人物像を描いています。
その、鶴見さんの文章で、小生の好きなところがあります。
「この私の中の小さな私のさらに底にひそんでいる小さなものの中に、未来の社会のイメージが
ある。私が全体としてひずみをもっているとしても、分解していけば、ゆきつくはてに、みんなに通用する普遍的な価値がある。このような信頼が、私を、既成の社会、既成の歴史に立ち向かわせる。国家に対して頭を下げないということは、私が、国会以上に大きな国家連合とか、国際社会の権力を後ろにせおっているからでなく、私のなかにたくみに底まで下っていけば国家をも、世界国家をも批判しうる原理があるということへの信頼によっている」(「方法としてのアナキズム」より)
「国家の規定する自分、会社、学校、家の規定する自分よりも深くに、降りていくと、祖先以来の民族文化によってつくられた自分があり、さらにその底に動物としての自分、生命、名もなき存在としての自分がある。そこまでおりていって、自分を現代社会の流行とは別の仕方で再構成し、新しく世界結合の方法をさがす。そこには、民族主義をとおしてのインターナショナリズムの道がある。」(「ドグラ・マグラの世界」)
思考基盤、精神基盤としての「日本語」がポピュラー英語とちゃんぽんで、ほとんどフィリッピンのようにクリオール化?してしまいそうな勢いですし、
長期的にみて、文部科学省は日本語を破壊しようとしか考えてないように見えませんし、英語を小学校低学年から勉強させるなんて、狂気の沙汰としか思えまへん。
こんな状況下で『民族主義をとおしてのインターナショナリズム』は可能なんでしょうか?